七章『星屑が消えるころ』@

 七章 『星屑が消えるころ』
 



 両親は家出していた涼を優しく迎えた。『神様のおかげね』と母は抱きしめたし、父は頭を撫でた。涼は兄に手を引かれて家に帰ることができた。
 『今晩の飛行機に乗るんだよ』、『明日から、イギリスに住むんだ』と明るい声でこれからの予定を告げる父に心底、どうでもいいと思った。疲れ切っていた。


 飛行機に乗ると、名前も知らない彼の顔が浮かんだ。ほんとうにもう一生会えないのだ。
 窓から見える日本の空港の景色を見るのも嫌になって、隣にいる兄に座席を交換してもらった。『どうして、家出をしたんだ?』と兄は小さな声で尋ねた。本当のことを言うのはためらった。適当に嘘をつけばよかったのだろうけれど、兄はもうなんとなく察していただろう。ちょうどあの少年と同じくらいの年齢の兄だからその予感があった。


 『今日飛行機乗るんやったら、見えるんとちゃうか』



 少年の声を思い出す。昼に商店街の地べたに座って天の川の話をした。窓の外を見る。そうだ、今夜は晴れている。雲も少ない。
 飛行機が離陸した。徐々に高度が上がっていき、空の中へ入っていく。この空の星を、今彼も見ているだろうか、もしそうだったらいい。と涼は静かに思った。

 離陸して数十分ほど、『緊急着陸をする』という旨の機内放送が流れた。他に乗っている人たちもざわつく。隣に座る母が『どうしましょう、あなた』と不安を募らせている顔を鮮明に記憶している。

 スチュワーデスたちが「落ち着いてください」と声をかけるも「こんな状況でできっこあるか!」と怒鳴る男がいて、次第に緊迫感が高まった。
 エンジントラブルか、ともかく機体の不備があったのだと涼は思った。機内アナウンスがもう一度入る。



 『これから緊急着陸態勢に入ります』

 スチュワーデスは頭を下げ、前にかがむように、と叫んだ。騒然としているが、みなそれに倣い着陸体勢をとる。
 涼はいつも祈っている神ではなく、彼の顔を思い浮かべた。きっと今日、彼に会えたのは……今から死ぬからなのだ。死を待つ死刑者も最後はこんな気持ちなのかもしれない。両手を組み合わせ祈る。がくん。と機体が揺り動く。衝撃に涼の体は弾み前座席の裏に頭を打ちつけた。次に目を覚ましたのは、息苦しさからだった。


 視界は黒く、重く、全身が冷たい。

 世界がひらけたと思えば、水面に顔を出した。真っ暗で真っ黒な海だった。じたばたと手足を動かして地上を求めている。涼は泳げなかった。体育の水泳はいつも補習に呼ばれる程には。


 「涼……ッ!」
 「お兄ちゃ…!」


 海の中から抜け出すように出てきたのは兄だった。涼をみつけると離れぬように力強く抱きかかえた。そうしてようやく海面上の世界を確かめる。一面ただただ暗く風が強い、自分たちが乗っていた飛行機がどこなのかもわからない。流されてきたのか、それとも夢をみているのか。兄に縋りついた。


 「涼、おちつけ。たぶんまだ、日本近海…日本海のどこかなんだ…だから、ここは日本だし…大丈夫、助かる」
 「お兄…、ちゃん」
 「飛行機からはちゃんと出られた、けど…お前が気絶してて…海に出たら風が強くて、そのまま……流されたんだと思う」


 兄の声に覇気がなく震えている。お互いひどく体が冷たい。いくら七月でも夜の海は寒いのだ。
 そのとき、遠くにぼんやりと明かりが見えた。「ねえ、お兄ちゃん、あそこ」と指をさす。真っ暗な海でそこだけ光っている。兄は「小型船…か?」と呟いた。


 「……わからないけど、人は乗ってるはず」


 兄は頷いて、涼を抱えて水の中を泳いだ。少しずつ近寄っていくとその光は予想通り、小型船だった。だが様子がおかしい。なんというか、灯りが少ないからだ。「密漁…しているのかも」と兄は言う。


 「密漁?」
 「勝手に魚を採ってるってこと。違法だよ」
 「声、かける?」
 「どうかな…助けてくれたとしても…ちゃんと引き渡してくれるか、わかん、ない」
 「でも…」


 密漁は犯罪行為で、つまり反社会勢力団体の金儲けや外国船の海域侵入が考えられる。救助されたとして公的機関に正しくたどり着けるかどうかわからない、と兄は考えていたのだろう。
 しかしこのまま海に浸かっていても同じだ。

 「すいませーん!!」

 兄は声を張り上げた。
 船に乗っていたのは数人の男たちで、引き揚げてくれた。船の中には海鮮物が網にかけられていて、兄の言っていたように密漁のようだった。
 男たちは目深くニット帽をかぶり、手には軍手をはめている。防水用のジャンパーに黒い長靴を履き、一見漁師にみえる。


 「ぼくたち、飛行機に乗っていたんですけど、その…海に不時着して……」
 
 兄は説明をはじめた。しかし男たちはみなしばらくじっと黙って、それから日本語ではない言葉でしゃべりはじめた。そして、兄の首裏を手刀で打って気絶させた。
 涼は一気に怖くなり、海へと飛び込もうとしたが羽交い絞めにされ、そこで意識がまた途絶えた。

 






 鼻の奥に突き刺さるような強い刺激的な香りで目覚めた。

 薄暗い部屋。四方をコンクリートで固め窓のない、寒々しい室内に鉄鋼資材やプランターに植物が栽培されたものがいくつか置かれ、光源は心もとなくランタン一つしかない。どこからか凍てつく隙間風が入り込んできていて寒い。海水に浸かっていたため体全身が生臭く、肌にまとわりつく感触が不快だ。


 「ここどこ…?」

 部屋は無人で、涼以外には誰もいなかった。彼女の兄もだ。嫌な予感がした。兄と引き離されて、殺されてしまったのではないか。後ろ手に縄で縛られている以外に拘束はないのでなんとか体を起こして立ち上がった。かすかに潮の満ち引きの音がした。海からは近い。

 部屋にある唯一の扉の鍵は開いていた。それが不気味だった。起きたら、来いと言われているみたいだった。扉を押し開け、廊下に出る。まだ室内だった。灯りは少なく、四隅には蜘蛛の巣が張られ、かび臭い。廊下の一番奥の扉から出ると、浜辺に出た。



 「……島?」

 空は薄青く、雲一つない。晴れていた。

 頭を振る。否、もしかしたら日本のどこかの浜辺かもしれない。しかし植えられている樹木はどことなく馴染みがない。なにより静かだった。鳥は飛んでいて、浜には小さなカニが歩いていても。人の気配、いうなれば人の手をあまり加えられていない気がした。

 涼は島を一周歩くことにした。もちろんあの場所で待っていてもよかったが、兄がいない以上独りきりでそれが危険な状態に陥っていることは間違いない。砂浜を歩くと、水気を帯びた足はすぐに泥まみれになった。靴はなかった。泳いでいるうちに脱げたのだろう。老舗百貨店で購入した良質な素材の靴下がボロボロになっている。一度地べたにすわって、指を器用に使い、二足の靴下を脱いだ。

 素足になり少し歩きやすくなった。太陽の熱で温められた砂が足元を暖かくした。しゃりしゃりと音をたて、浜辺に沿って歩いていく。
 今日が何月何日で、あの夜からどのくらい経ったのか。体感ではまだ一日か二日で、両親は無事助けられたのか、それでももうイギリスに行かなくてもいいのだと思えて、少し安心していた。


 (夢もなくて、友達も少なくて、勉強も運動もたいして得意でもなくて。…そんな私に期待している気持ちが伝わってきて、いやだった…)



 このまま、どうなってしまうのだろう。漠然とした不安が募る。
 たった十二年生きてきて、映画のような出来事がわが身に起こって、やっぱり夢でもみているのだと思う。


 (……お兄ちゃん)


 浜伝いで歩いていたが途中で切れて、島の中へ続く獣道しかなくなる。目を凝らしてみても、草木が生い茂って見通しがよくない。蛇が出るか、鬼が出るか。

 息をひそめて涼はジャングルのような道なき道を歩く。聞いたこともない鳥や獣の鳴き声がどこかから聞こえる。人の気配はまだない。涼の頭の中にはウィリアム・ゴールディングの文学小説『蠅の王』があった。無人島に漂着した少年たちが大人たちの助けを待つためにリーダーを中心に無人島生活をはじめるが、やがて人間の本能が呼び覚まされ集団が分裂し、『獣』に怯えて仲間を殺してしまう話。『蠅の王』はキリスト教における七つの大罪のなかの暴飲暴食の罪を司る『蠅の王』ベルゼブブからきている。

 涼には仲間の少年も何もいないが、この無人島のような場所で、いつ獣に襲われて食われてしまってもおかしくない。


 「あ……」

 思わず声をあげたのは、前方に建物が見えたからだ。外壁は白く、周囲の景色の緑色のなかではよりはっきりと存在を主張しているので違和感がある。建物は三階ほどの高さまであり、つまりこの中に人がいるかもしれないと涼は思った。足元に気を配りながら獣道を抜けきり、建物の入り口に近づく。門は開け放たれており、両開きのドアに鍵はかけられていなかった。


 肩で押し開けると前のめりになり、重心のバランスを崩して滑り込むように建物へ入った。膝を打ち転倒し芋虫のように転がる。
 顔をあげようと持ち上げた時、影が顔の上にかかった。


 「あの…っ」

 男だった。長い髪を後ろに流し、狐のように鋭く細い目、唇は薄く、まさに酷薄そうな人相をしている。長身で針金のような痛々しい気配に涼はたじろいだ。その男が何を考えているかわからない顔で涼を見下ろしている。

 (危ない人だ……!)
 
 一瞬でそう察して立ち上がろうとする涼の頭を、男は踏みつけた。

 「ひっ」と恐怖に染まった声が吐き出される。早口で強い語気の言葉を浴びせられるも、日本語ではない。これは中国語だった。涼は塾や家庭教師に英語は教えられていたが、中国語はニーハオだけだ。男が何を話しているのかもわからず、起き上がることもかなわない。


 「助けて! 私、気づいたらここにいて…!」
 「———? ———〜?」


 男は後頭部を押し付けていた足を退けた。涼はゆっくりと顔をあげる。男は身を屈めて涼の顔を覗き込んでまじまじと観察した。
 中国語でまたなにか喋った。「  」と。冷たい息が吹きかかる。狐のように鋭い目の奥は氷のように冷たく、死んだ魚のように黒々とした目をしている。

 「オマエ、日本ジン?」


 耳慣れた母国語が男の口から出た。「日本語、喋れるんですか…?」涼は思わずそういった。男はじっと見つめていたが「コイ」と涼の首根っこを掴んで立たせた。
 灰色の大理石の床をずんずんと大股に男は進む。引きずられるように涼は歩いた。迷路のように複雑な建物の中を右へ左へ、また右へと曲がりとある部屋へと押し込まれる。部屋に入った瞬間、耳障りな虫の羽音があたり一面に轟く。皮膚の毛穴が収縮し、全身が一気に粟立つのを覚えた。


 虫、虫、虫。


 蠅だ。蠅が飛んでいる。数えきれないほどの蠅が飛んでいる。
 黒々と部屋の真ん中に吊るされている物体に集まっている。肉だ。……黒い一部分がすこし捌けて、それが人間の手だとわかるのに時間がかかった。
 ひどい臭いがする。涼は後ろ手に縛られているために顔を覆えない。膝から崩れ落ちて胃液を吐き出した。人間の腐敗臭と透明な酸っぱい臭いがさらに吐き気を促す。


 (あの手…なに? あの手は…誰の手?)


 涼は宙づりにされている黒い蠅のたかる塊を見上げる。
 この部屋に連れてきた男が炎の燃え盛る松明を塊に近づける。虫たちは焼かれそうになるのを避け一斉にまた散らばる。その黒い塊が鳴き声をあげた。人間とは思えない獣の声だ。

 じたばたと動き、それによって蠅が離れる。人間の足がだらりと明るみになる。中の肉が抉れ、幼虫が…。涼は顔を伏せた。


 「よクみろ!」
 「ひっ」


 松明に照らされ、その人間の顔が浮かび上がる。相好は崩れてもう半分、腐りかけている。おおよそ人間の顔をとどめていないが、涼にはそれが誰かわかった。

 「うっ、うぇ……お、にぃ…ちゃ」

 なぜこんなところで、惨い恰好で…いるのだろう。涼を抱えて、あの密漁の船に助けを求めて、気が付けばいなくなって。どうしてこんな姿になっているのだろう。

 どうして。

 (主よ、どうかお答えください! なぜこのような仕打ちを受けねばならないのでしょう。兄が、彼が一体何を致したのでしょう)


 「オマエの…アニ、か?」
 「………うっ、うう」
 「コイ」

 首の裏を掴まれ涼は絶望の意識の中、男に連れられる。木で組まれた格子戸の牢屋があった。牢屋には一人の男が待ち構えていた。二人は中国語でやりとりを交わし、涼を見据えた。

 涼を連れてきた男が部屋にある棚から黒い銃を取り出しそれを涼の側頭部に突き付けた。死を覚悟した。しかしもう一人の男が声を荒げ銃を取り下げるように言ったのだろう、男は銃を一旦下げた。



 「オマエ、……ニホンゴ、教エろ」
 「え……」
 「ニホンゴ、オシエル」

 銃を持っていない男の方が言った。涼は迷っている暇はなかった。

 「おしえ、ます…っ おしえますから…」


 男二人はそろって僅かにほほ笑んだ。

 涼にはどうしようもなかった。いっそ死んでもいいと思ったくせに、咄嗟に生き延びようとした。せめて、兄がなぜあんな姿なのかを知りたい。
 家族の中で一番に涼の味方をしてくれていたのは兄だった。年が近いのもあったが同じ両親のもとで、彼もまた抑圧されているものがあったはずだ。そういう意味で悩みを共有できる存在だった。

 それに日本語を教えることは、同時に彼らの中国語がわかるようになるはずだ。涼は息をひそめた。



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