Iris. or…


 ―――イリス。あるいはエリカ。


 1993年 12月 香港



 郊外にある一軒家は濃い緑に包まれた静寂の世界の隠れ家だ。
 富裕層がこぞって住む住宅地の外れにあり、独り身で住むには些か手広く持て余しているが、吟は本の部屋と植物の部屋を作っていた。おかげで、たまの来客人たちからは『魔窟』の評価を得ている。

 数年の静養期間の最中、訪れるのは主治医のエン・ジーハオと定期報告のため本部に帰ってくるチャン・ホンファくらいのもので、人生がはじまって以来の気楽な隠居生活を送っていた。本を読み、バードフィーダーに果物を載せ、植物に水をやり、たまに眠って過ごす。
 日記を書くこと。二十二時に一度、本部からの電話に出て報告をきくことが一日に一度。本部に顔を出してサインを書くことが月に一度ある生活を営みとしている。それさえこなせば、あとはひたすら自由な時間なのだから、一生このままでいいと思うことがしばしばある。
 

 「……そういえば。結婚されたようですよ。真島さん」
 「そう」

 中庭が一望できるリビング。
 かご椅子に腰掛けた来客人の報告によって、吟はソファでうたた寝から起き上がった。
 ヴィンテージカップに淹れた紅茶を優雅に飲む。チャン・ホンファは胡乱な目つきでそれを眺めて、ため息をつきながら「しゃきっとしてください。せめて、私が帰るまでは」と言った。

 「善処するわ。……それどう? 薔薇茶なんだけど」
 「はぐらかされたような……、美味しいですよ。……ってそうじゃなくて。……よかったんですか。これで」
 「さあ」

 ホンファはカップをソーサーに置いて「すっとぼけないで」と低い声で戒めた。
 吟は彼女の言いたいことの本質を掴んでいたが、あえて明言を避けていた。四年前の夏の話だ。日本にいた最後の夏の一週間。そして、その後の怒涛の一年を経てからホンファは事あるごとに、その男の話をするようになった。

 真島吾朗。
 個人的に因縁深いと感じている男の名前だ。
 そして、吟の罪深さを象徴する存在でもあった。

 ホンファは吟以上にその実感を得ているからか、不満を口にすることが多い。今も目の前で、口元を窄めて梅干しのようなシワを作っている。

 「いいのよ。……幸せに水を差す趣味はない。ホンファなら、わかるでしょう」

 落ち着きを払った声音は却って、ホンファの不機嫌に燃料を投下したようで、やや怒気を孕んだ声音で不満を表明した。

 「もやもやします」
 「でしょうね。……だけど、お願いするわ。これ以上、水を差さないでね」
 「そりゃあ、もちろん。………知らぬが仏といいますか、無知は罪といいますか。……私は、半分保身ですし。こうして今はお役に立てているわけで」

 彼女の言葉を借りれば、『不誠実だ』と罵りたいようだった。
 彼は心を寄せる相手に好意を告げておきながら、あっさりと未練なく身を引いた。潔さとも捉えられる反面、意地がない。ホンファの場合は後者の意見だろう。

 四年もの時間が経過し、そのうちの半分は厭世生活を送っている。この生活は気に入っているし変化はない。
 彼は変化を選んだ。新たな旅立ちに胸を撫で下ろした。

 「……もうすぐだわ。そろそろ、この揺り籠生活ともお別れよ。……覚悟はできている」

 今日の報告には初期微動とも取れるファクトがあった。
 中東の油田資源のルート開拓に対し『お願い』と、責任者の連名に指定されていた。王はチェスの盤上のクイーンにも望んでいる。小さな国を守るために、富裕層からは石油を買い、反政府主義者たちには安くて丈夫な武器を運んでいる。

 多重の仮面と舌を使いこなしてこそ、政治というものだ。

 「あなたは、変わってしまった。……いいえ、私たちが変えてしまったんでしょうか。……あなたの目には、なにが見えてるんです」
 「…………」

 吟は、一つの希望を見出していた。
 運命を変えた男も、変えてしまった男も、彼らを憎むのに疲れてしまった。廃人となった女に与えられた希望が、これからの道標に決まった。
 返事をしない吟に、ホンファは諦めたように息を吐き、話題を変えた。

 「で、どうします、ファーザー・クリスマスは。……マーベルにハマりだしちゃって。家の中が戦場ですよ。もう……誰に似たんだか」
 「どうかしら」
 「どうかしら……って。まぁまぁ、靴下の中のレターがあったんで。これを参考にしましょ」

 ホンファは黒いビジネスバッグからカラフルなカタログを引っ張り出した。付箋のついたページを見開くと、男児向けの商品がモデルの子どもと並んでいる。人差し指の置かれたところには、ピカピカの塗装が施されたラジコンカーがあった。

 「ラジコンカー?」
 「でしょ? ……男の子のだって言ってるんだけど、本人はそれが一番いいって」
 「好きなようにさせたら?」
 「……あなたまでそう仰っしゃりますか。この間、家に遊びに来たお友達に、『バービーがいない!』って言われちゃって。ヒーローで我慢してねって宥めました。で、ヒーロー同士でママゴトがはじまって……学校じゃきっと変わった子扱いされてるわ、はあ……」

 ホンファは半月をアメリカで過ごす。
 アメリカ籍のイギリス人の夫が子供の面倒を殆どみて、それなりの幸せそうな家庭を築いている。
 
 「子煩悩ね」
 「親なんてこんなもんです」

 去年、隠遁生活の合間にアメリカの家を訪ねたとき、その子供と会った。幼年スクールに通い始めた小さな女の子で、庭に備え付けてあるブランコで遊んでやったら痛く気に入られてしまった。後日、ホンファから『また会いたい』と伝え聞いていたが、今後復帰する見込みがあるなら、簡単に会えなくなるだろう。

 「クリスマスカードは書くから。もう少し待って。二日後に南ア? ケープタウン?」

 クリスマスカードは今年で二通目になる。
 スケージュールを尋ねれば、急に思い出したようで「ああ、嫌だ」とうんざりした顔つきで盛大なため息をついた。

 「そうです。はあ……アイツも人使い荒いんだから。ボルダーズビーチでペンギンに追いかけられてきます」
 「じゃあ明日までに用意するわ。アフリカの仕事が終わったら、そのままクリスマス休暇に入って」
 「謝謝〜。あー。管理院の責任者が、大姐に替わってよかったって思いますホント。王大哥は人間が呼吸して生きてるってことを忘れてますよ」
 
 腕時計を見ながら軽い文句を口にして、ホンファが立ち上がる。
 定刻だった。身支度を整えて、部屋を出ていく背中を見送った。

 「あ、それはあげます。もう一冊ありますから。プレゼントのアドバイスお待ちしています。……それ、と。お土産はルイボスティーですから。楽しみにしててくださいね。よいクリスマスを」
 「よいクリスマスを」

 吟は、灰がかった色の室内から外を眺めた。
 小さなテーブルの上には鮮やかなカタログのページがぼんやりと光っている。
 
 「家族」

 モデルの二人の男女と三人の子供が遊んでいる。写真は『家族』のように見えた。
 チェストの引き出しから、去年買った余りのカードを手に取った。








 1994年 1月


 暖かい冬の香港に雪は降らない。鈍い黄金色の光がせいぜい揺らいでいるくらいで、肌寒い秋が長く続く過ごしやすい時季になる。
 亜熱帯の街を見下ろす一軒家の寒々しいフローリングの上でエアメールを広げる。厚めの紙の表にはロケットとスターをあしらったポップなデザインと、米国からいくつもの経由を挟んでここまで旅をしてきた傷やシワがほんのり旅情を感じさせる。

 「どうです? あ、お土産届きましたか」
 「ええ。……レターも読んだ。写真もありがとう。大きくなったわね」
 「可愛いでしょ?」

 電話口では耳馴染みのある彼女の明朗たる声が反響する。女の視線は手元にある同封された写真に注がれている。色濃い彼の色彩を宿した小さな少女。機嫌よく口周りと手をべっとりとトマトソースで汚しているところをこの電話主のホンファが撮影したものだ。そしてたった今も、その少女は傍らでご機嫌を振りまいている。

 「ママ〜! あそぼぉよ〜。ハルク! ハルク!」
 「はいはい、ちょっとだけまってね〜」
 「誰とおはなししてるのぉ?」 
 「ママの大切なお友達」
 「おともだち〜?」

 子供は親の関心を引き留めたくてたまらない。誰かと話しているだけで羨ましく妬み、服の裾や手を力加減などお構いなしに引っ張る。ホンファが「痛い痛い」と降参して、電話そっちのけで少女の関心に応えた。

 「ソフィーとアビーとクレア。あと……ジョー? だっけ?」

 ソフィー、アビー、クレアとはクマのぬいぐるみに名付けている三匹、ないし三人の友達の名前である。
 数ヶ月前の手紙に手押し車に三匹のテディベアを載せて笑う写真が入っていた。記憶の引き出しから引っ張ってくる。もう一匹、一人が足りない。

 「ジョーイよ」
 「そう、ジョーイ! 大切にしてるでしょ? マイ・プリンセス」
 「うん!」

 ジョーイは新入りだ。ピンクがかったブラウンの毛色と白いリボンが首元に太く結ばれている。
 クリスマスにプレゼントした。
 しばらくのやり取りを聴いて、気が済んだのか少女のはしゃぎ声が遠のいていく。

 「喜んでますよ」
 「聴いていたわ」
 「一度、会いに来ません? あー……写真越しじゃなくて」
 「どうしてほしいの」

 ホンファは度々アメリカの訪問を望んでいた。
 彼女の考えていることはおおよそ理解できた。小さな一人娘のために、そして吟のために。あわよくば聞きたいだろう。『愛おしい子と傍にいたい』と。母親としての性善説を期待していることはよく伝わっていた。

 「私は、ノイズなの」
 「は?」
 「雑音。不必要な」

 ホンファは答えに窮した。
 彼女にしてみれば悲観的な物言いで、この話題への釣り針としては失策だと思い知ったようだった。
 
 「あの子を捨てた人間が、気分をかえて人生に干渉することは不味いの。無であるなら貫いたほうがいいわ」
 「……どうしてプレゼントを贈ってくださったんです? それはつまり、すくなからずとも……あるってことでしょ?」
 「あるって、なにが。愛が? 幸福が?」
 「そう」 
 「義理立てよ」

 ホンファの深呼吸の音がしばし続いた。長い付き合いの間に彼女は処世術を身につけた。怒りへの冷却行動。いやらしい挑発に対して、ホンファはいつも「あなたは頑固で意気地なしで冷酷な女」だと罵った。彼女の嘘のないところが好きだった。そう言われても吟の中で揺らぐものは何もなく、その通りに頑固であるし意気地はないし、情が希薄な女に映えるだろう。

 「ここまでひどい人だと思わなかった」
 「見込み違いだったわね。………母親は子供を愛するべき……?」
 「当然です」

 力強い断言は眩しかった。ホンファとて波乱ある人生を持つ。様々な葛藤を克服して多くの人の望む、理想的な回答を唇に灯すことができるほどの境地に達している。折り合いをつけ、諜報員の仕事に時間と活力を捧げている彼女から発せられるそれを羨ましいと思った。

 「どこから愛は生まれるの?」
 「え?」
 「姿、形、名前、人種、郷里、国籍、惑星……属しているものを同一としているから? 違うわね。だって人は争うことで資源を獲得し貧富を生む。生きるための生存戦略と血液でしかない。たまたま同形質の血が錯覚に陥らせる。愛は、錯覚なの。そこにある気がする幻想。まやかし。共同体を円滑に保つための仕組み。……私は共同体になれないし、そこにいてはいけないノイズなの」

 ホンファは混乱をきたした。
 それはあまりに饒舌でまるで初めから決まっていたセリフのように流暢であり、一度も知ることのなかった女の本質だったからだ。

 「わけ、わかんない。貴女は……どうしたいの?」
 「ノイズの除去」

 電話越しに息を呑む気配に吟はすこしだけ意地悪な顔つきになった。
 そう言えば、彼女はようやく知るはずだ。お前たちがこの女を利用せず、しっかり殺していればよかった。有象無象の死骸の一つに数え上げていれば、今日の混乱も苦悩もなかった。『獣』なんてものを生み出して植え付けておいて迷惑だというなら、今からでも消してしまえばいい。

 「言ったでしょう。なんども。……彼らにこの関係を知られたら、その子はモルモットになるんだから。私は何も望んでいないわ。あなたのお節介よ。なにもしなくていい。これまで通り。あなたの娘のためのプレゼントと手紙は贈るし、あなたが話したがるのろけ話を世間話と一緒にきくわ」
 
 静寂のむこうで少女のはしゃぎ声が木霊する。
 通話はいつの間にか切れた。ホンファをおもえば恩を仇で返すような仕打ちだ。嫌気がさして、あの小さな娘を殺してしまうかもしれない。どうしてだか、彼女は女を好いていたし一定以上の心の隙間があった。吟のためになんでもしてくれるだろう。その一心で引き受けたが、信用が失望に染まれば少女の価値は下がる。

 イリス――、エリカが消えれば問題は消える。二人の間を歪めるアンバランスな秤を気にしなくて済む。
 吟はまた自嘲気味に笑った。遠回しに小さな命を終わらせようと仕向ける心理誘導。悪魔が笑っている。これも『獣』の仕業ならいいのに。
 





 芍薬ははじめからその庭に咲いていた。
 薬物中毒の静養に与えられた隔離所はいわくつきの物件で、高名な学者が亡命時につてで匿うように依頼され用意したものらしい。
 彼はある日忽然と姿を消した。たくさんの植物とお気に入りの蔵書たちをのこして。



 
  1989年 11月

 記憶の糸は、めずらしい夜雨に苛まれ散らばった大小ばらばらの本の海を彷徨った。
 眠りを妨げるものの理由ははっきりしていた。計画が動きだしたからだ。

 王汀州から優秀な部下を引き抜いた。彼は王吟の主治医ですべてを委ねていた。この五八日間の不調を看過するように命じ、裏で根回しした段取りに従って出産をサポートするように打診した。打ち明けたとき彼は気が利く男を装って祝福の言葉をかけた。

 「おめでとうございます」

 耳の奥の残響が胸底に杭を打つ。
 箱庭の部屋は深海を思わせる静寂に包み込まれてもなお、彼だけは別世界にいるみたいに軽やかな賛辞を述べた。
 子供を持つことは健全であり、尊く、幸福の象徴であると信じてやまない種族の本気の言葉を害する気力も乏しく「ありがとう」と建前を口にした。

 「復帰後の予定をすべて延期して。このことはあなたとホンファしか知らないわ」
 「もちろん」
 「食事メニューの調整をお願い」
 「はい」
 「………知りたくないのね。これが誰との子供なのか」
 「見当はつきます。おおよそね」
 
 ジーハオは踏み込まない。余計な推測を口にしない。そういうところが王汀州が好むところだろう。そして吟の今後の計画には必要不可欠な人材だった。秘密を口外せず、安全を保障する。手となり足となる労役を担う。本来その役割は父親と呼ばれるものが務めるべきであろう。
 主治医である彼への依頼はせめて生活の一部分だ。残りの欠損部分の補完は幸いにして休養の身の上だから助かる。

 しばしの沈黙を待ち、吟はかねてからの計画を推し進めるための最初の布石を打った。

 「ジーハオ。……明後日から米国のマッチェンスクエアに入職して貰います」
 「私が? いきなりですね。そう仰るということは……こちらもお膳立て頂いてるわけでしょうね」
 「ええ」
 「マッチェンスクエア……ジョンソン・バイオロジカルセンター管轄の遺伝学研究所、あなたの考えている目的察しがつきますが……あまりにも独断が過ぎるのでは?」

 苦笑いを浮かべて吟の命令を咎めた。
 想定内の反応に吟はくすりと笑った。ジーハオにとって王汀州への背信行為だ。

 「一ヶ月以内に機関への出資企業を買収が完了します」
 「本気ですか?」
 「そしてあなたも買収します」
 「……やられましたね。……背信行為だと理解していますか? 私は金では動きません。小切手は無価値です」

 ジーハオはそれまでにこやかだった皮を剥いで冷ややかな視線を浴びせた。
 
 「エン・ジーハオ。あなた本当は一度だけ医療ミスを犯したことがあるでしょう」
 「……揺する気ですか」
 「ええ。脅迫よ」
 「そこまで調べがついていて残念ですが……時効超過しているんです。いくらでも届け出ればいい。ヤブ医者の箔がつくだけです」
 「あなたはたった一人の子供のためにそうした。でしょう?」
 「………と、いうと?」

 エン・ジーハオについての調べはついている。悪人仕草の王道を振りかざす吟の意図通りにはなるまいと受け流そうとする働きを吟は感じ取っていた。
 彼ははじめから医者だったわけではない。

 「彼女は病院にいるわ。そこで働いている。受付事務で。……下の兄弟の学費を負担してる。……二人の弟は首都医科大の小児科と外科医を目指してる。……貧民窟にいたろくでなしの父親のために売春をして医療費をあなたに託したけれど失敗した。あなたは医者を騙り医療行為をしていた」
 「………」
 「それで? 答えは?」
 「ひどい人ですね。……卑怯だ」

 吟はソファから見上げた男の隠しきれない動揺を悟った。あとひと押し。そっと指先に力を加えるように言葉を紡ぐ。相手にとって触れられたくない部分をなぞり弄び誘引する。エン・ジーハオの心のしこりを取り除き、別の解釈と錯覚を与える。まるで心に寄り添われたかのような気持ちにさせる。彼にとって、潔癖ではない過去は人を救うたびに痛感するものだから。
 
 「父親が死に、子供たちは施設で養育されることになった。受け取ったはずの手術費を葬儀代と寄付にあてた。……もしあなたが父親を取り上げなかったら、彼らはあのまま日々酒に入り浸って暴力を振るう男の元で死んでいたかもしれない」

 ある貧困の巣窟に三人の姉弟がいた。
 子供たちは日々、空腹と寂しさと怠け者の父親を養うために犠牲を強いられていた。エン・ジーハオの過去も似たようなものだった。同情から生じる偽善で間接的に子供たちを救うため父親を殺めた。秘めやかな罪を彼は隠し通せたと思っていただろう。

 ジーハオは心底恨めしそうな顔で吟を見下ろした。はじめて彼の本当の嫌悪に触れた。それはきっと彼の妻とて知らない表情だ。

 「一つ目的を教えてください。望みはなんです?」
 「あなたは子供たちの……いいえ。昔のあなたのためにそうした。でしょう?」
 「………と、いうと?」
 「やり直しをした」
 「まさか。そんなものは後付けの解釈だ。でっち上げならご遠慮願いたい。私をこれ以上暴かないでください」

 壁が建てられた。透明不可視の防衛ラインを前に追求はそこまでだった。吟は見透かしたように目を細めた。

 「明日、九龍公園に一五時。彼女が待っている」
 「用意周到ですね。都合が良すぎる」
 「違うわ。ヤン・ユーシー本人からの申し出があったの。ぜひ、お礼をしたいそうよ」
 「……」
 「あなたが行かないなら私が代わりに会うつもり」
 「……危険だ。……彼女に何を吹き込むつもりかはわかりませんが」
 「そう思うなら行ったほうが賢明ね」

 ジーハオは苦しそうに一言「考えさせてください」と言い放った。
 翌日は昼頃からチャン・ホンファの来訪があった。雑務方面の代理は彼女に任せてありその経過報告が目的だった。到着は一二時前と通常より早い。先日、電話口で体調不良の事由の真相を打ち明けたからだ。その当時彼女は地球の裏側にいて、大きな仕事の途中だった。忙しないのは来訪を告げるインターホンよりも、外の駐車音ではっきりわかった。

 いつもよりも多い呼び鈴の回数。合鍵を持っていることに気づいてガチャガチャともたついている姿が目に浮かんだ。息を切らしながら部屋に駆け込んで開口一番を予想した。

 「大姐!! あ、あれは、どういうことですッ?」
 「ごきげんよう。慌てん坊さん。そのままの意味よ」
 「先月……いえ。そうじゃない、そうじゃない。私が怒りたいのは! その体で船で往復したってことです!! 気づいてましたよね?!」
 「そうね。でもあなたは南米のプロジェクトの山場だった。タイミングを見計らったの」
 「オハイオには何をしに?!」
 「気が利かなくてごめんなさい。今お茶を用意するわ」
 
 「話をはぐらかさない!」と彼女は吠えた。
 ソファから立ち上がろうとする吟を押し留め、勝手知ったるキッチンで湯を沸かし始める。ホンファはいつになく苛立っていた。

 「真島さんとの……ですよね?」

 ジーハオとは違い遠慮がない。
 ホンファはきっとこのことを彼に秘密裏に告げるだろう。吟にとってそれは都合の悪いことだ。告白の時期を最大限に遅らせたのもそういう理由だ。綺麗に別れておいて、今更身勝手な理由で彼を呼び戻す動機になるなら具合が悪い。計画に彼は必要ないからだ。むしろ頓挫する要因にもなる。

 「お願いがあるの。他言しないでほしい。彼に」
 「どうして? 迷惑だとお思いですか? 知っていますよ。私は。彼は軽はずみで好意を告げるような軟派者じゃありません」
 「……危険よ。彼へのマークはまだ外れていない。それはホンファの方がよくわかっているでしょ。狼狩りは続いてる。……これ以上あなたの名前を借りて庇ってほしくないの。……日本での任務に差し支える……そうなったら……」
 「そうなったら、なんです」

 吟は俯いてそれらしく振る舞った。
 ずいぶん、嘘をつくのが得意になってしまったと毒づきそうになる。

 「あなただけだもの、頼れるのは。……彼と通じているのはあなたしかいない。悟られたらどうなるか……。だから今ヘマするわけにはいかないの」
 「……大姐……」

 ―――だから誰にも言わないで。このことを知っているのは、あなたとジーハオしかいないんだから。

 ホンファは信じた。自分の軽はずみな行動がかえって二人の関係性を壊す。ほとぼりが冷めきるまで告げては不味いなら従うしかない。
 吟の巧妙な働きかけによってホンファは真島に黙秘を貫いた。不用意に吟のいる香港に招いては勘付かれる。いずれ監視は解かれるだろうがそれは今ではないなら十分だ――。


 深夜。鏡の中の己の顔をみると、明らかに顔が違っていた。
 陰気臭くすべてに諦めのみえる、ただ一つの恐ろしいほどの煌めきを瞳に宿した女の双眸。

 ホンファには親権を委譲し、枷となる責任を与えればますます打ち明けにくくなるだろう。

 次の予感が頭に降ってくる。ジーハオはヤン・ユーシーと会ったあと、アメリカへ発った。終着への道に一歩また一歩と近づいていく。
 十二月には静養地をアメリカへ移す。事業計画の一環と偽って。王汀州を欺くことさえこの頃の吟にはお手の物だった。
 

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