浜風がなだらかに吹き砂とともに頁がぱらぱらと捲り上がる。
宵が明け陽は幾度昇ろうとも彼は来ない。
手紙を書こうと思いついたのは、夕食後のデッキ。
サマーベッドの上で微睡みに揺られる彼の寝顔を眺めているときだった。
朝方に剃ったところにヒゲの芽が顔を出している。船のカミソリは粗悪性ではないものの、彼の繊細な肌質には合わず少し痒いといっていた。売店で買い直したカミソリとクリームで丁寧にこだわりある形を仕上げ、肌を保湿し髪のセットを解しに掛かる。鏡越しに視線が交わると照れくさそうに歯を見せて笑った。
「顔だけはエエやろ?」
「とんでもない。エスコートは完璧だったわ」
「ひひひ。……調子ええこと言いよって」
バスローブをガウン代わりに羽織った真島は寝台の上でナイトドレスの肩紐を落とした吟に近づいた。
身を屈め、清潔にした手指が軟膏を胸元から首にかけての裂傷に塗りつける。張り詰めた居心地の悪い沈黙。真剣な眼差しに晒されて妙な緊張感のある空気を破ったのは、吟が彼の柔らかく自由に下がった湿り気のある髪に触れたからだった。
「……なにすんねん」
「目が隠れるでしょう。……しっかり乾かして。風邪引くわ」
「……ガキちゃうわ。母親か」
「……変な触り方しないで」
「あぁん? 普通やろ。乳揉んどるわけやなし……」
それはそうだが、じっと穴が開くほど貧相な肉体を見つめられて耐えられるほど自信がない。
あまりに真剣な凝視に耐えきれず顔を逸らしたのを見逃さず、彼はにわかに笑み茶化した。
「なに恥ずかしがってんねん。……ほれ。ガーゼ貼ったで。擦らんようにな」
治療を終え、真島は再び洗面台へ軟膏のぬめりけを落としに消えた。吟はベッドに横になるか考えて、テーブルの上の煙草の箱がたまたま目についた。彼がいつも吸っている白とブルーの箱。その隣にはカフスボタンと男ものの時計がある。全く嗜まないくせに興味に駆られて一本取り出して傾けると、いつの間にか真島の手によって火の点いたライターが差し出されていた。
「吸わんのかい」
「ほんの好奇心のつもりだったの」
真島が指の間から煙草を抜き取ったので代わりに吸うのかと思いきや、そのまま灰皿へ落とした。不思議に思って首を傾げると「歯ァ磨いたあとやしな」と独り言のように言った。時刻は夜の十時。社交界を中座し自室へ戻ってきて、あとは眠るだけといった頃合いである。彼はとうに宛てがわれた客室に戻ることは眼中になく、その日は一日中、トランプやクロスワードパズルやチェスを借りてきて遊びに興じていた。
「お茶を持ってきて。ティーポットに入ってる」
「人使い荒い奴っちゃのー。へいへい。……また映画でもみるんか?」
「次はあなたが選んでいいわ」
「ほんまか? ひひ。こないなこともあろう思て、借りてきて正解やったわ」
悪戯顔を浮かべたとき嫌な予感が過ぎったが一度出た言葉を取り消すのはどうかと思い、渋々と真島のチョイスを信じた。
「ゲテモノ」
「ジブン好きに選んでエエ言うたやないかい。誰が見てもオモロいもんがええ」
「……」
世紀末の世界に死後蘇生の悲しきモンスターがうじゃうじゃと街中を徘徊する『ゾンビ・パニックホラームービー』のどこに面白さを感じ得ているのか、真島は時折大げさに腹を抱えて笑った。吟は冷静に「子供だましよ。もしこれが本当なら腐敗臭だけで人間側が勘づくし、後ろに振り返ってみて驚くなんてありえない」などと指摘すれば、それすらも面白いのか彼はヒーヒーと息を切らしていた。
「ほなあれや。ゾンビ側の黒幕が腐敗を遅くして無臭になるような製薬を開発しとったらオモロいやんけ」
「つまり……人間同士の勧善懲悪ってこと?」
「王道ならなァ。ハナシっちゅうのは、裏切ってなんぼやろ?」
「……どうなるの?」
「ゾンビが仮死状態で一時的に人間のリミットを解除してやなぁ……」
「長い」
「最後まで聞けや」
次の瞬間、ブラウン管の中で轟音と共に目玉をギョロリとむき出してボロボロと零すゾンビのシーンが始まった。吟の体は音に驚いて、思わず隣に座る真島にしがみつく。それに気をよくしたのか、彼は腹を抱えて大笑いした。それが近隣の客室にまで響いていないか心配になって、バシバシと背中を叩いた。
「……!!」
「いひひひ! ……いた、しばくなや! ジブン面白がっといてそらないやろが!」
その後、ゾンビ蔓延る世界のストーリーと設定にあれでもこれでもないくだらない話を交え、不服そうにしながら熱中する吟に真島は喜んだ。
一本の映画が終わり、彼は二本目をビデオレコーダーに挿入した。次こそは期待していい、というのでクッションを抱きしめてベッドのうえで疑わしげに眺めていたが、数分後、作品の冒頭を見て掛け布団を被った。
「オモロないか?」
「これならまだ……トランプをしてたほうが有意義なくらい退屈」
「……いっひっひ! 遠回しに褒めとる。……寝るん?」
消音にし映画はそのままに真島は同じ布団に這入った。
隣に別の広いベッドがあるにもかかわらず、彼は一緒に眠りたがった。人肌温かな同衾の機会の乏しい女は、自分以外の気配を身近に眠るのに少し臆病だった。背を向ければ後ろから抱え込まれ、向き合えば胸の中へ招かれる。睡眠は人の無防備かつ脆弱な時間であり、恋人や夫婦とはそれを晒してもいい関係なのだろうという考えに落ち着いたが、たとえ共寝をしようとも夢の中では孤独だろうと吟は思っていた。
「……起きてる?」
「……ああ」
いくらか寝たふりを続けた後、吟は眠れずにいた。
彼は傍らで彼の自分自身の腕を枕に映画を惰性に観ていた。
真島は生返事の後、ちらりと右眼を寄越し覆いかぶさるように吟を覗き込んだ。テレビの光を受ける彼の肌は色彩豊かに艶めいている。
「眠りたいけど眠れないとき、あなたならどうする」
「羊を数える」
「頓知は素晴らしいわ」
「やろぉ?」
肩を震わせて笑うと親指で鼻を擦った。
それから視線をうろつかせた。
「……寝れへんならそのまま朝まで……騒ぐかのぅ」
「友達と」
「そんなもんやの」
「恋人がいたら」
吟の真っ直ぐな関心に対して、呆れたように笑って低い声でおどけた。
「……知りたがりなんはええが、なんでもかんでも答えられるっちゅーわけやないで。ワシかて秘めておきたいコトがあんねん。繊細なんやで? ジブンかて根掘り葉掘り聞かれんの嫌やろが」
「友達もいなければ恋人もいないわ」
「俺はなんやねん」
「……わからない」
「……おまえなぁ……ゴローちゃんさすがに傷つくで。……マジのマジ、本気のマジやで?」
「……友達にしては知りすぎているし、恋人にしては……」
恋人にしては、未来がない。
彼ではなく、吟が。吟の行くべきところは変わらない。すべての歯車は既に動いていて、いまさら止めることなどできない。
「なんやねん。……なんでそない……傷ついた顔すんねんホンマ」
俺のほうがフラれとんねん、真島は小さく毒づいて頭を掻いた。
彼は鏡だ。彼の反応を通して吟は自分が実際どうなのか知れる。だから、『傷ついている』指摘を受けてようやく自覚に至った。そして、動揺していた。
「はっきり言うとくで。友達も恋人もおらんのはな、ジブンが拒むからや。傷つきたくない……と思っとるかしらんが……」
真島の言葉は正しい。
そしてそれにふさわしい返答は何一つ思いつかなかった。ホンファの言ったように『逃げている』のは真島の目を通しても真実なのだ。
逃げることでしか自分を守れない。突き刺さった矢は抜けず、矢を防ぐ盾もなく。自分の持つ矢じりで怪我をしている。
「……その通りよ。怖くて仕方がないわ」
「…………」
「あなたが思ってる以上に……咎人なの。ずっと、死にたいと……この世界から消えたいと願ってる。こんな事を言うと、あなたは優しさを示したくなる。哀れだと思って、私の罪を甘やかす。わかっている。……それが、あなたでも、あなたでなくても。同じこと。そうして、人がどんどん怖くなっていく。だから、逃げたくなる。……傷つけられたら人は離れていく。復讐に目覚めるかも。あるいは……忘れられていく。人々の記憶から。人類史にとってはほんの塵以下だもの。……夜は、嫌い。こんなにくだらないのに寂しいことを考える。……だから仕事をしていない時間は他人の人生や、創りモノの世界を眺めて気を紛らわせているの」
真島はわかっているのかわからないような、ただ目の前にいる女をあやすように、通りの良い髪を細長くも節くれ立つ指で、顔にかかりそうなものを掬っては絡め取っては撫でつけた。
「……こんな夜を人は寂しいというし、人肌が恋しくなるとも言うわね。それはつまり、健全なのよ。健全な人は、欲望の叶え方が上手だと思う」
「……まぁ、せやなぁ」
「愛を証明してほしい」
真島はしばし面食らった。
「……なぁ、それは……」
――どういう意味なのか、わかって言っているのか――?
吟は剃りたての髭のない部分を白く細い指でなぞり、真島のややカサついた唇を齧った。意図を察したのち、やがて口角を持ち上げた。彼はリモコンでテレビの電源を消し、サイドランプの灯りを消そうと長い腕が彷徨う。そして部屋にも宵が満ちた。