◆ ◆ ◆
尾を引く蝉の声も、もうすぐ鳴きやむ頃になる。
変わり映えのしない狭い畳の部屋から、細かく刻んだように並ぶいわし雲を見上げた。真島は夏の忘れ物に出会った、つい先程のことを思い返していた。
「……はい、冷奴。お醤油切らしてるの忘れてたの夏バテやろか」
「せやな。おう、靖子。スイカの残り冷蔵庫にあるで」
「うん。ご飯食べたらね」
靖子が小さな円卓の上の醤油なしの生姜と葱だけの冷奴をのうえに買ったばかりの醤油を垂らす。
白米、味噌汁、漬物、冷奴。質素で慎ましい食事だが、味噌汁は具だくさんだ。致し方ないと割り切って、夕飯の冷奴を危うく素で食べるところだった靖子は、冷奴を一口サイズになるようにブロックに区切るように割り、ゆっくりと掬い上げて口へ持って行く。
「なぁに、お行儀悪いの見逃して〜」
「なんも言うてへんで」
仲のいい二人の兄妹の会話は、とっくに忘れたつもりでいた七月を蘇らせる。
荒川涼は家出少女だった。きっと、あれっきりになる。あの子は根っから善良で、最初で最後の悪い子を演じた、『いい子ちゃん』だ。その少女とほんのついさっき、再会した。
九月に入ってもなお日本にいる。望み通りイギリスに行くことはなくなった。そういう意味で、決死の大作戦は成功に終わったといえる。
食卓にて、真島が神妙な顔つきで生ぬるい風の吹く外を眺めているので冴島は気になった。
「なぁ、兄弟、なにぼーっとしとんねん」
「あ! さっきの子ぉやろ? 女の子の……かわいいセーラー服やったねえ」
「女の子……? なんや、友達か」
真島は止まっていた食事の手を進めた。醤油のかかる冷奴を崩して口へ運ぶ。少し蒸し暑い日だけにその冷たさがちょうどいい。
「あほ、誰があんなんと友達やねん」
「えぇ〜? さっきあんなに楽しそうにしてたのに」
黙々と箸を進める真島に代わり、靖子が代弁する。
「スーパーの帰りに涼ちゃんと会うてな。ほら、この間言うてた子! アイス買うてて。あの制服は、代山かなあ? その子と、真島さんが知り合いで……」
「代山? 代山て、代山基督学院か? なんでそこんトコの子と兄弟が知り合いなんや。……まさか、ナ」
「ちゃうわドアホ。ほんま……たまたま……、たまたま会っただけだ」
「……関西弁忘れてるで兄弟」
ツーと言えばカーのような対の句である。
真島は生粋の関東人である。不慣れな関西弁を、彼なりの忠誠心から身につけようと日々努力しているのだが、こうして本音に近いものに触れると外れる癖があった。
冴島はまったく意外なことに首を傾げた。
真島に女っ気がないわけではない。人当たりがよく、見かけも受けがいいだろう。彼の親父と慕う嶋野にも覚えめでたく気に入られているそうだし、人間関係において寡黙とも、薄弱とも、殆ど無縁ともいえる盃を交わした兄弟分だ。
中坊の頃に出会った真島はまだ今よりもずっと細く、背は低かった。色の白さから白皙の美少年、――とまではないがやはり整った顔立ちと、その持ち前の性格から人が集まってくる性質だった。もちろん黙っていればの話だが。喧嘩好きで、純粋に強者と拳を交わすことに重きを置いてる。―――そんな、真島のことに関しては詳しい冴島が、まさか急に『代山』の女子生徒と関係があるのは見過ごせない出来事だ。
「代山って中高イッカンコウ? っていうんやろ?」
「あっこは、小学校もくっついてるやろ。キリストの学校や。……ほんまに全然わからへんな。ますます。第一、接点ないやろ、兄弟。なぁ、なんか言えや、黙って飯食ってんと」
茶碗に盛られた白米を無言の免罪符に、真島は次々と口へ運んでいる。
誤魔化したい態度とはわかりやすいもので、冴島が咳払いをすると観念したように真島は箸を置いた。湯呑に入った麦茶を呷り、肩をすくめた。
「そやから、全然なんやて。……家出しとったくらいで――……あ、待てや。兄弟、その先はあんまし言わんでくれ」
真島は口から滑り出た言葉をハッとして呑み込んだ。
冴島は片方の眉をぴくりとあげて、それから言わんとする先の文言を想像した。冴島の周囲に流布されている『噂』と符号した。それを食卓の話題にすることは、真島の立場や、靖子の楽しい気分を害することに繋がるだろうと思い、一旦捨て置くことにした。
「? どうしたん?」
「………わかったわ。よっしゃ、靖子、スイカ食うで」
「えーっ。お兄ちゃんはやい〜! ちょっと待ってて〜」
真島は白米をかき込み、両手を打つ。
完食スピードで負けて、置いてけぼりの靖子はうーんと唸って、たくあんを齧った。
◆ ◆ ◆
風呂上がりに牛乳を飲むのが真島の習慣だった。
冴島の住む風呂なしアパートの近所にある銭湯。湯上がりの一本はいつもこれだった。成長期の筋骨の発育に貢献している貴重なカルシウム源だ。いつもなら待合スペースに置かれているテレビでもみて、靖子の支度が終わるのを待つのだが、今日は違った。
扇風機が首を振りながら涼しい風を送っている下で、冴島は腕を組んで口を切った。
当然、夕食時分の話の続きだった。
「代山いうたら、その辺のガッコの不良が噂してたわ。何日か行方不明やった女子がおって、ケロッとした顔で戻ってきたいうて。身内の捜索でこのへんの土地勘に詳しいヤツに聞いて回っとったらしい。そいつの仲間が色々喋ったいうとって、まあ……一応確認しとくけど、……なんもしてへんねんな、兄弟」
真島のいる世界は綺麗なところではない。
大義名分の名を借りた、鉄火場の男の道である。真島はそうしたことはないが、女を使って商う男もいる。とくに冴島は教師を夢見ていただけあって、仁義に厚い性格をしている。弱きを助け強きをくじく。信念の強さは冴島の持ち味といってもいい。
だから冴島の『確認』の意図は、本物の『悪人』にならないことだ。
「俺はなんもしてへん。ちゅうか、俺から誘拐したわけとちゃう。――そもそも、あの子が連れてってくれてゴネたんや。しゃーなし、っちゅうか……もちろん、兄弟が言いたいことはようわかるわ」
一瞬、冴島の眼が据わった。
理由はどうあれ、その行動を評価するのは世間や他人だ。――実際に、荒川涼の兄は最初、真島を疑いの眼差しでみた。その状況で最も『強い』人間の解釈が『勝つ』ことを、この世界に入ってから知った。それが、たとえ――荒川涼が真島を庇ったとしても。
利口に生きる道は真島にない。
自分を拾い面倒をみる嶋野の強さ。その越えるほどの感動と憧憬が他にあるだろうか。
冴島はもっともらしい言葉で釘を刺した。
「ああ、せやな。……ほんま、気ぃつけや。しわ寄せは、……自分トコの組に行くんや。……とくに相手が相手やさかい。代山は……親が官庁に経済界、法曹、芸能界、民間大企業の箱入りのお嬢様がぎょうさん通っとるんや。相手が悪すぎる」
「わかっとる」
そんな事は痛いほどわかる。言われるまでもなく。
たとえば、荒川涼はきっと銭湯になんか来ず家にある風呂に入るだろうし、毎日食事のことを心配しないだろう。そしてその食事は温かい。眠る家には清潔な服が何枚もある。自信がなさそうにしていたが、今日の再会した様子では憂鬱の影はなかった。
住む世界の違う人種。線引きをすることで、真島は小さな違和感を納得させようとしていた。
「いくら力でのし上がっても、上には上があるんやろなぁ」
「なに言うてんねん。上も下もないで。人間は」
「じじむさいわ、兄弟」
冴島を肘で小突く。
筋肉の厚さが増していたので思わず「またゴツなったか?」と尋ねると、「成長期や」と言った。
――という冴島とのやりとりをしたのが、つい数週間前だ。
「――吾朗くん……?」
真島は一瞬、夢をみているのかと、だらしなく緩めた唇を結んだ。
草の葉の香り、茜色の空と雲。
見下ろす少女の影からは、淑やかな甘い匂いと、まろやかな声音が耳朶に伝わる。
真島は、ほぼ反射的に、広大な草むらのベッドから勢いよく起き上がる。立ち去ろうと腰を持ち上げるも、それよりも早く彼女はくすくすと上品に笑って真島の隣に座った。
「は? ……うわあ! なっ、なんやねん!」
「そ、そんなに……驚くかな」
「なんでココにおるんや。お前」
早くも二度目の再会に、いたたまれないような気持ちになり真島は視線を左右に散らした。
荒川涼は、しばらく考えて「学校帰りだから」と捻りもない回答を口にする。
ちょうど衣替えの移行期間なのか制服のシャツの上に甘いクリーム色のカーディガンを羽織っている。
真島が返答を考えているうちに、涼はにこにこと微笑んだ。
「よかった。さっき走ってたときに、ここで寝そべってるのを見かけて。……戻ってきたら、まだいたから」
ふと、土手の上に停まった自転車に目がいく。
籠には荒川涼の私物と思しきバッグが積まれているので、明らかに彼女のものだ。
「そ、そうか。……て、自転車乗れるのか」
「そうだよ」
意外だった。
冴島のいうお嬢様学校の印象とは無駄な労力を使わず、木陰で読書を好むような、自転車にも乗れなさそうなものだった。
真島が立ち上がると、涼も立ち上がった。そのまま自転車のところへ行くと籠に新品のエナメル質のスポーツバッグが籠にぎゅうぎゅうに押し込まれている。ジッパーの隙間から入り切らなかったシューズの先端が出ている。
「走るって……そういや、部活とかやってるのか?」
「ふふふ。吾朗くん、関西弁」
「いや、だからお前と喋ると忘れちまうんだよ」
「そうなんだ。……ごめんね?」
ちっとも悪びれていない謝罪の仕方に、もう一言二言の文句も言ってやりたい気分だったが、小気味よく笑う荒川涼の表情に負けた。バッグからは靴裏にピンがあるシューズが覗く。
「……まさか、陸上か」
「よくわかったね。夏休みから始めたの」
「ほぉ、おまえそんなトロくさそうなのに走れるのか」
率直な感想だった。
荒川涼は「う」と喉の奥で音を詰まらせ、胸の前で両手の指を組んだ。
「みんな同じこと言うなぁ……」
見かけは文学少女そのもので、運動部とは一切縁がなさそうに見えるからだ。しげしげと眺めているとあることに気がついた。
真島は手を水平にして少女の頭上にかざした。
「あ。……ちょっと、背ェ伸びたかぁ?」
「ほんと?!」
目線の中に収まる嵩が増えた気がする。
荒川涼は犬がぴょんと跳びはねるような喜び方をした。
「ま、俺の方がデカいけど」
「吾朗くんて何センチなの」
「こないだ測って、一七九くらいだっけか。……ヒヒッ。足痛くなるの続いてるから、もうちょっと伸びるぜ」
弾けるような表情の変化に意表を突かれる。
ちょっと面白くないので妙な対抗心を差し向けると、不服そうな顔つきに変わった。
「……そんなに睨まなくったっていいだろ。……なんか、お前。雰囲気変わった……か」
「……あのね、お前、お前って。言わないで欲しいな」
「そういうトコだ」
言われたら言われっぱなしになりそうなのに、今日の彼女は弾く。
芯の通った強い態度。それは真島にとって好ましかった。――そのほうが気を遣わないで済むからでもあるし、繊細すぎるのを相手にすると、どうしてだかそんなつもりではないのに苛めたような居心地の悪い気分になる。
「あれか、反抗期ってやつか。ひひひ……!」
「……私の話はいいよ。吾朗くんはここで寝そべって何してたの?」
「昼寝」
「……お昼寝って、あ! 血出てる! 大丈夫?」
「へーきへーき。軽い喧嘩だからよ」
目ざとく見つけた腕にある喧嘩の痕跡に荒川涼は顔を顰めた。
カバンのポケットからすぐに絆創膏を取ると真島に差し出した。
「きれいな顔が台無しなんだから。……はい、絆創膏」
『きれいな』などと形容されるのはむず痒いものがある。絆創膏を受け取ってとりあえず感謝を言うと、荒川涼はまた滑らかに微笑んだ。
「ずっと思ってたんだけど、吾朗くんて学校行ってないの?」
「行ってるわけないだろ。このナリで。……オジョーサマにはわからへんかもやけどな、お勉強は贅沢なんやでぇ?」
「そうだね。……あ! お勉強したかったら教えるよ!」
「お前って、ジョーダン通じないときあるよな」
真島なりの皮肉のこもった冗句だったが、彼女はまた「んんん」と呻いた。
別に申し訳ないと思わなくてもいいし、そうする必要もない。彼女の住む世界と真島の世界が異なるだけの、違いでしかない。もっとも勉強する必要があればいつだってできるのだから、わざわざそうするより今は、と選んだのは真島自身だ。
荒川涼はまた弾き飛ばせばいいのに、深刻そうな顔で伺うような眼差しを向けている。
透明な悪意のない繊細な感性と知性。……真島は、不意にそれが苦手なものだと気付いた。何もかもを見透かすような、清い瞳はまるで己が愚かだと諌められているみたいで居心地が悪い。
「う、うん。ジョーダンが通じないのは……よく言われるけど、やっぱり直したほうがいいのかな……?」
「直したいって、直せるもんなのか……?」
「わからない」
へらり、と荒川涼は笑った。
「……そろそろ帰らなきゃ」
「なあ」
「なあに?」
「お前、学校でいじめられてないか」
「どうして?」
人畜無害。善良な少女。
人を疑うことも、世間もしらなさそうな、幸せなお花畑の中にいる子ども。
他人の悪意も性善と捉えそうなところが心配になった。
「みんな優しいよ」といって荒川涼は目を細めた。
自転車を押して涼が歩き始める。長い堤の消失点は遠い。今度は真島がつられるように歩く番だった。
車輪がカラカラと音を立てて回転する。
「実を言うと、これ内緒で乗ってるの。……それに、吾朗くんは私の家をお金持ちって思っているかもしれないけど、お父さんはふつうの会社員だし、……お金持ちなのはお祖父ちゃんのおかげもあるから。学校だと周りの子のほうがすごくって、……場違いだなあって思うことはたくさんあるよ」
「へえ。自家用車で登下校とか?」
「いるよ。運転手さんが運転して通ってくる子。……電車とスクールバスの子、地方出身だから家族と離れて寮に住んでる子も」
真島は興味のなさそうな声で相槌を打った。
綺麗な世界だ。涼の話を聞いても真島は別世界の話でいまこの時もどうして一緒に並んで歩いていて、話をしているのか不思議な気持ちでいる。何一つ合う話がない。隣の少女に興味を持とうにしても、回答がすべて想像そのもののようだし、ずっと家出の話を蒸し返すのも野暮だろう。
「内緒って、学校にか?」
「……自転車が?」
「おー」
「色々理由があるの。いつもはスクールバスで駅から乗ってて……今日は足の筋トレに必要だと思って乗ってきて……家から」
「家から……ってことは、川越えて? 結構走るだろ。遅刻しなかったか?」
涼はバツの悪そうな顔で急に立ち止まった。
横浜から東京の学校まで、自転車はざっと数時間はかかると思うが、無計画な思いつきだけで家を飛び出したのだろう。
「―――した」
「お」
「ち、――遅刻して……担任にちょっと叱られて、シスターにも叱られて。チャーチ……学校の中に教会があるんだけど、そこでお昼の時間に反省のお祈りして。そうするとお昼を食べる時間が少なくて、放課後に食べきれなかったお弁当食べてたら、部活に遅れちゃった」
「っく、……い、ひひひ――!」
なんだこいつ。
真島は腹が捩れて笑い転げそうになるのを、服の袖に口を押さえつけてどうにか堪えた。
「い、ひひ……朝からっ、……ぜんぶ……ひど……いひ、ひひっ……計画性、なさすぎるだろ……っ」
「あとは……朝学習に予習しようと思っていたところが小テストに出てわからなかったの」
「目に浮かぶわ。……全部アカンなぁ。かわいそうやのぉ」
腕を組んでうんうんと頷いて、真島はわかりやすい同情心を示す。
「ありがとう。……ちょっと馬鹿にしてるでしょ」
「えぇ〜? 馬鹿にはしてへんけどなぁ――でも、これ親に話行くんとちゃう?」
「馬鹿にしてる。だって関西弁になってるんだもん。……そうだよ。さっき、電話が学校にかかってきて、ちょっとだけ叱られた」
「そらそうやぁ。……せっかくお嬢様ガッコ行かしてんのに、自転車通学さしたら、親に恥かかすで」
さぞかし学校内では変な女で通っているはずだ。
家出、大遅刻、――ほかはまだ知らないがこの見た目で天然物の非行少女にお目にかかれるとは思わなかった。わかりやすい反抗ではなく、本人はすべて善かれと考えている。
前言撤回。いじめられそうなのではない。――おもしろいやつ、だ。
「……ひひ。ほんで、こうやってチンタラ歩いてんのやろ」
「…………まぁ、その……」
「それは俺もようわかるでぇ。……親父にぶん殴られるのわかっとる時、どうも足が鉛になってしもて、嫌々行くもんなぁ。……ま、女のコに手ぇあげるような親父ちゃうやろ?」
「ま、まぁ……」
すべて図星なのか、恥ずかしいのか、涼の声がどんどん小さくなっていく。
「帰りはどうするん」
「……学校の最寄り駅まで……迎えにきてもらうことになったの」
真島は付けていた腕時計を見る。日は明るくまだ長いが、五時過ぎだ。
「はぁ……? それはよ言え。親待たしてんのやろ。ここで俺と喋ってんではよいき」
「吾朗くんが……まだいたから……お話しようとおもって……」
「ん? あぁ――……なんで?」
「なんで……? 挨拶……みたいな」
よくわからない理由に首を傾げる真島の隣で涼は自転車に跨った。
「ま……、またねっ!」
「おー、気を付けて帰れよー」
(見かけたからお話……まぁ、うちの業界でも似たようなもんか。挨拶するし)
涼がアスファルトを蹴り上げる。風を受けて長めのスカートが風に押し流されてそよいでいる。通行人の間を抜けていき、そうして点になって見えなくなるまで見送った。
「………まぁ、ええか」
ぽりぽりと頭を搔く。
真島は踵を返し、市街地方面に戻っていく。
「あ、せや……帰りひげ剃り買うて帰らなアカンなぁ」