七章『星屑が消えるころ』A



 兄は翌日、息絶えていた。

 狐のように細い目をした男は王汀州(オウ・テイシュウ)、もう片方の痩身の男は、王泰然(オウ・タイラン)といい兄弟らしい。教えてくれたのは二人の名前だけで、この島のこと、あの密漁の船、兄の仕打ちについてはまだ聞けていない。一日二食の食事、男向けの中国服に着替えさせられ、長かった髪を切った。寝床は牢屋である格子戸の中で、毎晩日本語を教え、そのほかには雑用を命じられた。

 兄の虫のたかった死体は、燃やされ綺麗な骨だけが残った。
 憎らしいほど、空は青く澄み渡り、雲は一つもなく、気持ちのいい夏の風が吹いている。
 涼は、骨をかき集めて浜辺に押し寄せる波のなかに撒いた。もはや、悲しいとか、辛いとか嬉しいとかすべてが削げ落ちていた。醒めない夢をみているのだと、言い聞かせながら。そうやって、やりようのない哀しみや胸の痛みを誤魔化すのが精一杯だった。

 (本当のわたしは、もうとっくにイギリスについていて、新しい家で自分の部屋をもらって、午後にお庭で紅茶をいただいているの。…そして新しく通う学校のことを考えて少し憂鬱になってる)

 憂鬱のあまり、その現実よりもひどい夢をみているのだ。
 日本に居続ける夢だったらいいのに、彼にもう一度会える夢だったらいいのに。

 「夢を、見ていたいの?」


 (……そう)

 涼は勝手に唇が動いたことに驚いた。
 自問自答の独り言だ。こんなことでもしていないと、耐えられない。


 「わかった。じゃあ、少し休もうか」

 (休んで、いいの…?)


 休めるなら、このまま眠りたい。辛いことのない世界へ行きたい。目が覚めなくたっていい。
 そんなことができないとわかっているから、せめて嘘でもいいから、うそぶくのだ。


 「休んでて、涼。――日本に帰れたら、元に戻れるから」

 (……ありがとう、ありがとう)


 涼の体は、ぱたりと風に煽られて、浜辺に突っ伏する。
 潮の満ち引きの音を聞きながら、少しのあいだ眠った。

 しばらくして島のどこからか、銃声が鳴った。その発砲音で飛び起きる。音の方向へと走った。


 密林のなかを獣のように大股で走る。
 白い建物の近くで数人の男たちが声を荒げている。近づいてみると、密漁をしていた男たちだった。目深くニット帽をかぶり、手には軍手をはめている。防水用のジャンパーに黒い長靴を履き、一見漁師にみえる彼らは紛うことなき、墜落後に助けを求めた男たちだった。

 その男たちは及び腰になりながら、建物から逃げようと門をくぐり此方へ走ってくる。
 建物の扉の奥では、王汀州が銃を構え、手前にいた男に向けて発砲していた。


 涼はほかの男たちを逃がすまいと、助走をつけて飛び蹴りを入れる。みぞおちに膝蹴りを入れて気絶させ二人の男を、王汀州の前へと引きずりだした。
 もう一人いた男は銃で死んでいた。

 「———!」

 奥から王泰然が走ってくる。
 王汀州は意識のない二人を担ぎ上げ施設の中へと入っていく。王泰然は涼の傍までくると、死んだ男を指さし「モヤセ」と言った。
 涼は頷いた。今日二度目の火葬だった。男が白い骨になる頃には、夕日が沈み、星が瞬きだす時刻になっていた。真っ黒な海に、散骨をした。

 
 白い建物に帰ると二人が待っていた。三人で夕食に子豚の丸焼きを食べた。
 建物の前で焚き木を囲みながら、王汀州が涼に人差し指を向けた。

 「ワン、イン——」
 「なんですか、それ」
 「ワン・イン」

 木の枝を手に持ち、地面に漢字を書いた。『王 吟』と。
 それは人名だ。中国名で、王が名字、吟が名前だろう。涼は…吟は、二人を交互に見た。相変わらず何を考えているかわからない表情をしている。

 涼はもういなかった。彼女は少しばかりの眠りの中へ。現実を避け、代わりに生まれた王吟がその肉体の主導権を握ることになったのだ。日本に帰れるまで。
 吟はその状態を建物の中の書庫にあった医学書で知る。それは解離性同一性障害といった。
 日常の変化、飛行機事故、兄の死——理不尽なストレスと極限状態により、心を守るために眠ってしまったのだ。



 その後、王吟は『蠅の王』と呼ばれるようになる。無人島に漂着した少年という情報が王汀州らが中国裏社会に流布したことがきっかけだった。

 二人と過ごすうちに吟は涼の兄の死因を突き止めることができた。
 事の顛末はこうだ。あの日、密漁をしていたのは南部の国出身者らで騒がれると不味いと思い二人の兄妹を気絶させた。その後海上の風が強くなり波が荒れ、船は無人島に漂着する。船は大破した。

 男たちは子供らを浜辺の近くにあった建物に置いて、自分たちの国へ帰ろうと島の散策に出かけた。先に起きた涼の兄は外を確かめに浜辺に出た。そこには王兄弟が島に訪れるために使用していた船があり、その船に近寄ったところ兄弟に感づかれ盗人として拷問にかけられた。

 彼は身の潔白と『妹がいる、助けてくれ』と拙い中国語で懇願していた。数日後目覚めた涼が、あの建物に訪れ王兄弟は涼の兄が嘘をついていないことを認めたが、時すでに遅し。事実隠蔽をはかるため、涼をも殺そうとするが、彼らは日本語を知る必要があった。涼を助ける代わりに日本語を教えるように強要。
 その翌日、あの三人の男たちが島の建物に不法侵入し逃げようとするところを涼が助太刀した。

 王兄弟は涼に『王吟』という名前を与え、日本語を教える以外にも仕事で徴用するようになった。

 王汀州、王泰然の二人は中国マフィア、五十年代半ばに消滅したといわれる青幇系の生き残り、『藍華連』、ラン・ファーリエンを率いている。本土に腰を据えており、ほかの残った青幇系の組織に情報やルートを横流しにしているほか、薬物に密入国、売春に加え拷問という名の殺人パフォーマンスを資金源としている。


 1983年には日本ルート開拓及び、侵攻を目的としヤクザの『仕置屋』として拷問業の『穴倉』を請け負う。王吟は母国語の日本語が堪能であるため、この『穴倉』に配属された。






 涼はたゆたう意識の中で、王吟の記憶を知る。

 あの浜辺で約束した通り、日本に帰ってきたのだ。彼は、王吟はすべてを庇ってくれていた。こうして彼が記憶を繋げてくれているということは、彼がそう長く生きられないからなのだ。

 吟もまた、凄惨な現場の肉体労働や精神的苦痛で摩耗している。


 「……吟、ありがとう……すこし、眠って…」

 薄暗い、いつもの部屋。この部屋は穴倉の中にある。吟の記憶を引き継いだ涼は、ここがどこだかわかった。
 はやくここから出なくてはならない。吟はずっとこの『藍華連』に留まるつもりがなく、貯金をしていた。日本にせっかく帰ってこられたけれど、日本を出てどこか遠く、スイスに行こうと画策していた。いずれ足がつくにしてもアジアにいるのは危険だった。


 長い長い夢だった。この部屋に入ってからどれくらい経ったのだろう。夢の連続が続いていた。いつの間にか拘束具は外され、腕には点滴のチューブが流し込まれている。
 彼が過ごしただけの時間ここにいたのだろうか。


 部屋に硬い靴の音が響く。細く鋭い目をした王汀州が、涼を見下ろしている。


 「お元気ですか。荒川涼……そろそろ猫の手も借りたい頃合いになりましてね」
 「……そうですか」
 「さて、もう一度訊きます、殺しか、桃源郷どちらにしましょう」


 殺しとはその名の通り、暗殺を指す。桃源郷というのは二通りある、薬物か売春。この男は、涼が次にどの仕事をするのかと尋ねているのだ。吟はどんな時でも殺しにだけは手を染めなかった。一度だけ、王泰然が執拗な打擲や暴行によりスープを掛け流しただけで死んだ男がいたが、あれはどうみてもこと切れる寸前だった。よって直接的な殺しではない。

 つまり、薬か売春となる。だが、薬は危険だ。所持しているだけでこの国は簡単に追っかけてくる。売春は例によっては店舗常駐を強いられる。涼は隙を見計らって亡命しなくてはならない。この三つのなかで最も自由に外を歩けるのは、殺しだけだ。答えが出せない。


 「堕ちましたね」
 「……っ」
 「選べないというのであれば、このままここで私を楽しませてくださっても、いいのですよ?」


 王汀州は極悪鬼畜野郎だ。弟の王泰然は血祭を好むが、この男は精神的に嬲る趣味がある。人間の尊厳を失うのだ。
 涼は、ゆっくりと、絞り出すように言った。

 「殺しを、します」

 そうだ。殺しをせずとも逃亡できれば、いい。
 狐のような目がついとさらに細められた。


 1988年 9月末。
 涼は目覚めるまでの数年間、穴倉のなかで昏睡状態だった。


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