河原のムーンライト



 白亜の城、代山基督学院。
 東京を中心とし近郊から裕福な家庭の子女が集い、思春期の大半を過ごす温室。
 ――と、そんな風に世間一般から思われているが、実態は不良子女も通う。涼は日に日に真四角・品行方正な態度をすり減らし、小さな罪を重ねていた。
 
 「よろしいですか、荒川さん。この注意で四回目ですよ」
 「すみません、シスター。次こそは守ります」

 敷地内には様々な用途別の施設が備え付けられているが、中でも外部の信者も訪れる教会はその壮麗な外観が、建築マニアや行楽雑誌などで取り上げられている。
 その教会の懺悔室では昼休みの間、生徒に開放され――主たる指導教室として使われていた。

 涼の目の前には修道服に黄金色のロザリオを胸に下げた修道女の中の修道女。習わしとしてシスターと呼ぶ「指導員」が綺麗な木目調の机の上に両手を組み合わせて、大袈裟に息を吐いた。

 「……こんな事を言うのはと、控えていました。しかし目に余ります。昨年までは……こうではなかったでしょう。一体……どうしたんですか?」
 「……ああ……まあ……、その……」
 
 歯切れの悪い様子にシスターは、銀色に縁取られた眼鏡を押さえ難しそうに顔を顰めた。涼は、いずれこの態度の悪さが家に連絡が行って母親に叱られてしまうだろうと勘が働いた、
 だから、ここが線引きする機会だろうと考えた。

 「……そろそろかな……」
 「何です?」
 「あっ……いえ……。なんでもありません。以後必ず守ります。学校にも迷惑かけないって……誓います」
 「……そうですか。……それじゃ、放課までに反省文を書くように。辞典は教務から借りてくださいね」
 「は……はい……」

 厳しい声でシスターは指導を口にすると、壁にかかった古い時計を見遣り、席を立った。

 「昼食がまだでしょう。どうぞ、教室に戻ってください。放課の一六時、職員室にいらして」
 「……ご指導ありがとうございました。シスター」

 反省文は全文ラテン語で書かなければならず、その際には専用の辞典が必須だ。教務部から借りる辞典にはそうした罪深い子羊の悪知恵を示すように、反省文で用いられる語句のある箇所に暗号マークが記されている。
 賢い生徒が考案した知恵にあやかり、涼は今まで反省文を書くのに困ったことはない。
 暗号に従い色別に数字とアルファベットがあり、その同一色と順番どおりに並べていくと反省文が出来上がる……といった寸法だ。

 したためた反省文をシスターに提出し、帰宅途中の横浜駅で降りる。何度も鞄の中にある封筒を確認して、楽器店に入った。涼の罪――自転車通学を密かに行っていることだった。再三の注意を受けたが、その日を最後に終えることになった。

  ◇ ◇ ◇

 新品の楽譜、教本、新鮮な拙い音色。
 真新しいクラリネットを手に入れて、部活を終え河原で吹いていると、はじめて自分だけの楽しみが見つかったような気持ちになった。

 涼が不良生徒の判を押されるようになった経緯とは、こっそり通学用の定期代から捻出してクラリネット代に充てる計画だった――なんて。
 無論、そんな本当の話は誰もわからない。
 練習場所は学校帰りの河原。やましさを二つ隠すためだった。一つはシスターを含めた学友に知られると自宅に何かの拍子に届いてしまうから。もう一つは、その河原へ行けば、真島がいるかもしれないという淡い期待。

 そして後者のやましさは幸運にも実を結ぶ。
 拙い音色にすらならない、新品のクラリネットを「ヘタやのう」と本気ではない揶揄とともに訪れた真島は、いつものつなぎの作業着姿で現れた。

 「今はね!」

 共に過ごす時間が増えると、彼の言葉が冗句であるか、否か。それが少しずつわかってくる。
 真島は傷を作ったり、無傷な日もあったが、喧嘩っ早い性分なのか、ともかくいつも細かい傷がどこかにある。河原へ着くと今日は「○○高」の相手をしたと武勲を語り始めて、涼は一年前自分を救ってくれた時でさえ、偶発的とはいえ輩に絡まれたのを助けてくれた拍子、喧嘩に発展したことを思い返した。

 河原の草の上でクラリネットの調整をする涼の隣に真島は座った。
 炭酸飲料の入った缶をプシュッと音を立てて開けてぐいっと一気に飲み下すと、真島は「痛てて……」と苦痛を漏らし頬を押さえた。

 「大丈夫?」
 「口ン中切れてん。はあー滲みるわ」
 「吾朗くんって絡まれやすいの?」
 「違う。向こうが勝手に売ってくるんじゃ」
 「喧嘩を?」
 「そう……なに笑ってんだよ。……お前みたいに、ヘラヘラ笑ってるやつが一番目ェつけられるんだぞ」
 「ヘラヘラ?」
 「そーだよ。こう、ヘラヘラ〜ってな」

 物真似のつもりか、真島は変顔で戯けて見せて笑った。

 「私そんな顔じゃないと思う」
 「……ひひひ! 喩えやって」

 まだ苦痛に表情を引き攣らせる真島に、絆創膏を学生鞄から出して手渡す。

 「あげる。絆創膏」
 「おう。……おおきにな。……っちゅうか、いっつも……貰ってる気ぃするわ」

 貰った絆創膏のフィルムを剥がし、捲りあげた袖の裏の肘や脛の生々しい傷を覆っていく。

 「吾朗くんの怪我はちょっとやそっとじゃないから、足りないよ」
 「そうかあ? 俺もまだまだやなぁ」
 「どういう意味?」
 「もっと強うなったら……絆創膏いらんやろ?」
 
 思わず目を丸めた涼と対照的に真島が笑みを深くする。涼よりもずっと大人に見える彼のくしゃっとした笑いはいつもよりも幼く見える。密かな愛らしさ感じ入ったのを誤魔化すように、無理矢理続きを捻り出す。彼はそれに気付くこと無く得意気に胸を張って信念を打ち明けた。

 「……吾朗くんは喧嘩好きだよね」
 「ああ。……親父みたいにもっと強うなりたい」
 「お父さんみたいに?」
 「あーホンモンの父親と違うで……って言うても伝わらんか」
 「……義兄弟、みたいな?」
 「あ、せや。忘れとった。おまえ……そうか」
 「え?」
 「いや、なんでもない」

 なにか思い出して言いかけたが彼は続きを止めてしまった。
 そうして、初冬の冷たい空気が二人の間を埋める。
 この静かな間さえも好ましく、日没が世界の影を呑み込んでいくまでの時間を、あともう少しだけ、あともう少しだけ、――と数えている。
 踏ん切りがついたかのように、よし、と掛け声と共に真島が立ち上がる。

 「門限までにはちゃんと帰れよ」
 「あ……うん。……あ」
 「あ……? なんだよ」

 堤防の上へ歩み出した真島の首だけがくるりと涼の方を向く。
 薄暗いゆえに表情は判別つかない。多少の面倒臭さ、苛立ちもあるような急かす声音に涼はそれまで考えていた言葉が靄に掻き消えていくのがわかった。

 「あ……と……ごめんね。引き留めて」
 「……それ、もっと上手くなれよ」
 「え?」
 「せっかく買ったんやろが」

 もう一度、瞼を瞬かせる。彼は知ってる。彼だけが知っている。

 彼なりに遠回しに励ましているのだろうか。
 だとしたら、いいな。……と涼は顔を綻ばせる。

 この曖昧で優しい時間がもう少しだけ続けばいいのにな。
 そう願うことは、悪いことではないはず。
 涼は、温かくてやさしいその時間を気に入っていたし、続くことを信じていた。

 どんなに冬が冷たく厳しくとも、そこだけが春になって、小さな白い花や、たんぽぽやオオイヌフグリが咲くような、穏やかな彩りの世界に満ちる。――小さな幸せを。



  ◆ ◆ ◆

 男物の黒い傘を抱え、料亭の前で真島は佇んでいた。兄貴分達は各々傘を差し、ぼそぼそと何か暇つぶしの会話のやり取りを呟いているようだが、陰になり何もかも不明瞭である。
 雪が降り落ちてきそうな程、暗く重い天気だ。
 本当に粉雪が舞いはじめ、手袋もなく剥き出しの素手が赤らみだしていた。
 嶋野(親父)はまだ出てこない。今日は重要な話し合いがあると言っていたが、真島に極道の、東城会の内部事情については疎く、兄貴分から流れてくるような信憑性に欠ける噂話を有り難く興味津々と歓心を買うために頷くばかりで、わかりやすく嶋野が極道らしい事を行う仕事に着いて行く方が好みだった。
 真島はふと腕時計を見た。時刻は一六時頃。昼下がりから会食が始まったため、それから数時間が経過している。
 唐突に聞き慣れた声が真島の耳に触れた。

 「おい、真島」
 「すんません、兄さん。ジブンの兄弟ですわ」

 兄貴分の一人が傘を上げて、声を荒げかけたが、真島がすぐさま飛び出していった。
 料亭前で粗相をするのは避けたく、真島は突然の来訪者、冴島の首に手を回し、表玄関から裏側へと連れ込んだ。ちらりと表側の様子を確認する。嶋野はまだ出てこないだろう。

 「……なんや兄弟。今日は親父の付き添いや言うとったやろが」
 「なんやしようやなんて思てへん。……お前、近辺のガッコのヤツ相手しとったんやて?」
 「なんでそないなこと……、いや、絡まれたんや。しゃーなしにの。アイツらまたなんか言っとんのか?」

 真島の喧嘩について冴島は多くのことに対して理解があり、それまで何ら問題視はしてこなかったはずだ。冴島は眉を顰めると、渋るように物言った。
 
「いや。……代山の女の話してるヤツがおったさかい、ヘンな胸騒ぎがしただけや。お前まさか……会うとらんよな……?」
 「……兄弟、そら……」
 「オイ、まさか。会うてんのか!?」
 「声がデカい。こないなとこでヤリ合うとる場合とちゃう!」
 冴島は恐ろしい剣幕な表情で真島に掴みかかった。その太い腕を払い除けて真島は迫った。

 「兄弟、その代山の話しとった連中はどこで……どこにおった……!?」
 「お前、ホンマ……どないなっても知らんで!」
 「どこで聞いたんか早う言え……!」

 冴島は頭を掻いた。

 「たしか……三鷹近くやな」
 「三鷹……? 代山の近くやないか。っちゅうか、なんで兄弟そないなとこに用があんねん」
 「笹井の親父のお使いや。知り合いがそこにおって……いやそないな話どうでもええ」

 真島はしばし考えて、嫌な想像を巡らせた。
 そして持っていた黒い傘を冴島の手に握らせると、その場から駆け出した。
 後方では冴島が「おい、これどないするつもりや!」と叫んでいる。

 「親父の傘や! 真島は便所に行った言うてくれ!」

 道なりに走り、真島は代山基督学院をまず目指した。タクシーを拾う余裕もなく、ただがむしゃらに走った。

  ◇ ◇ ◇

 もうすぐ、クリスマスコンサートが開かれる。
 正門前に立つ掲示板には吹奏楽部の写真が挿入されたチラシが張り出されている。クリスマスミサの中、催されるコンサートで、その日の後半はほぼその予定で埋まり、終了時刻はいつも夜の八時を過ぎる。教会のものよりも長丁場で父兄も参加するため一大イベントとして気合が入っている。

 「来年からがいいかな」

 涼はやはり吹奏楽部からの誘いを受けた。この際、上達のためには掛け持ちで入部するのも良いだろうと思えていたが、このクリスマスコンサートが障壁だった。もし入部すれば、このコンサートに出演する機会に恵まれるだろう。それによって、家族に、特に母親に秘密を明かしてしまうきっかけになるだろう。そして、バイオリンでもヴィオラでもなく、フルートでもない楽器を選択したのだと知られてしまったら、彼女は盛大に憤慨し卒倒するに違いない。それにより、学校中のみんなの注目の的になるのは御免だった。
 
 今日は底抜けに寒く、膝頭がほんの風に触っただけで赤みを帯びている。早く帰ろうか迷っていたが、クラリネットの練習は家に帰っては出来ない。学校で練習すればいいとも考えたが、不特定多数が聞いて父兄参観時に誰かがクラリネットの話を漏らす事が頭を過った。
 涼は寒いのを我慢して、いつもの河原に向かうことにした。

 河川敷にはいつもは目にしない黒い学ランの青年達の姿が目についた。
 涼が後退るよりも早く彼らが目敏く反応し、ぞろぞろと近寄ってきては涼の周りを取り囲んだ。
逃げよう、と思った時、彼らの中の誰かが細い腕を掴んだ。

 「荒川涼ちゃん……だよな?」
 「あなたたち、何か用ですか……」
 「真島って知ってるか?」

 彼らは全員で五人。
そのうちのリーダー格とおぼしき人がしゃがみ込んで涼の顔を覗き込んで問うた。真島の名が出て、彼らの目的が涼を介して真島への加害であると理解した。涼は何を答えても彼らを喜ばせる、思う壺だと思った。唇を引き結び、返事を拒んだ。
 リーダー格の青年は、鼻を鳴らして大袈裟に笑う。

 「……なあなあ、涼ちゃんさァ。……だんまりしちゃわかんねえじゃん。なんか喋ってよ」

 涼はこの場をどうすれば切り抜けられるか考えていた。冬の河川敷に吹く風は凍てついていくし、頼れるような通りすがりの人影もなく。茜色は濃い青紫へ染まり、青白い月光が仄かに滲んでいる。
 リーダー格の青年は周囲の取り巻きに目配せする。すると代わる代わる、涼を舐めるように見回して、気を引こうと言葉をかけていった。

 「いつもはここで真島くんと仲良くお喋りしてんだろ? 俺たちとも仲良くしようよ」
 「これなんて楽器? カッコいいじゃん。買ってもらったの? 真島とはどこで仲良くなったの?」
 「援交だろ。あいつがお嬢様ガッコの子とつるむなんてそれしかないっしょ……!」
 「へえ〜。じゃあ、あいつの女ってことだ? あいつのコレ、しゃぶった? ん? いいなあ!」

 嘲り。挑発。涼はどの言葉にも反応を示さないよう頑なな態度を示した。知らない言葉もあったが直感的に、下卑た低俗なものであるとわかる。

 「代山ってイエスキリスト様の学校じゃん。神さまに誓ってんのにヤッていいわけ?」
 「じゃあなにさ。こいつ……ビッ―――」
 派手な衝突音が響く。それが何であるか、青年の悲鳴と草むらに転がった大きな石で、遠くから投擲があったのだと知る。

 「いっってええなあ?!」
 
 ほぼ暗闇のような遠くから人影と足音が向かってくる。誰かが吠えるように叫んだ。
 
 「真島だ!! 真島が来たぞ!」
 「正義のヒーロー気取りかぁ? おうやり返せ、やり返せ!! 向こうは一匹だ! さっさと片しちまおうぜ!」

 勢いよく飛び込む青年達だが、ものの数分もしないうちに悲鳴やうめき声が地を這い、強烈な殴打で一人、二人、三人と軽々しく吹き飛んでいく。
 ついにリーダー格の青年一人が残り、涼のそばに真島が庇い立った。

 「大丈夫か、涼」
 「う……うん! 吾朗くん……あの、どうして、ここが……?」
 「……あ? そりゃ……」

 僅かな隙が生じた。リーダー格の青年が素早く動き真島を突き飛ばした。思いがけず涼が狼狽えると、次は強い力で涼を突き飛ばし、砂利道を転がった。

 「クソッ……!」
 「やめて!」

 青年は涼の鞄をひったくり、それを川の方に向けて投げ飛ばす。あっという間に川の中へ落ち、涼は自分の全身から急激に血の気が引くのがわかった。
 今すぐ土手を飛び降りて探しに行きたい。そう考えていると、直後、青年の苦痛に喘ぐ声が聞こえた。真島が何度か青年を殴り懲らしめている。
 
 「ぐ、……ぎゃあ!」
 「吾朗くん――!!」
 「……くそ! 散れよ! 二度とコイツに手ェ出すな!」

 五人もの多勢が力なく真島に蹴散らされ、ただ怯えている。リーダー格の青年がせめてもの負け惜しみを吐き捨てるように言った。
 「覚えてろ!」
 真島はもう一度リーダー格の青年に詰め寄り、その襟元を掴みあげた。
 涼は暗がりでもその青年の顔が真っ赤な風船のように腫れ、血液を吹き出しているのがわかった。それ以上は死んでしまうような気がして、真島の背中に追い縋り暴力を止めるよう願った。

 「やめて、吾朗くん! やめて!! もういいから、もう! いいから……!!」
 「よくねえだろ!!」

 咆哮。そして殴打。肉と骨のしなり、砕けて、破裂する音が空気を震わせる。
 目の前で加減なく行使される暴力。これは見知ったフィクションでもなく現実だ。目や耳を覆いたくなる衝撃に涼は奥歯が音を鳴らすのを堪えて、感覚を喪失した指先に力を念じて真島の腕を押さえるように握った。

 「いいんだよ。大丈夫、だよ。また買い直せば……い」
 「……違うって、いってんだろ!」

 強い怒声にビクリと体が大袈裟に揺れる。
 真島は涼の拘束を振り切って、土手を降りて川の中へ入っていく。涼も慌てて後を追い土手を駆け下りる。川の水に片足を突っ込むとその冷たさに思わず悲鳴を上げた。

 「吾朗くん……? ま、まって……い、いいの! 探さなくても! 危ないよ! 水が……危ないよ! 吾朗くん!」
 「悔しくないのか!?」
 「………だって……」
 「頑張って貯めたんだろ!? それが……クソッ、俺のせいで……、俺が……」

 真島は諦めまい、とざぶざぶと水をかき分けて涼の鞄を探した。
 涼は必死の捜索を前に、その頭の中では帰宅して両親になんて言い訳をしようか考えているところだった。プリント、教科書、ノート、お弁当箱、学生証、……そしてクラリネット。鞄の中には学業に必要な物品がたくさん入っていた。叱られるのは目に見えている。おまけに制服も汚れている。怪我もしている。それに門限を破るだろう。夜遅くに帰宅すれば、その話が伝わって明日また学校でも指導を受けるに違いない。視界が暗くなっていくのは、きっと宵闇のせいだけではない。
 真島が水の中を探りながら言った。

 「金じゃない」
 「え?」
 「金じゃ、ないだろ。……お前が、そうやって親の意見とかから、自分の気持ちを大事にして、努力した時間は……金なんかじゃ、換えられない」

 なんだか、こそばゆい。真島がそんな事を言うなんて思ってもみなかった。彼はほとんど誂うことが多いし、それまで涼に対してよそよそしい態度でいた。その棘に涼は壁さえも感じていたのに。
 なんて返事をすればいいのか困ったが、涼はそれを静かに肯定した。

 「……吾朗くん、……ありがとう」
 「………あった」
 「え、……ほ、ほんと……きゃ!」

 真島は川の中から水を吸い重くなった二つの袋を持ち上げた。紛れもなく涼の持ち物である。
 涼は真島の方へ歩み寄ろうとしたが、川底の石のぬめりけに足を掬われ尻餅をついた。全身がほとんど水気を吸い、これはいよいよ帰宅の道のりが長くなると予感した。
 真島が涼の荷物を抱え傍にやって来る。涼の腕を引き、立ち上がらせると彼は自分の腕を掴むよう誘導する。

 「流れ、キツくなってきたな。しっかり掴まっとけ」
 「う、うん」
 「……いや」
 「え?」

 真島は何か考えを思い直したのか、荷物を肩に背負い直すと涼の肩に手を回した。
 涼はどきりとした。そうせざるを得ないと自然な流れだったかもしれない。ただ、驚きを隠せなかった。
 肌に張り付いた制服の生地の上に真島の骨感のある手指の感触と体温の違いを感じる。すぐ傍を見上げれば、色白な肌としなやかな首と喉仏が視界に映り、涼をそれまで抱いたことのない感情を襲った。

 「あ……え……と」
 「……なんだよ」
 「な……なんでもない……」
 「しっかし……こりゃ、大目玉食らうよなぁ……」

 川から出て、全身ずぶ濡れの泥だらけ、ぐしゃぐしゃの荷物を見下ろして真島は大袈裟に溜息を吐いた。ジャラジャラとズボンのポケットに入っていた小銭をいくつか手のひらに掬って真島は涼に手渡す。

 「これで家に一回連絡入れろ」
 「う……ごめんね……」
 「公衆電話は……そうだな……いや……まずは……」

 真島はこれからどうしようかと考えているようだ。涼は急に居た堪れなくなり涙が込み上げてくる気配を感じ取った。

 「涼、銭湯行ったことあるか?」
 「銭湯……? あるよ」
 「……じゃあ、まずは銭湯で風呂に浸かってこい。その間にクリーニングに出して、代わりの着替え持ってくる。銭湯に公衆電話があるから、先に連絡入れるんだぞ」
 「……ふっ」

 涼のにやけ顔は誤魔化すのに間に合わなかった。真島は凄んで睨んでみせたが涼はすっかり恐怖が薄れて笑い声を漏らす。

 「あぁ?」
 「……吾朗くん、お兄ちゃんみたい」
 「呑気なやつ。風邪っぴきになる前にさっさといくぞ」

 土手の上に戻ると冷たく乾いた風が吹き抜けていった。
 淡い月光によって、真島の頬や腕に赤いミミズ腫れや痣が露わになる。

 「……痛そう、大丈夫? いっぱい怪我してる」
 「こんなん唾つけときゃ……」
 「これじゃ、絆創膏、足りないね」
 「……ひひ」

 
  ◆ ◆ ◆



 繁華街の外れにあるクリーニング屋に荒川涼の制服を預けて、彼女の替えの衣類を詰めた紙袋を提げ銭湯に戻ろうかという時だった。

「真島」

 冴島の腕が真島の肩を捕らえ、その様子があまりに殺気立ったものに映ったのか通行人の人々は二人の青年を避けるようにいそいそと立ち去っていく。

 「なんや兄弟、そない仏頂面しよって。ネエちゃんらが怖がって逃げてまうで」
 「アホ抜かせ。惚けるんとちゃう。その怪我……やったんか、一人で」
 「……ま、大したことあらへん。こないなもん、かすり傷や」

 冴島は真島の生々しい怪我から喧嘩の度合いを測り、次に彼の手にある紙袋に気付いた。

 「なんやソレ」
 「買い出しや」
 「あ?」
 「中見てもエエけど……女モンやで」
 「兄弟!」

 なんとなしに紙袋の中を覗きかけた冴島はパチンと真島の頭を叩いた。

 「イッヒッヒッヒッ……! 自分、靖子ちゃんおってなんや……それ……ひひひ……!」

 目的地である銭湯の前に到着すると冴島は怪訝そうに眉を寄せた。

 「……なんで自分……まさか」
 「そのまさかや。別にやましいことないで。……輩に絡まれてのう、で、制服汚してしもて……その着替えや。あの子がそうなったんは、俺が原因や」
 「……さよか。ほな、さっさと行ったれや」
 「ああ」

 真島が暖簾を潜りかけた時、再度冴島が呼んだ。

 「兄弟」
 「あ? なんや」
 「あんまし、のめり込まんようにな」
 「……わかっとる」

 冴島の忠告は耳が痛いほどだった。今日のような出来事が今後また起こらないとも限らない。身を引くなら今このタイミングだ、と頭は理解している。だが、不思議なことに真島はまた次の日になればあの年下の少女が自分を訪ねてきたらば、言葉を交わし時間を共にして、ごく自然に当たり前に受け入れるだろうと思った。
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