獣くんの密かな愉しみ


 どうして”彼”が表に顕現しているのか。
 そんなことはまったく知るところにないけれど、彼女が眠っている間は上手く塗り壁みたく擬態しているつもりだ。
 
 朝食を作り、真島をキスで起こし、料理を食べさせ、出勤を見送る。
 ベランダでこれからの季節に向けて植物の植え込み、後片付けと家の掃除をこなし、試験に向けて勉強に取り組む。昼食もほどほどに祖母に電話を掛け他愛ない話をした後、昼寝をする。
 夕方になると買い出しに出掛け、買い物が終わればなるべく寄り道を避けて帰宅して、夕食を作る。単調なスケジュールだ。
 真島が帰ってくる時間に合わせて風呂を沸かし、時刻を確認すると夜の八時。食事だけは一緒に食べると約束した手前腹を空かせてテーブルの上でうつ伏せになってうたた寝をしていると、玄関から彼の気配がして出迎える。
 「ただいまぁ〜。帰ったで〜」
 「おかえりなさい」
 「すまん。遅なったわ。腹へっとるやろ」
 涼が返事をしなければ、犬か猫が上機嫌で主人を出迎える光景だったに違いない。嗅ぎ慣れた香水と汗、それと僅かに鉄の生臭さが鼻腔に這入りこんでくる。顔の微細な筋肉の動きが無言の物言いを呈する。真島はいとも簡単に察して自身の体臭をたしかめた。
 「ん? 今日はちと暴れてのう……すん。……臭うか?」
 「ううん。全然。……そんなことよりお腹ぺこぺこ。早く食べようよ」
 体をよく動かす人だからと、料理のメインが肉料理に偏りがちだ。チキン南蛮、生姜焼き、トンカツ、唐揚げ、肉野菜炒め、ハンバーグ――。毎日もりもり食べてしっかり完食するから作り甲斐がある。「美味い、美味い」としきりに頷いて褒められれば作り手側のやる気の糧となり調子も上がるというものだ。
 ――などと、子供のいない専業主婦の日常観察は、新生活から一週間を過ぎた頃には飽きていた。
 この通り療養を兼ねた社会復帰は継続中で、だらだらと過ごすほうが適当であるのを頭で理解していても、不自由で拘束だらけの人生から解き放たれた涼の中に残ったのは少ない欲望=B
  涼が熱心に取り組んでいる大検もつまるところ涼自身の目的ではなく、彼女の死んだ兄の果たされなかった人生を代わりに叶えようというのが動機である。
 獣≠ヘ盛大なため息をついた。
 彼女の規定するルーティン通りにその日を終え嘆きだった。

 「つまんねえ……」
 獣≠フ性別は男だ。
 男と自己認識しているがその実体を持たず、感覚を共有するに留まる存在であり、証明する手立てはない。
 獣と涼との違いは欲望の大きさと好奇心が強いことだった。
 涼が定めた生活は常にやることがなんとなく決まっている。――趣味は今のところベランダの少ないスペースでのガーデニング。病院から退院する時、主治医が社会復帰のために勧めたのがきっかけだ。
 「ああ! つまんねえ、つまんねえ!」
 獣は洗濯物のカゴを両手に持ったまま地団駄を踏んだ。
 その日も、なんとなく意識の中で浮上していた獣は涼のルーティンをこなしていた。
 夕食を作り終えても真島が帰ってくるまでかなり時間がある。
 なんとか気を取り直して衣類を畳むものの集中力に欠き、退屈を紛らわせたくてゴロゴロと衣類の上を転がって、バタバタと虫けらのように手足を投げ出しながら喘いだ。
  「このまま一生こんな生活なのか……!?」
思わず頭を抱えて叫ぶ。
 獣≠ノとって今のところ唯一のカンフル剤は、真島だ。
 彼の周りは賑やかでいつも刺激的な楽しさに満ちている。涼は真島の語る愉快な話や、借りてきたビデオを鑑賞し、次の遊びのための予定を練るだけでも満足だろうが、獣≠ヘここ数日のうちで刺激をなんとか摂取しようと躍起になっていた。
 獣≠フ欲望を満たす行為とは即ち、生殖行動。なぜならそれは本能に根ざす根源的な欲求であり、それが満たされていないからこその渇望である。
 一言でいえば、男女の営み。
 とりわけ二人の間柄においてなんら恥じる必要もない事柄。公正な関係を堅持するには、当然ルーティンに組むこまれていなければならない夫婦のイベントである。
 ―――ああ……これは牢獄だ。
 獣≠フ中には快楽主義の一面を併せ持つ。
本当にただの獣≠ナあるならば問題は大事にならずに済んだだろう。しかし、彼は人間的な思考を獲得していた。生殖行動に快楽と娯楽を見出していた。
 ゆえに、涼の規定する生活に不満を抱いていた。
 不思議なことに彼女の肉体の中にあって、主導権は獣≠ノ無かった。たとえば昼間から暴食や飲酒をすることも、ぐうたら長い昼寝をしたっていいのにきっちりそのまま定められた時計じかけに体は動く。背徳的行為の浪漫を堪能する隙間さえなく。
 涼の決めた時間になると、否が応でも次の作業に移行する。強い行動制限によって獣≠ヘただひたすら、心の内で唱えるのだ。
 ―――あ〜あ。セックスしてぇなぁ……。
 獣が虚空に向かって切なく鳴く。

 涼の記憶を顧みるに、営みがないわけではない。その時が来ると、世界がブラックアウトして獣には見えなくなってしまう。獣が考えるには、彼女の視界や音や記憶に関する閲覧に制限をかけている。それがまた獣には気に食わないのだ。
 まだ祖母の家に住んでいた頃のほうが楽しかった――とさえ思う。狭い部屋の布団のなかで、真島を困らせてそれはそれは愉快な毎日だった。
 思い出せる限りの最初の目覚めは、涼の誕生日の一泊デート明けからすぐの頃だ。


  ◇ ◇ ◇

 凍てつく外気から遮り厚い布団に丸まり身を寄せ合う二人の暖は、お互いの体温と湯たんぽひとつ。
 常夜灯の橙色が夜の太陽となり闇をぼんやりと照らしている。
 入浴後の石鹸と畳のい草の淡い匂い。真島の腕に頭をのせて、彼の厚手のトレーナーから覗く首筋から鎖骨の窪みできた陰影を眺めていた。真島はさらさらと涼の髪を梳かし、とりとめのない話をしていた。
 『新婚旅行どこにしよか』
 『―――もう? 気が早いんじゃ……ない』
 『鉄は熱いうちに打ていうやんか。行きたいとこないか? ん?』
  いつもその性格から大きくはしゃいだり、職業柄怒鳴ったりする声が、ふわふわと寝入り間際ゆえなのか、はたまた涼を前にしてなのかいっとう優しい。それは湖面に打つ小さな波紋のように穏やかで、ぼそぼそと低い囁きを聞いていると自然と眠りに落ちていく。
 その日も涼の瞼はとろとろと閉じていくところだった。
 無防備に意識を手放した時、そこがちょうど獣の入り込む隙間だったのだろう。スイッチを切り替えるように、彼女が曖昧に聞き逃した言葉を獣≠ェ替わり聞き届けていた。
 『―――涼ちゃん……寝たか……?』
 真島は涼の頭を撫でて、大切そうにこめかみに唇を二度落とした。
 入れ違いになった獣は眉を顰め、軽く欠伸をした。
 視線をあげると、真島は「眠れんの?」と声を掛けてきて、それがあまりにも愛らしく感じ――獣は涼の体で半ば身を起こし、真島の上に被さって唇を求めた。
 『……涼……ん、待てや……って……ひひ……ん……好きやのう……?』
 抵抗もなくすんなりと受け入れたのをほくそ笑み、触れ合うだけのものが、深みを増し、舌をも絡め合うわせるものに変わっていく。――そのあたりでようやく、真島は顎を引いて、涼に交わした約束を思い出させようとする。
 『―――なぁ、聞こえるかもしれんで』
 真島がひっそりと戒めを囁く。
 窓の外で風の吹く音がぴゅうと流れ、カーテンの奥のガラスをカタカタと鳴らす。ガタゴトと階下では眠りの途中に起きた祖母がトイレに行き来する生活の一つ一つの音が伝わってくる。獣はそれでも沸々と湧き上がる欲を捨て置くことはできない。
 『……まだ、なにもしてないのに』
 『こっちやと、気ィ散るやろ。次のデートにホテルでしよ。……なぁ――ン』
 言葉を遮るように唇を塞ぐ。
 真島の提案は至極真っ当でその方がお互いのためなのは理解していた。涼なら潔く諦めている。
 獣は見つからぬよう密かに、にやりと笑い、真島を困らせようと唇を突き出してまたキスを求めた。
 ちゅ、……ちゅっ……と音をたてて唇を吸うと、暗がりの中で、目論見通り困惑した表情をしている気配が手に取るようにわかる。もう一押しと、お願いを口にする。
 『……したいなぁ』
 『……やから、聞こえてまうで。声、我慢できんやろ』
 淡白な突き返しだが、この程度であっさりと引き返す理由がない。獣は真島が涼の押しに弱いのを知っている。また優しいことも――。
 だから押して押し続ければいつか観念するはずだ。獣はそう考えた。また、それ以上に、この男を好きにできる。困らせる事ができる。世界でただ一人。そんな優越感と、支配欲、嗜虐心とに浸っていた。
 どうして声を出すのが、涼の方だと思っているのだろう――と。
 獣は身を起こし、真島を見下ろす。
 『じゃあ……おっきくなったら……負けね?』
 『は?』
 『吾朗さんが……感じたら……ね?』
 『――ね、て……。いや、……積極的なんは……嬉しいけど……のお、欲求不満にさしてたんか……?』
 『……したくないの……?』
 当惑最中の真島からの問いには一切答えず躱して畳み掛ける。
 返答に窮する様子に獣はさっそく行動に出る。
 布団の中に潜り込むやいなや、さわり――と、真島の下腹部に下衣の上から触れれば、ぴくりとその身が跳ねた。まさかそこまでするとは思わず、焦ったのか真島からやや上擦った声が出る。
  『―――涼ちゃん、アカンて……。なぁ、おい……。あ、ちょお……ほんま、待てや……!』
 真島は布団を勢いよく捲り上げて涼を引き離そうとするが、既にズボンはずり下がり、下着だけになっている。
獣はくつくつと忍び笑い、また、さわりさわりともどかしくなるような手つきで局部を撫で、次第に期待を膨らませていく下腹部の感触を味わう。
 『やだぁ』
 『やだぁ、ちゃうねん。勃ってまう……はぁ、……デカなってもうたやんか……』
 呆れとは裏腹、満更でもない声の調子に獣は気を良くする。暗がりの中であっても陰影を帯びるそれに人差し指でなぞり突いてやる。
 『―――はち切れちゃいそう。苦しくなぁい……?』
 『――ン……そこ、は……』
 『―――ふふ……吾朗さんの負け』
 勝ち誇った笑みを湛え獣は宣言する。
 ぴくりと真島が反応を示して涼を一瞥する。勝負事には強いこだわりのある男に、勝ち負けの……特に負けというものには屈辱的な響きを伴った。
 『――負けやと? まだ終わってへんやろ』
 『……ふうん、ムキになっちゃって。可愛い』
 『オモロイこと言うのお……。どうしたんやぁ? 今日は、そういう気分なんか? あ?』
 『やー、もう!』
 真島は涼の身を背中から容易く捕らえてゴロンと布団の上に倒す。長くすらりとした白い脚が逃さないよう股の間に差し込まれ、このまま形勢逆転することは簡単だと言いたげな、さりげない抵抗を感じた。
 獣はシメたと思った。売り言葉に買い言葉。挑発に乗ってしまえば獣の調子に引きずり込めるだろうと。
 『……お口でしてあげよっか』
 獣の突拍子もない言葉に思いがけず叫んだのは真島の方だった。
 『は……!?』
 『しーっ。おばあちゃん起きちゃう』
 人差し指を唇に当てて、声のトーンダウンを促す。
 身を捩れば真上の彼はなんとも気難しそうな顔つきでいくらか逡巡した後、涼に尋ねた。
 『……やったことあるんか?』
 『……あるって言ったら?』
 真島はさらに喩えようのない複雑な感情を端正な顔に宿した。
 想像の先の傷心にも、憐憫にも、生理的な忌避感にも感じられる表情。
 さすがにやり過ぎたかと反省した獣は身を起こし、真島の顎をとらえてキスをした。
 『ないよ。吾朗さんが初めて』
 『……はあ。なんちゅう娘や……』
 『あのね……あの……下手だと思うけど……教えて……ほしいな……?』
 恥じらうように視線を下げてもう一度上目遣いで見詰める。そうすればもう、断る事が出来ない真島は観念したように深い溜め息を吐いた。
 『イヤ……?』
 『イヤとちゃう……。けど、あんまし……煽らんでくれ』
 顔を片手で覆い逃げ場のない興奮をやり過ごすように視線が逸れたのをみて、それが功を奏したのだと理解する。――それが一本一本牙を抜くみたいに愉しい。
 『ふうん……可愛い〜。……きゃっ』
 『なにがきゃ〜や。おちょくったらアカンでぇ、ほんまこの子は……』

 『ほれ』と軽く言い放ち、真島は下着を脱ぎ仰向けに寝そべる。惜しげもなく雄々しい陰茎を晒して、準備を整えてくれる。想像よりもいくらか大きいそれに獣は静かなる興奮と、少しも可愛げなく立派なものに憎らしいと感じた。

 『無理せんでええで』
 ―――口小さいし全部入るかわからんな。
そう、何気ない言葉に獣はまるでその能力を期待されていないかのように感じられ、益々負けず嫌い精神を刺激した。
 ―――絶対に満足させてやる。真島が音を上げるまで。
 そうして、その日からというもの獣は夜な夜な口淫を迫った。はじめ営みへの口実のつもりだったものが、それ自体が目的にすり替わり、幾日か経過して新居に引っ越す事が決まった。
 獣は新居を舞台とする、めくるめく官能の日々を期待していた。
 かろうじて、ささやかながら、彼女の祖母に対する気遣いが少なからずあった。しかしその制約が外れてしまえば際限ない欲望を開放できるはずだと考えていた。
 むろん真島とて、そのつもりでいる。生活の節々に滲む熱気を孕んだ眼差しはいつでもその気になった瞬間を逃さないように差し向けられている。まるで、おあずけを食らい腹を空かせた犬のように。

 一方で涼は無意識の内の破廉恥な行為の数々に怖気づいたのか、獣を意識せずとも締め付けるようになっていった。
 
 そうしてこのところ、獣は不服だった。
 まったくもって、肝心なところでブラックアウトが起きたからだ。
 家を出て新居住まいになる経緯を思い返していると、またチクチクと頭の中に痛みが走る。先日、また約束を破ったため締め付けが厳しくなった。
 自制するために真島の休日だけ夫婦の営みの時間にしようと――約束を二人で取り決めたのだが、案の定、獣が暴れ出した。朝から盛ってしまったことを後悔し逆恨み、それからというものガチガチに獣の意思決定を拒絶するようになってしまった。
 ―――なにやってんだよ、ばか。新婚ってもっとふわふわ浮かれてるもんだろ?
 毎日、朝から晩まで猿みたいにずっこんばっこんヤッてなんぼだろ?
 ちょっとおねだりしたらイチコロだぜ?
 ×××が×××―――。

 ほら規制が入った。
 涼の意気地なし!

獣は頭を掻き毟るように抱えた。ここが屋外でなくてよかった。奇怪な行動に移っては外聞を汚す。そのような意識さえ涼の方から伝わってくる。
 なんでだよ〜夫婦は合法だろ〜。
 いいのかよー、レスって風俗いっちゃうかもよー。
 いってー!! なにすんだよー!! は?!
  物体など何も無い世界の中で、コツンと頭もない体に衝撃が走る。彼女が小突いたようだった。


  ◇ ◇ ◇

 「―――ほんでな、そいつ警察犬に尻噛まれよってな……、なんや涼ちゃん。ボーっとしよって。つまらんかったか?」
 「……え?」
 「元気ないで?」
 「そんなこと……」
 話そっちのけでセックスしたい願望からか、食事中にもかかわらずふしだらな妄想を繰り広げてしまったことなど、口が裂けても言えまい。
 彼の大好物のハンバーグの味も今日は一段と曖昧に感じるほど思考の世界に没頭していた。我に返り涼は恥じらって口籠った。真島はしゅんと申し訳無さそうに眉を八の字に下げ、案じるように涼を窺い見る。
 ―――あぁー……。ちがう、ちがう。そんな、大それた事なんて何ひとつないのに。
 涼が悪いんだぜ。冗談だと受け取られないくらい、真面目堅物だから真剣に心配されるんだ……。
 微妙な間が流れたのを気にして涼は席を立った。欲望を気取られないようそれらしい会話の糸口を目についた炊飯器に見出す。
 「吾朗さん、おかわりする?」
 「お、おぉ……」
 「……神室町も徐々に警備体制がしっかりしてきてるのね。警察犬なんて、事件現場か、空港で探知してるイメージがあるもの」
  炊飯器からおかわりのご飯をよそう。真島はもりもりよく食べるから作り甲斐がある。
 「吾朗さんも気をつけてね」
 「あぁ……犬きたら追い回したるわ。ひひひ……!」
  ほかほかのご飯の入った椀を手渡しながら、元気のいいシェパードを追いかける愉快な真島を想像すると自然と頬が緩んだ。
 食卓の後片付けを制する真島の進言に、涼はすでに持っていた食器を流し台へと持っていった。
 「涼ちゃん、先入ってええで」
 「いいよ、吾朗さんのほうがお疲れでしょ。明日もお仕事なんだから。……ね?」

 獣≠ヘ不服そうに声をあげた。
 そこは空気を読め。というよりも、獣≠フ欲求が先走り、これから発展させるチャンスが降ってきたというのに、自らのルーティンによって打ち壊してしまった。女の本質は禁欲そのもので、強固たる理性が”獣”の台頭を許さない。服従を敷かれ、手も足も出ない”獣”は犬歯をむき出しに文句を垂れる。

 ―――なんでなんだよ!
 ちょっと前まで相手にされないの不安がってたくせに、そりゃあないぜ。
 新婚二ヶ月にしてはお堅すぎるんだよ!
 獣≠ノとってつれない態度を堅持する体の主。
 洗い物の最中に騒ぎ立てる獣≠静かにさせるべく涼は包丁を逆手に持つと、まな板に置いた手を突き刺そうとした。
 ―――や、やめろよ! 俺が悪かったって!
 怪我なんかしたら、あいつが心配して泣くだろ。やめとけよ……。
 言葉を発しないが強い意志によって、獣≠捻じ曲げる力が十全にある。
 彼の知る中でもおっかない方の涼である。獣≠ヘぐうと唸ると渋々、洗い物を再開した。
 獣≠ヘこの程度ですっ込むような性質ではない。目にもの見せてやると気合を入れてあとに引けないようにしてやる。意気込んだ所で何も知らない真島の朗らかな合図が廊下に響いた。
 「風呂入り〜」
 入浴を終えた真島は暑がりで冬であろうとも直ぐに上衣を纏うことをしない。首にタオルをかけてズボンを履いただけの格好でキッチンのあるリビングにやってくる。
 獣は水仕事を終え、手をタオルで拭って訪れた彼に近寄る。なにか言いたげでなにも発しない涼に真島は小首を傾げた。
 「ん、なんや?」
 涼の視線は彼の瞳を見つめていたが、次第にそれが下降し体を這うような眼差しへと変わる。
 首筋、鎖骨、脇の下、胸から割れた腹筋。健康的な肌のハリ、その色白に対して野性味のある肌質。鼻を近づけてすんと匂いを嗅ぐ。洗いたてで新鮮な石鹸とシャンプーの清潔な香りと彼の持つ肌の匂いが混ざり合っている。
 「……涼」
 「いい匂い」
 甘く疼く気配の到来。このまま彼の体を抱き締めたらどうなるだろう。渇きを満たして潤し、すべてを注ぎ込んでくれるだろう。
真島もそれを感じ取ったのか、細めた瞳の奥で色情が蠢くのを微かに垣間見た。
 その甘やかな予感を打ち消して、獣はそっと身を離した。お預けだというように。
 「お風呂入ってくるね」

 獣≠フ合図を真島は受け取ったはずだ。なぜなら、彼の目はその気になっていたし、なにより真島は涼をしっかりと女扱いするときは名前だけ呼ぶ癖があるからだ。獣≠ヘ密かに、その女扱いをする時の支配欲を募らせた雄らしい真島を好いていた。
 獣による意趣返しは効果てきめんだ。
 涼はバスルームに入るやいなや、すでに熱く湿っている箇所を性急に慰めた。
 「……ふ、う……」
 獣≠ヘ二人が日頃どのような愛を交わしているかは知らない。だが、涼が真島の視線に当てられて欲求を消火しようとしている姿だけで妬けてしまう。
 涼は興奮の湧水の中を指でかき混ぜ、いつも真島がするような――その細やかな指遣いを思い出すとくらくらと目眩がした。獣は、沸騰する熱を自力で鎮めようと努力をする涼を鏡越しに見た。きっと真島は寝室でお待ちかねだろう。彼なら、熟れて蕩けた表情をさらになし崩してこの身を押し開く。情動に駆るに十分な女の顔をしているから、一溜りもないだろう。
 「……っぁ……」
 二、三度立て続けに興じて彼女は呼吸を落ち着けていった。自慰は淡白で面白味に欠けるもので、声を我慢しているのも獣≠ノ聞かせまいと堪えているようだ。
 浴室内は蒸し暑く甘い香りが立ち込めている。すべてを洗い流し何事もなかったかのように、本来のルーティンに立ち戻り身を清めていった。
 寝室に入ると室内の照明はトーンダウンして薄暗く、畳まれたバスタオルが用意されていた。準備万端な様相に涼は内心動揺し初めて結ばれた夜よりも緊張し始めていた。
 「そんなとこ突っ立ってんと、こっち来ぃや〜」
 「う……うん……」
 「長風呂やったのう。待ちくたびれたで」
 涼はギクリとして身を強張らせ、曖昧な笑顔を返した。
 熱る身体を鎮めるに時間が必要だった。あわよくば、真島が先に眠りに就いていてほしいとさえ願って一時間ほど湯船に浸かっていたからだ。
 それまで読んでいたメンズファッション雑誌をサイドボードに置いてベッドの上で伸びやかに寛いでいた真島は身を起こした。湯冷めしないように鼠色のスウェットを着ており、視覚的な暴力は抑えられている。それに一安心し、ゆっくりと真島のところへ近づいてベッドに潜り込んだ。
 「湯当たりしたんか?」
 「え?」
 「顔赤いで」
 「そ……そう?」
 「今日はやめとこか」
 「……うん」
 涼は安堵の笑みを零し、獣≠ヘ焦燥を募らせた。負けの流れに抗う術はまだ残っている。
 だが涼も防ぎ止めようと考えている。思わず、どちらがそう願ったのか体が勢いづいた。
 「わあっ!」
 「おお!? な、なんや……どないしてん……」
 「えっ……あ、ああ……その……」
 涼は真島の体の上に覆い被さっていた。自分でも訳のわからない行動に出たと思って困惑気味だ。
 「……きょうは……おくちでしていい……?」
 混乱するなか口走る言葉に涼は勝手に戸惑った。
 「…………なぁ」
 「あ、いやなら別に……大丈夫……」
 「……ジブンなんか変やで」
 真島は眉をわずかに顰め、涼の違和感を指摘する。
 「そ、そんなことないよ」
 「なぁんか隠してへんやろな?」
 「隠してない」
 首を振る。ただ、涼は最近自分に肉体的な欲求が実は際限なくあるのではないか、という気付きを得ていたがそれを口にしてしまうとなにか自分の中にあるものが許されないと感じていた。
 ついこの間もそうだった。
 「……こ、この間、寝坊しちゃって……恥ずかしい思いしちゃったし……」
 「なんやそれ気にしとんの?」
 「だって……」
 溺れすぎて、爛れていくのではないか。生活が風紀が乱れていくと、帰ってこられないのではないか。そんな不安が胸の中を占めていて、また、あまりにふしだらであるといった本性と羞恥に耐えられない気がした。
 今日の真島はまったく退く気配もない様子で、端に寄った涼の背中に身を寄せて切なく名前を呼んだ。
 「涼……毎日シよて言うたやろ。アレ嘘やったんか?」
 「そ……! そんなこと言ってなぁ……や、吾朗さん……あっ……!」
 涼の身を引き倒し、逃さないように背中から抱きすくめ、首元に噛みついた。
 「ん〜? なんか暑そうやのぉ」
 男らしくも繊細な手はありえないほど簡単にパジャマのボタンを外し、呆気にとられている間に裾下から忍び込ませ素肌を撫でていく。
 乳房をやわらかく揉み、先端をくにくにと人差し指と中指で弄ぶ。
 「――あっ……ぅ」
 「乳首ビンビンやん……一人でシたんかぁ……?」
 面白がる声で涼の行為を言い当て、その証拠を確かめるように下衣にもう片方の手が伸びる。全身が発火しそうだ。しっかりと湿りきったそこに指が到達し、隠しようのないぬめったところをなぞり、ゆっくりと沈み込ませていく。
「ぐしょぐしょやで」と責めるように真島は囁く。
 言い訳ができなかった。言葉を考えられなくなるほど頭に熱が集まっていた。真島の追及という名の挑発と感心混じりの声と充溢する蜜の感触と自覚が、熱い吐息となって漏れ出る。
「黙って一人でシたんか。アカンなぁ……おぉ、糸引いとる。やらしーのお?」
「ぁ……う……や、やだぁ……」
「ヒヒ、そないな顔して……一晩我慢出来るんか? 無理やろ、なあ? なあて……」
 真島の指が涼の中に突き入れられ、ぐちゃぐちゃと音をわざとらしく掻き立てていく。
 「あっ……あっ……やだぁ……! ひ……!」
 一度、果てた肉体はあっさりと快楽に上り詰め、涼はシーツを握りしめた。
 「ひひっ。ん〜? どや? 指でイッたで? お、せやせや……タオル敷いとかんとなぁ。もうヌレヌレやけどなぁ」
 肩で息をする涼の背中で、真島がズボンと下着を脱がしきり、取り去った指を舐める。
 敷かれたタオルの上に寝転され、起き上がろうとする涼だったが阻まれる。真島は上下のスウェットを脱ぎ鮮やかな刺青と雄々しい猛りを晒し、舌舐めずりした。
 思わず腰が引けていると彼はその身を圧しかけた。
 「なに今更恥ずかしがってんねん。……俺ばっかしイかされたとって情けないやろが〜根に持ってんねんで。存分に楽しもうや。防音よし、ベッドよしで揃えたったやろが」
 そんなことをしただろうか。涼は不安になった。無意識に無体を働く自身の行いと、その裏側で動くもう一人の存在≠ノ気を取られていると、彼の指が顎をとらえ厚い舌が口内に侵入し息が弾んだ。
 ひとしきり味わったあと、熱の籠もる隻眼が、二つあるかのような力強さで涼を射抜く。
 「――あ……! ごろーさ……」
 いまだ慣れぬ最初の重苦しい感覚に声をあげる。愛液に沈み込む剛直と、彼の堪える吐息の色気が涼の身体の続けざまにある。
 はらりと下がる黒髪が涼の額を掠め、もう一度真島の舌を受け入れる。腰が動き出し、振り落とされないようにしがみつく。真島の体も熱く次第にどちらの体温かわからなくなっていく。
 「……あっ……あぁっ、ああ、あん……!」
 「ひひ……体は正直モンやのう」
 からかいを唇にのせ、また熱波をひきよせ官能に身を委ねていく。
 「あ――また、……あ……っ」
 「なんぼでもイッたらええ」
 言いかけながら絶頂に身がしなる。収縮に彼は呻いて息を吐き性急さを増していく。
 「俺も……イきそう、や……!」
 奔流を感じさせる体の力み、瞬発的に滞留する熱気の発散、真っ白な光が弾ける。互いの体が離れ離れになってしまわないようにきつく抱きしめた。
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