八章『摩天楼とスコープ』@

 八章 『摩天楼とスコープ』


 1988年 12月


 大阪・蒼天堀


 師走に入ってから一気に寒くなった。
 フローリングの床がキンキンに冷えてまるでアイスリンクの上を歩くようだ。その冷たさは裸足でいると突き刺すような痛みに変わるが、真島には茹るような熱気と輝きから冷静になれる心地のいい感触だった。


 あの『穴倉』から出て数年、真島の身柄を引き受けた、嶋野の代紋違いの兄弟である佐川司により任されたのは閑古鳥が鳴くキャバレー「グランド」だった。酒と音楽のショーと女が楽しめる、浮足立つ時代の華やかな夜の店の支配人として短期間で隆盛へと導いた。

「夜の帝王」人はみな、真島をそう呼んだ。組から破門され、カタギになった身で極道に戻りたいと切望する若い男は都合のいい金づるだった。オーナーの佐川へ毎月の売り上げを納め、あともう少し、あともう少しと上納金の額を増やされついには「あと五億だ」と言われた。

 真島にはそうするほかない。極道への道は一つしかなく、来る日も来る日も白昼夢のように輝く箱の中で欲望と金と女が桃源郷の世界を創り上げている。彼の目指すところは摩天楼のようで、今日も静かに天へと続く道を作るべく、金を積み重ねていくのを見下ろされている気がした。
 


 冷えたフローリングの上には薄く心もとない掛布団とちゃぶ台、煙草の灰皿が置かれているだけだ。寝て起きて仕事へ行き、帰ってくる。真島の生活は視野が広くなったがその実、『窓がついている穴倉』と変わりはなかった。生活感のない吹きさらしのような小さな部屋の中で紫煙をくゆらせる。蒼天堀という町の監獄のなか、佐川の息がかかった監視役に見張られて自由はない。

 煙草を灰皿に押し付け一服を終える。歯を磨いて、疲れた身を床へ横たえた。穴倉の独房のほうがまだ温かかったかもしれない。床ではなく土が塗り固められていたし、屋内で窓もなく隙間風こそあれどたとえ上半身を裸にしていても風邪はひかなかった。否、それは記憶の美化だろう。喉元過ぎれば熱さを忘れるというように、どれだけひどい場所だったかを少しずつ忘れているのだ。

 夢をみている。白く細く小さな手のひらが触れている。脂汗が滲み額に張り付いた髪をそっとよけるその少年のシルエットが黒く浮かんでいる。


 「う、……イン…」


 『イン』それが、彼の名前だ。

 彼が怪我を負って以来、姿を見ることなく真島は穴倉を出た。それからどうなったかは知らない。聞いたところで教えてくれるわけがないのだ。なぜなら真島は、『カタギ』になったのだから。

 ただ真島の性愛の対象が性別による括りではなく、相手次第だと知るきっかけになった。極道は男社会ゆえにそちら側の趣味の人間もいる。しかしその何割かは女の代わりとしての性の捌け口の場合もある。真島はこの二十四年の人生のなかで「女が好き」だと思っていた。大抵の男はみんなそうだ。「女」であればたとえそれが好意のない女でも抱けるだろう。しかしそれは「女の体」を抱いているに過ぎない。

 「イン……っ」

 吟は優しく真島の体を触れている。そうする機会はたくさんあった。彼は仕事をこなしている。浴室で真島の体を洗い清め、濯ぎ、拭う。やさしく傷つけないように。それを真島以外の人間にもこなすのだ。優しさは分け隔てなく与えられる。公正に。彼は卑しい揶揄も聞いたことだろう、もしかしたら自慰を手伝うこともあったかもしれない。

 真島はそんな想像をする己が一番卑しいと思う。しかしこれは真島の想像のなかの話で本当かはわからない。
 息を深く吸い込み、浅く吐く。掛布団の外の冷気が心地よく感じられるほど、体が熱い。真島は禁断の想像を広げる。背徳的で、思わず自罰的にその想像を寸止めすることさえある。

 吟の白魚のように白くやさしい手が頬に触れ耳をなぞり、顎下へ首へ喉仏をくすぐり、開けたシャツのなかに潜り込んでいく。真島はほぼ無意識に、性急にボタンを指で押し上げて外し、煩わしくもベルトの金具を外す。黒いスラックスのボタンも外し、ジッパーをジジジっと引き下げる。下着に手を入れすっかり膨らんだ欲望を自ら慰めた。

 「は、……っく、あぁ、あかん…っ」


 自ら扱く手に吟の手が重なることを想像する。触れられただけで、あっけなく達する。こんな姿は誰にも晒せない。
 肩で息をして、フローリングの床に飛び散った体液をぼんやりと眺めた。なんて女々しくなったのだろう。しかしそれは嶋野に掘られるところに居合わせた吟には恥すらも沸かない。

 懸想しているのだ、吟に。こんなにも悍ましい汚物のような部分も一人に知られていると思うと、みな彼を愛さずにはいられない。
 ただこんな空虚な慰めよりも、セックスをしたいと思った。彼が自分に挿れてもいいし、彼の中へ招かれたっていい。彼のにおい立つ肌を吸ってみたいと思うのだ。陽にあたる猫のようなにおいを肺一杯に吸い込んで、熱と快楽を共有したい。このように強烈な欲望を持ったのは生まれてはじめてだった。真島は内心「壊れてしまった」と思った。

 社会は、他人は、きっと許さないだろう。だから真島自身が許すしかなかった。同時に、王吟への愛とそれと同じ強さで深まる憎しみがあった。


 「……ほんま、どないしてくれんねん…」


 自嘲気味に呟いた唇を冷気が触れる。

 街を闊歩する同年代のアベックたちが疎ましい。彼らは夜の街で食事をし酒を楽しみ、そのあとホテルへ行き愛し合う。正しい世界に生きる男女。真島はかつて自分も完全にそうとは言い切れないが、似た関係を持った女性が何人かいる。しかし、いま彼女たちに会ったとしてもあの頃と同じように愛し合えるかはわからない。そんな風に、その体に変えられてしまったのだ。

 それに真島は体の関係を持つことは男女ともに可能だが、バイセクシャルではない。もとは「女」が好きだったし今もそれは変わっていないはずだが、自信がない。「女の体」が欲しい訳ではないのだ。
 

 「憎らし……」

 はぁ、とため息を一つつく。

 もしこの檻から出たら、どうしてくれよう。きっと彼を探すだろう。探すしかない。

 探して、殺す。彼が生きている限り、極道に復帰すれば弱みを握る存在になる。心中平穏ではいられないのだ。——そう、彼を狙う者は多い。
 彼と幸せになれることはありえない。ふたりが普通に出会えていたとして、愛を抱えることはなかっただろう。憎しみにかられることもなかっただろう。
 本来であれば。

 とても、とても皮肉なことなのだが。

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List午前四時の異邦人