八章『摩天楼とスコープ』A


 大阪の空は鈍い銀色に曇り、締め付けるのような寒さでいまにも雪が降りそうだった。
 烏のように黒い外套を羽織り、荒川涼は繁華街を歩いていた。男物の外套は余裕が十分にあり何かを隠し持つには打ってつけだ。まだ昼間なのにもかかわらず人通りが多く、眩暈がした。

 『穴倉』から出たのは四年ぶりだった。真夜中の世界に居続けたせいか、涼の肌は太陽の下では白磁のように白く、いっそ病的に映る。外套の色とも相まって異様な雰囲気を醸し、涼が歩けば人が道を譲るのだ。王汀州から『殺し』の指令を受けた。東京から大阪へ。日本に帰国してからようやく訪れた自由行動に、まるで見知らぬ外国に訪れたかのような気分になり、心もとない。そんな彼女の心中など通行人は誰一人気づくことはないだろう。


 「降りそう――」

 涼は道の隅に寄って空を見上げる。
 派手な電光飾に原色の街、食べ物、女たちの香水、どこからか体に響くポップな音が漏れている。人間の欲望が渦巻いている。地上にいると酔ってしまう。動くものすべてが目まぐるしい。遊園地のコーヒーカップのようにぐるぐると回転しているみたいで、それがずっと続いている。唯一なにもない空を見上げれば少し落ち着きを取り戻せる。

 王汀州は『蒼天堀へ行け』とだけ涼に教えた。薬の売買、売春、殺し、この三つのなかから『殺し』を選んだが、まだ対象者の名前も聞かされていない。現地に着き次第、公衆電話から連絡を寄越せといわれている。『脱走』しないための予防線だろう。吟が繋いでくれた記憶、命を無駄にできない。彼はしばらくの深い眠りに就いた。一度『殺し』をやると引き受けた以上は遂行しなくてはならない、涼は今まで逃げてきたツケだと思った。

 すべてから逃げたかった。

 親から、聖母マリアから、勉強から、するべき事柄から。——兄の死も、いまだ受け入れられているかといえば、難しい。理不尽だ。しかし抗うことを最初からしてこなかった涼には受け入れることしかできない。今回も抗えない。生きるために。自分のエゴのために。


 街の地理を把握するために地上の道をしばらく歩いたあと、公衆電話に入った。
 ダイヤルを回し、向こうのベルを鳴らす。二回鳴らし、一度切る。そしてもう一度かけ直すのだ。そうすると——電話口に低い男の声がでた。


 「『王吟』だ。目的場所についた。仕事を言ってくれ」
 「わかった」


 組織にいるうちはまだ『王吟』としてやり通す。
 筋は通したかった。


 男は背後にいる男とぼそぼそと聞き取れないほどの音でやりとりをし、ふたたび受話器に戻る。


 「ターゲットは『マキムラマコト』だ。蒼天堀・招福町南の『ほぐし快館』に勤務。…顔の確認はコンビニへ行け」
 「コンビニ?」
 「Mストア 蒼天堀店。立ち読みコーナーに赤いニットに黄色いマフラーの男がいる。そこに写真がある」
 「……わかった」
 「使用武器もそいつが持ってる。バイオリンケースの中だ」
 「わかった」

 公衆電話をでる。外はまだ明るい。作戦実行は夜を待った方がいい。しかし、ターゲットの顔は頭に入れておく必要がある。涼は蒼天堀の北東にあるコンビニへ向かった。

 途中ガラの悪いチンピラに絡まれそうになるが振り切って逃げた。『Mストア 蒼天堀店』に入ると、指示通りに赤いニットと黄色いマフラーの男が雑誌コーナーで立ち読みしていた。男は一瞬だけ涼の目をみた。不審にならないように、ゆっくりと本を読むつもりでその男の隣に立つ。何冊か雑誌を読み、棚へ返す瞬間に男の手元に開かれっぱなしのページを盗み見た。

 そのページの上に写真があり、女が写っていた。年齢は涼とさほど変わらない。猫顔の美人だ。これが『マキムラマコト』だ。暗殺対象が『男』だとか『女』だとかは関係ない。最初の『殺し』がたまたま年齢の近い『女』になっただけだ。
 涼は男の足元に置かれている楽器ケースを拾い上げた。

 コンビニから出る。まだまだ外は明るい、夜になるまで時間をつぶさなくては。金は数万円所持しているが、できることならこれも渡航費に充てたい。
 歩き回るのも体力を消耗するし寒空の下にずっと待機しているのも同じことだ。紅茶一杯、少々額は減るがこれで粘ろう。予定をたて、近くに喫茶店がないか探し歩く。なかなか見つからず街の中まで入り込んできた。騒がしいゲームセンターの前を過るとき、ひとりの少女がじっとゲームセンターの方を見つめて立っているのに気がついた。

 その後ろ姿はどこか関心をひきつける。見たところ保護者の姿がない。誰かを待っているわけでもないようだ。この街へきてたった数時間だが、治安はどちらかと言えば悪い。
 涼はしばし悩んだが、声をかけた。

 「失礼、お嬢さん……」
 「?」

 涼は声をかけたがやはり思いとどまるべきだったと少し後悔した。今の自分がいったい何者であるかわからない。暗殺者なのか、ただの通りすがりの不審者か。どちらも不審者なのだが。見てくれ全身真っ黒で、楽器ケースを持ち歩いているその格好が、街に馴染んでいるかといえば違う。異質な存在だ。少女を守ってやろうとしているが、第三者視点では、危害を加えようとしている人間に映るだろう。

 「あぁ、いや…えと……」
 「どないしたん?……おねえちゃん」
 「えっ。おねえちゃん……って」

 少女はあっさりと素性を見抜いた。涼は自分の変装が完璧でないことに息を呑んだ。他人には『女』として見えている、それは不味い。あの『穴倉』で吟は『栄養』と称して男性ホルモンの『テストステロン』の注射を打っていた。もとは王汀州が用意していたものだが、吟ほどの胆力のある役者なら性別くらい誤魔化せたはずだ。彼の意思でこの体を造り替えようとしていたのだ。現に、髭も生えるし声は低くなったし、筋力もつきやすい。女にある月経もない。『穴倉』での仕事は肉体労働だ。それに耐えうる体を得るため、彼はそうしたのだろう。

 この体が数年の昏睡を経て、なりかけていた男から女に戻りつつあるのだ。
 ……もう少し打ち続けなくてはならない。

 「お嬢さんはどうしてここにいるのですか。お母さまやお父さまは?」
 「……うち、おとうちゃんおらんねん…」
 「そ、それは、失礼しました」
 「でも、最近、あたらしい『おとうちゃん』がみつかってん……!」
 「新しい…? よかったですね」

 少女の母親が再婚したのだろうか。嬉しそうな表情なので馴染めているのだろう。
 涼は少女をみて自身がずいぶんと親不孝者であると感じた。今にして思えば、もう少し歩み寄るべきだったのかもしれない。実家は関東にあるが寄り道をせずまっすぐ大阪へ着てしまった。
 
 「それで、どうしてここに?」
 「……あのなかに、文鳥のブンちゃんがおるんよ…」
 「文鳥のブンちゃん…? クレーンゲームのことですか?」

 少女は「そう」と頷いた。クレーンゲームの景品にあるぬいぐるみが欲しいのだという。

 「いつもおとうちゃんがとってくれるんやけど、もう何個かもらってるから、……あかんとおもう」
 「……お優しいですね」
 「ううん、……せやから今日はみてるだけにしようって、思てんねん」

 なんていじらしいのだろう。

 涼はその『おとうちゃん』が取ってくれるはずだとしても、少女の喜んだ顔をみたいと思った。
 涼はゲームセンターへ入った。クレーンゲームは正直いうと初めてだ。磨りガラスを覗いてみると、少女の言うように『文鳥のブンちゃん』のぬいぐるみがいくつか並べられている。中にあるアームで掴んで穴へ落とすという趣旨の一見簡単そうなゲームだが、隣のアベックたちが四苦八苦しているのを見ていると簡単ではないようだ。

 所持金数万円のうち二千円分を両替した。これは……必要経費だ。誰かの幸せがお金で果たされるのであれば、いいお金の使い方だ。後ろめたい理由でお金を貯めているのだから。
 ゲームは想像通り、一筋縄ではいかない。

 「……ぐぅ」

 思わず唸る。

 しばらくしてやっと一体の『文鳥のブンちゃん』が手に入った。額内に収まったので早速少女のもとへ届けようとしたところ、隣のアベックが涼に声をかけてきた。


 「すみません! あのう、まずはおめでとうございます。……それで、ぼくたちさっきから隣でプレイしてたんですけど、全然とれなくて!」
 「は、はあ」
 「差し出がましいのはわかってます、言い値で可能な限り出すんで……そのブンちゃん譲っていただけませんか?」
 「そ、それは」

 なんという申し出だろう。
 涼は困惑した。このブンちゃんは、あの子のものなのだ。

 「こっちの彼女、ブンちゃんが大好きで! 出た時からずうーっと欲しい言うてて、でも二人ともクレーンゲームは下手で……まだ一個も取れへんのです」
 「す、すみません」

 二人の男女が申し訳なさそうにしている。涼も鬼ではない。欲しい人が増えただけだ。

 「……お金は必要ありません…これを、どうぞ」
 「ほ、ほんまですか! ありがとうございます」
 「ありがとうございます!」

 『文鳥のブンちゃん』を惜しみながら手渡した。
 だが欲しい人へ渡ったことは何よりも嬉しいので、不問とした。
 アベックの彼氏のほうが「これで申し訳ないんですけど…」と白い狐のお面を渡してきた。

 「さっきメダルゲームしてて、それの景品です」
 「……ありがとうございます」

 アベックたちは最後にもう一度頭を下げて去っていった。涼は息を吐いた。こんなこともあるだろう。
 涼はもう一度、ブンちゃんを取ることにした。先ほど取ったことで要領はつかめている。二回目はあっさりと取れた。そのブンちゃんを持って、少女のもとへいった。

 少女は男と話しているようだった。細身で背が高く、黒いタキシードのシャツを少し開けて、金のネックレスをしている。左眼は隻眼で、長い髪を後ろに結っている。どう見ても『筋者』だが、少女が「おとうちゃん…!」と呼んでいる事から、彼女の父親なのだろう。

 もう一歩、足を踏み出したとき、涼の体は金縛りにあったかのように動けなくなった。
 真島だ。
 真島吾朗だ。

 『穴倉』では薄暗かったのもある。白昼の下で見ることは初めてだ。数年ぶりに改めて見ても、端正な顔立ちは俳優のようだ。それは昔助けてくれた『彼』を思い出させた。

 しかし、なぜ真島吾朗がここにいるのか。真島は関東の東城会系列だ。嶋野は様子を見るつもりで『穴倉』に放り込んだ。生きて出られたのだから、彼は元の鞘に収まったはずだ。それが、関西にいる。

 関西は近江連合の縄張りだ。しかし少女が『おとうちゃん』と言うのだから、『穴倉』を出てから結婚したのかもれない。
 涼は手に持ったブンちゃんをどう手渡そうかと悩んだ。理由があって『穴倉』にいたとはいえ彼女を笑顔にする父親を痛めつけていたのだ。
 手持ちの品は暗殺キットとブンちゃんと、メダル景品でもらったという狐のお面しかない。そうだ、このお面を被るしかない。


 「あ、……おねえちゃん…! ……そのお顔どないしたん?」
 「おねえちゃん…? なあ、知り合いなんか?」
 「おねえちゃんは、さっき会うてん」


 真島吾朗に勘づかれたら、この後の予定も面倒なことになるだろう。面妖な出で立ちに真島は「けったいやな」と眉を顰めている。
 身体的な特徴から悟れるのは不味い。涼はむんずと、『文鳥のブンちゃん』を少女の前へと差し出した。


 「ブンちゃんや! でも、ほんまにええの?」
 「……渡してくれたっちゅうことは、お前にやるってことやろ?」


 真島が涼の方を向いた。狐の顔でコクコクと何度も頷いた。

 (目が怖い…!)


 狐の面に遮られているというのに、目が合わせられない。
 「…おおきに言いや」と少女にお礼を促した。少女は「おおきに…!」と喜色に満ちた声でいった。
 涼は一刻も早くその場を立ち去りたかった。お礼を受け、通りに沿って消えようと歩き出したがそれを真島の手が引き留めた。

 「ちょい待ち」
 「……っ!」


 右手を掴まれ涼は激しく動揺した。真島は真剣な顔つきで涼を見下ろしている。体が緊張のあまり震えてくる。
 「おお、すまんのう」と震えが伝わっていたのか真島の手から解放される。

 「いやなに、……あんたも、この子のために取るなんて大したもんやと、思うてな……」

 「ほんま、おおきに」と真摯に真島は礼を言った。
 立派な父親の顔をしている。胸の奥がざわめく。涼は未だ自分が中国マフィアたちに囚われていることを情けなく思った。数年前に『穴倉』にいた真島は次の場所へと進んでいるのだ。

 今夜、彼に触れられたその右手で人殺しをしようとしている。

前へ  140 次へ
List午前四時の異邦人