八章『摩天楼とスコープ』B

 少女と真島の二人と別れ、蒼天堀の夜を迎えた。
 昼間より人出がだいぶ増え、にぎやかになり、街がギラギラと輝いている。

 涼はほぐし快館の向かいのビルの屋上に向かった。風がヒュウヒュウと強く吹いて、外套の裾をはためかせた。まずは様子見だ。マキムラマコトは一度外に出ている。視覚障害者が使う白い杖を持ち、歩く速度も遅い。盲しいている。なぜ盲目の女を殺す必要があるのか、涼には知る由もない。
 バイオリンケースから出した銃につけるスコープでほぐし快館の窓を見るが小さい窓しかない。中に入って殺すことを考えるがリスクがある。一人になったところを狙うのが一番いい。場合によってはやむを得ないこともある。

 「……なんだ?」
 
 用意していた銃のメンテナンスのため屈んでいると、ほぐし快館のほうが何やら騒がしい。複数人の男たちが、女を『マキムラマコト』を連れて外へ出たのだ。拉致だ。

 スコープを覗く。マキムラマコトは抵抗するも逃げられない。男たちは通りの左、南側へと向かっている。追いかけるかどうか、考えた。しかし今は人の目が多い。あの連れ去っていった男たちがどこの組織のものかわからない上に、不必要なトラブルは避けたい。…おそらくマキムラマコトは様々な組織に狙われているのだろう。スコープから目を離そうとしたとき、息を呑んだ。

 まただ。

 「また、真島吾朗……」

 薄く吐いた、白い吐息が風に流される。
 ほぐし快館から下りてきたのは、昼間と変わらぬ黒のタキシード姿の真島吾朗だった。マキムラマコトと真島吾朗は知り合いなのか? 或いは……。余計な詮索が頭の中に張り巡らされる。

 極道で、既婚者で、子持ちで、…マキムラマコトがその相手という線も考えたが、どうも下の道で彼女を追う姿は違うような気がした。真島吾朗もあの女を狙っているのだろうか。
 涼は銃をバイオリンケースに仕舞い、ビルを下った。

 マキムラマコトを連れ去ろうとしていた男たちは涼がその場近くに着いたときには片付けられていた。
 通りの建物の物陰に身を忍ばせ、様子を見守ることにした。
 真島はアスファルトの道の上に膝をつくマキムラマコトに声を掛けた。

 「おい、立てるか?」
 「え? ええ……その声、さっきのお客さんですか? 一体、……なにがどうなって……」

 マキムラマコトの言葉から、真島吾朗とは初対面であることがわかる。
 地べたに座る男たちの一人が悪態をついた。マキムラマコトを諦めるわけにはいかない。すぐに仲間が応援に駆け付けると言ったのだった。それを聞いた真島が彼女を立たせ、柱の陰に押し込めて身を隠した。

 後ろから、男の言った通りに仲間が応援に駆け付けてきた。真島はマキムラマコトの手を引いて、路地裏の道を行く。
 その後も真島は何があっても彼女の身の安全を最優先に街中を逃げ回った。深夜を回り、夜の店は灯りを消して、束の間の蒼天堀の静寂が訪れようやく路地裏の空き地に二人はたどり着く。

 涼は殺すかどうかを、追跡をしながら決めかねていた。



 (どうすればいい。――私は……吟…)

 心の中で眠っている王吟へ問いかける。怖いのだ。ほんとうは人を殺したくない。

 (やらないと、殺される)


 王汀州は容赦しないだろう。中国マフィアは兄弟でも少しでも違えれば殺し合う。仕事の決断は早く、手詰まりでもまた新しく挑戦するタフなところがある。

 電柱に隠れ路地奥の小さなスペースで小休憩する彼らを見る。マキムラマコトは走り疲れ地べたに足をつけて「怖かった」といって真島の足に抱き着いている。そんな彼女の頭を真島は優しく撫でている。
 殺すなら、今しかない。目撃者も最小限だ。


 (私も、怖い。人を殺すこと、命を直接的に奪うことは…はじめてだ)


 今まで犯罪の片棒を担いだ数は数えきれない。不幸に至らしめ、この目で死ぬところを見たことがなくても、自分の行った悪事で死んでいった者たちはいるだろう。唇を噛みしめる。また、いい訳をしている。と、自分自身で思った。安全な場所で、温かい毛布に包まって、幸せな朝を迎えられる生活を渇望している。人殺しをしたら、二度とそこへは戻れない。


 (主よ…主よ……お助けください。……今日まで祈ってきました、どうか……)


 指が震える。バイオリンケースの留め具を外し、蓋を開ける。鉄の武器は死体のように冷たい。……だめだ。
 マキムラマコトは殺せない。どう見ても、ただの善良な一市民だ。理由として、正しいはずだ。…涼は、ケースを閉じた。


 路地裏から抜け、夜明け前の蒼天堀の街中を、地面のタイルの柄を見つめて歩く。
 いっそこのまま、どこかへ逃げようか。そんなことを考えていた。前方に人影が差す。男だ。昼間にコンビニでマキムラマコトの顔を教え、武器を用意してくれていた男。赤いニットと黄色いマフラーの男。そいつが進行方向の先に立っている。
 
 「……終わってナイ」
 「……」
 「コロセ」

 男は数歩で涼との距離を埋めた。
 吟だったら、この男を振り切って逃げただろうか。いや。
 「オマエがコロさないなら、オレがやる」と男はバイオリンケースに手を伸ばした。涼は体の後ろに素早く隠した。男は奪い返そうとしてくる。
 涼は後ずさり、後方へ逃げようと足を踏み出す。だが、それはあっけなく終わった。背後にもう一人立っていたことに気づけなかった。

 「うっ!」 

 体がねじれる。後ろにいた男がバイオリンケースをぐるりと引き剥がした。

 「まて、ぇ」

 声を振り絞る。みぞおちに強烈な一撃が入り涼は失神した。
 赤いニットの男はバイオリンケースを開け、二の裏側に差し込まれていたサバイバルナイフを抜き取った。それを服の裾に忍ばせ、路地裏へ急ぐ。
 もうそこに『マキムラマコト』はいなかった。

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List午前四時の異邦人