九章『バナナと焼肉』@

 九章 『焼肉とバナナ』

 

 1992年 10月下旬  



 今の己は『普通』に戻れただろうか。


 戻るべき家の鍵をポケットから取り出す。ドアノブの穴に差し込み回しこむだけの簡単な動作のなかで、外の世界から内側の世界へ切り替わる。肩書や武闘派の極道の顔を閉じ、家の中の『真島吾朗』に戻る。それが叶うなんて得難いことだろうか。結婚なんてものは諦めていた。もう自分は人を愛することなんてできないのだろうと、嘘みたいな愛しか抱けないと思っていた。朴美麗はそこから一歩踏み出した場所で『過去』にしてくれた。彼女を愛することで、あの苦しみや歪な未練を断ち切れて、普通の男として女を愛せるようになると信じた。


 「ただいま〜」

 彼女は玄関のすぐそこに立っていた。「おかえり」を言わず、「話したいことがあるの」と言う。その神妙な顔つきになにかが崩れてしまいそうな気配を感じた。
 
 「なんや。そないな真剣な顔して……腹痛いんか? 薬買うてくるで。あぁ、ついでに食べれそうなもんと、ニンジンと卵切らしとったな? 冷蔵庫んなかの…それも…」

 「買うてくる」その言葉は美麗の次の言葉で打ち消されてしまう。嫌な予感が当たったのだ。「赤ちゃん、堕ろしたの」と。
 真島は静かに息を吸う感覚を忘れた。ふつう、こういう場合はなんて言うのだろう。真島は口数がそこそこ多い男だ。だから「赤ちゃん、できた」ならすぐに喜べた。心底望んでいたことでもある。
 できたらいいと考えていたし、もしそれも叶えば四年前以前から横たわる口外できないような仄暗い事柄を少しでも忘れられると思った。
 「堕ろす」というのはつまり、生まれてくるべきものを諦めたということだ。可能性を殺したことと同じだった。


 「もっぺん、言うてみ」
 「……」


 美麗は大阪で知り合った。アイドルを目指していて、ひたむきな姿勢を好きになった。言いたいことをすっぱりと言い切れる肝の座った『気の強い女』だった。その彼女が今、言葉を継げないでいる。恐ろしいのか、こうなることをわかっていて。今どんな顔をしているのか真島自身にはわからない。よき夫として寛大な態度であろうと努力したかった。彼女にもその誠意を見せてほしかった。

 「…言うてみいや」
 「赤ちゃんを、堕胎したの。…でも、私、諦めたくないの!」

 乾いた音が部屋の中に響く。気づけば彼女は床に崩れ落ちていた。それは真島が望んだ『願い』も同じだった。
 女を打ったのは後にも先にもこれだけだ。

 (諦めたくないって…なんやねん、……赤ん坊を諦めてええんか…?)

 真島は今しがた妻の頬を打った掌を見つめた。
 暴力を行い、犯罪を行い、そのなかでも義侠を貫くと定めた拳だ。ただ、この家の中では愛するものを愛し守り養うための手でありたいと考えていた。

 つまり、それはもう叶えられない願いに変わったのだ。
 朴美麗は夢を追いかけたいと、それを望んでいる。彼女の望む先に、真島はいないと言われているようなものだった。それと同様に、『新しい命』が彼女の夢の妨げになるのであれば、この『婚姻関係』も終わりだ。『夫』も妨げになるだろう。しかも、真島は反社会的勢力及び『暴力団』の組織に属している。かつてカタギになったがそれでも死に物狂いで『極道』に戻った。夢を追う気持ちは否定しない。しかしこれらはすべて彼女の人生の大いなる妨げになる事は明白の理だった。


 ミスマッチが起こったのだ。お互いの求めている条件に合致していなかった。
 彼女も複雑な家庭環境で育ち、真島も天涯孤独の身だったから『孤独』を知っている。だからこそどんな障害があっても家庭を築けるだろうと夢見ていた。

 数日後、彼女が家を空けているうちに、記名済みの離婚届を残して部屋を去った。








 1992年 11月



 朴美麗と離婚して半月が経過した。
 帰るべき家は寝に帰るだけの部屋となり、食事は外食が増えた。本日の業務が終了し時刻は夕方五時を過ぎた頃。


 「久々に焼肉行くで」
 「兄貴と焼肉っすか?」
 「なんや、嫌なんか?」


 とんでもないっす、と言うがその顔はややひきつっている。真島は焼肉奉行をするからだ。よくいえば世話焼き、おせっかい。悪く言うなら要らぬ世話。焼肉くらい好きに食べさせてくれ、というのが舎弟たちの本音だったが、ここで機嫌を損ねると面倒くさいことになる。しかし真島の奢りでタダ焼肉が食べられるとあらば断わる道理もなかった。
 真島は舎弟を引き連れ、神室町にある韓来に行くことにした。

 韓来に来るのは久しぶりだった。最後に来たのは朴美麗とで、それこそ離婚したての真島には切なくなるものもあるが、そういう感傷は早く終わらせるに限る。店前では女の店員が一人ほうきとちりとりで店舗先を掃いていた。


 「おう、姉ちゃん。店は開いとるかいのう」
 「! あ、はい。どうぞ!」
 「姉ちゃん、新しいバイトか?」
 「えっ、あぁ……そうです。……ど、どうぞ」


 女性店員はたどたどしく真島たち御一行を店内へ案内した。
 メニューにある肉を粗方注文し終わると、店先を掃いていた店員が戻ってきた。

 「ランちゃん、一番のテーブルの注文とって、それから用意できた分をお客さんのテーブルに持ってって」
 「はい…!」

 
 新人のバイトの名前は『ランちゃん』というらしい。その初々しさは微笑ましく感じるとともに、出会ったばかりの朴美麗を思い出させた。しかし真島には妙な違和感があった。



 (初めて会うた気がせえへん…)

 その正体が何かはわからない。ただ漠然と『ランちゃん』という存在がそこにいることを疑っている。

 身長は百六十センチ後半くらい、首は細いが肩幅はそこそこあり胸元は寂しい。尻と太もも、ふくらはぎは発達している。スポーツでもやっていたような体型だが、なぜだかスポーツは似合わなそうな雰囲気を持っている。髪は黒く後頭部の低い位置でまとめている、染めたことはなさそうだし、居酒屋や焼肉屋というよりは町の定食屋で働いていそうな大人しさだった。そのちぐはぐさが違和感の正体だろうか。

 真島のその観察眼は穴倉やそこを出て以降で働いたキャバレーで培われたものだった。
 
 「兄貴、今日はおとなしいっすね」
 「いつも俺がうるさいみたいやないかい」
 「いえ…!」
 「ごちゃごちゃ言わんと、はよ食えや。次いくで」


 焼けた肉を先に舎弟に食べさせ、網の上へ新鮮な赤身肉を載せる。
 二回目の注文の皿を持ってランがテーブルに近づいてきた。

 「なぁ姉ちゃん」
 「はい、ご注文でしょうか?」
 「! あぁ、せやな……」

 ランがまっすぐに真島を見る。その瞳は緑がかった黒蝶真珠のようで何かを見透かした底知れぬ神秘を纏っている。声は先ほどよりもずっと落ち着いていて、潮風を受けてはためくシルク生地のような滑らかな声質をしている。冷酷さとは違う、生ぬるいのに辛さや刺々しさといった危うい雰囲気を感じ取った。真島の勘は鋭い。だがそれを決定づけるにはまだ早いと思った。
 『この目を知っている』と直感は言う。


 (いや、まだや……)


 この目というのは、忘れようとしている『穴倉』で知った。薄暗く顔の輪郭は追えても全体の姿形が判然としない世界で、この視線を向けられていた。
 たまたま同じ目を持っているだけだと考えるのが妥当だった。しかし目の前にいるのは、いち店員、女だ。……あの世界にいたのは男だったのだ。
 もしも、男でなかったら…? それは危険な予感だった。
 

 「お客様?」
 「おう……、ウーロン茶三つや」
 「兄貴ィ、俺酒飲みたいっす」


 「ほな頼み」と持っていたメニュー表を回す。
 
 「ビールと日本酒で!」
 「二つも飲むんかい。お前イケる口なんか? ……ほな、姉ちゃんウーロン茶二つにビールと日本酒や」
 「かしこまりました」

 ランが手元のメモ帳に書き込んでいる。その伏せたまつ毛は長く落ちた陰は白い肌にくっきりとした陰影をつけている。化粧っけのない楚々とした美人だと思った。その熱心な視線に気づいた彼女は「どうしました?」と薄く微笑んだ。透明な膜がある。彼女を取り囲み外界とを隔てる透明な膜がそこにあった。
 だから真島はもうそれを言うほかなかった。

 「姉ちゃん、……会うたことないか…?」


 それを聞いた舎弟が「兄貴ナンパっすかぁ?」と茶々を入れてくるが、真島は真剣だった。
 ランはしばし考えていた。「ないですよ」と言ったことで、微かな予感が確信に変わった。普通は言い切らない。濁すか曖昧にする。否定するにしてもワンクッションある。とくに彼女の場合は冗談を言うようなタイプではない。

 案外嘘をつけないのだろう。それは重要なシグナルだった。知っているのだ、真島のことを。

 「そうか。そいつは…すまんのう。ヒヒ、――いや、昔会うた人に、似とったんや」

 ランの反応をみる。黒蝶真珠のような瞳は何を考えているか分かりづらい。しかし僅かに眉根を寄せている。
 それが、変におもしろい。おそらく喜怒哀楽を抑えているだけなのだろう。真島はそれを、根がいとけない性格なのだと思った。
 だがどうしてなぜこの場所にいるのか。探らなければ。
 燻っているのだ。憎しみが。

 真島はまず嶋野に会うことにした。
 『穴倉』からでて、一時はカタギの金づるだったが紆余曲折ののち、極道に戻れた。嶋野は試していたのだった
 あの『穴倉』に放り込んだのは嶋野なのだから知らないはずがない。『赤い波止場の竜』という言葉を当時預かっていたが、破門されたため嶋野の代紋違いの兄弟である佐川司に尋ねたことがあるが返事は濁された。戻ってきてからもう一度伝えたがその時も嶋野はただ鼻を鳴らしただけだった。


 「なんや、真島ァ…今月は早いやないか」
 「親父に訊きたいことがあるんですわ」


 嶋野組の奥座敷にて嶋野は着流し姿で新聞を広げていた。
 手ぶらでは何も語らないであろうと、上納金を先にアタッシュケースに納めてきた。必要な額と上乗せの金が入っている。
 嶋野はふん、と鼻を鳴らした。一見不機嫌そうに見えたが、好色な笑みを浮かべている。真島は畳の上に座した。


 「ほんで、なんや?」
 「『赤い波止場の竜』について、教えてもらおう思うて」
 「真島ァ。世の中にはなぁ…知らへんでええことのほうが仰山ある」


 嶋野が大抵この前置きを置くときは少し勿体ぶっている。「お願いします、親父」と一押しするとようやくスイッチが入ることを最近ようやく知った。
 「赤い波止場の竜ちゅうんは、千葉の港にある倉庫の事や」と嶋野は言った。


 「倉庫? 港いうと、貿易か漁港かいな」 
 「せや。あいつらはアカや。アカのやつらの貿易拠点。……それをお前に入れ知恵した奴はお前に営業かけとったんや」


 アカ。アカは共産主義国及び大陸を意味する。中国マフィアは戦前から既に国内に参入しつつあるが、つまりそのルート開拓に真島は一枚噛まされていたということだろう。
 日本のヤクザと接点を持ち、最初は友好的に互いの利益のために働くが、脇を甘くすると痛い目に遭う。彼らは土地に執着せず、金のあるところに集まり旨い汁を啜るのが上手いのだ。
 

 「そないな話、なんで訊きたいんや、真島」
 「……『穴倉』にいた、人間が外におったんや」
 「外ォ? それは、おもろい話やな。……あいつらいよいよこっちのシマに入ってくるようになったんやな。いっぺん、話し合わなアカンな」

 嶋野は不敵に笑った。
 どうやら、あのランは『穴倉』から出て神室町でシノギをしているといったところなのだろう。

 「真島、そいつ見張っときや」
 「わかっとります」
 「名前はわかっとるんか」
 「『ラン』っちゅう女の名前しとります」

 「そうか」と嶋野は唇を結んだ。
 真島は頭を下げ、立ち上がる。嶋野はもう一度口を開いた。

 「お前、離婚したんやってな」
 「そや」
 「女程度では、お前を幸せにできひんのやろうな」
 「……ほんなら、失礼します」


 絡みつくような嫌な視線だ。真島にはそれが皮肉ではなくあの男の僻みにも聞こえた。少し前に組を持つか否かという話が持ち上がった。真島はそろそろ時期が来たと考えていた。
 韓来の女店員『ラン』、もとい王吟。真島を変えた男だった。——実際今の姿も正しいのかわからない。しかしこうして、近くにいる。機会が巡ってきたのだろうと考えた。
 真島はうんと伸びて、体の凝り固まった筋肉をほぐした。

 明日から、調査を始めなくてはならない。



 真島が立ち去って、十分。
 嶋野の部屋にある黒電話のベルが二度鳴り一度切れた。そしてもう一度ベルが鳴ったところで受話器を取る。

 「なんや」

 電話の向こうの男は、流ちょうな日本語を話した。

 「えらい遅うなったわ。さっき…ようやく上がってきたで。……女の名前で『ラン』いうとるらしいわ」

 男は電話の向こうでせせら笑う。嶋野は『藍華連』から多額の報酬を約束されて、人探しを頼まれていた。
 今年の春先に紀伊半島の売春島から脱走したらしい。——それは『穴倉』で『蠅の王』と呼ばれていた王吟だった。
 

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