九章『バナナと焼肉』A

 1989年 1月


 殺しを失敗した涼が正常な意識を取り戻したのは、次の仕事についての話の時だった。

 汚水を飲み、虫を食べ、増幅する無気力のなか『誰かを傷つけないで済むならマシ』だと思った。神を信じていた身が『死』を願うようになった。いっそ死んでもいいと願うのに、この体は丈夫にできている。スポーツも苦手で泳ぐことすらままならかったのにだ。

 涼はたくさん隣人を憐れんできたけれど、自分を憐れんでくれる人はいるのだろうか……と考えたところで壊れた。
 あくる日、涼は王汀州に向かって言った。


 『殺してください』と。
 王汀州は殴った。だが、殴っただけでは死ななかった。
 『楽に死ねるわけがないでしょう』と男は言った。次いで、『女の尊厳を奪え』と涼は言った。涼はまだ処女だった。
 男は『それは、一番最後です』と言った。
 
 「涼、勘違いしている。……私は、好意を抱いている。……いくら装っても、幼く、かわいそうで愛おしい。私のもたらす苦痛に歪むその顔が好きなのです」
 「とても、悪趣味」
 「そうですよ、わが妹。……ですから人殺しができなくとも、次の仕事があります」



 次の仕事。
 それは、海に囲まれた女たちの監獄だった。
 海に浮かぶ性の島。


 身体を売る女たちを管理する仕事だった。場所は東京ではなく紀伊半島から行ける島。王汀州のいう『桃源郷』にふさわしい場所で、男のために借金を背負わされた女を島へ送り売春をさせた。そのころの涼はもう神を信じることを諦めていた。商品となる女たちの面倒を看て、何も知らず浮かれて遊びに来る観光客の相手もする。
 メンテナンスを怠るとそれが数字として現れ、監視役が懲罰を与えに来た。


 なにより一番堪えたのは、身体を売る女たちが家出少女たちであることや、夜中に海を泳いで逃げ出そうとするのを止めること、望まぬ妊娠の堕胎を手伝うことだった。涼はかつて家出少女であったし、事故のことも相まって海を恐れている。堕胎は同性としての良心の呵責があった。きっとこれも、王汀州の企てで、穴倉から出ようとも、彼の精神的な仕置きは続いていた。

 文字通り『女の尊厳』を奪う世界を味わった。



 『脱獄』を決意したのは九一年の暮れだった。

 九〇年の夏に一人の女がこの島に売り飛ばされてきた。彼女は事故で入院している兄がおり、その入院費やリハビリ費用のために体を売る仕事を始めたのだそうだ。よりにもよってこの島に関わってしまったことを憐れんだ。涼は兄を『見殺し』にした後悔から、できるだけ似た境遇の彼女に融通を利かせていた。しかし彼女は性感染症を患い、九一年の晩秋に亡くなった。島には専門医はいない。高度な治療も行えず、事情が事情なだけに本州に戻すことは却下された。涼はまた『見殺し』にしてしまった。
 彼女の遺灰は海に撒かれた。

 遺書を彼女の使っていた四畳半の狭い部屋の隅から見つけた。
 彼女は涼に感謝していた。卑しい仕事をしていて、感謝をされたのは、はじめてだった。彼女の書いた綺麗な字と言葉が涼に『脱獄』を決意させた。海を渡り、彼女の兄に会いに行こう、と。
 それがせめてもの償いになると、信じた。

 海が暖かくなるのを待った。初夏まで待とうと考えたが、居ても立っても居られなくなり、四月の海に入った。
 海の水は相変わらず怖かった。新月の夜に脱獄は多くなる。向こう岸に着いても捕縛される恐れがあった。島の方の見張りは当番制で先に買収してある。明日の夜になればたちまち大騒ぎになるため、早く泳ぎ切らなければならなかった。

 「くそったれ」

 死にたいくせに死にきれない。そんな弱い自分はもういらないのだ。

 (神も聖女も! 誰も私を救わなかった!)

 涼は海を渡った。
 透明のビニール袋を重ね、十一万円だけを持って脱獄したのだ。
 一万円は交通費、十万円は亡くなった彼女の慰労金だった。








 1992年 5月



 本州に戻り、彼女の実家を訪ねた。彼女の実家は関東にあった。脱獄した当日に公共交通機関を使い、利用可能額で行けるところまで乗ってあとは徒歩で向かった。
 木は森に隠せという。人数の多い都会に出れば時間稼ぎにはなるだろうと考えての事だった。九一年から始まった景気後退の影響か街にはホームレスがいて、炊き出しに紛れて食事にありついた。
 
 彼女の実家は東京の田舎のほうにあった。都内で日雇いの仕事に潜り込み、交通費を作り、風呂に入り、服を替えた。
 実家に十万円と手紙をポストに入れた。『彼女に世話になった者』と弔いを兼ねて手紙を書き贈った。

 十二歳で消えた少女が日本に戻ってきたのは二十三歳になってからだった。概算十年に及ぶ年月を経て、ようやく自由を得たのだ。
 もう少し働いて、金を貯めたら亡命だってできる。もうすっかり出てこなくなった、彼、『王吟』がやり残した事を終わらせて死ぬ。
 下町にある銭湯の熱い湯船に浸かりながら、涼はそんなことを考えていた。


 
 涼は電車に揺られていた。
 ほぼ十年が経ぎてしまったが、涼自身の実家に行ってみようと思ったのだ。

 大した期待はしていない。兄は死に、おそらく涼も死んだようなものだ。事故についても正しい情報を得られていない。もしかしたら両親も死んでいるかもしれない。最寄りの駅を降り、徒歩で実家に向かった。

 駅前の風景は変わり、知らない店舗が並び、道も少し変わっていた。高台の上に家が建っている。実家は日本家屋だった。
 門の前まで来ると、やはり……と、予想が当たっていた。家は荒れ果て、草木は生い茂り、『荒川』の表札は落ちていた。つまり、無人だった。
 しばらくぼうっと立ち尽くしていた。ようやく、戻ってこられたのだ。
 あの時、イギリスへ行かないと出るのを渋った家だった。「おばあちゃんと一緒に住むから」と最後まで駄々をこねた。

 「……ただいま」

 鼻の奥がツンと痛くなった。
 門に寄りかかり、息を吐いた。
 春先に咲く、ツツジの香りが余計に涙を誘った。

 しばらくそうしていると、「涼、ちゃん……?」と声をかけられた。
 カツ、カツと杖の音が近づいてきて、それが祖母だと理解するのに時間がかかった。

 「……おっ、おばあ、ちゃん」

 腰が曲がり、髪も薄くなり、皴も増えていたがそれは祖母だった。
 涼はすっかり体が固まってしまいその場から動けなかった。祖母は閉ざされ朽ち果てた門の前で立ち尽くす涼に近づいた。

 「涼ちゃん、なのね?」
 「…………うん」
 「……おかえり」

 大粒の涙がボロボロと零れていくのがわかった。乾いたコンクリートに染みを作っている。
 ぐしぐしと目元を擦ると、祖母が白いハンカチを差し出した。お礼も言えないほどだった。身を丸め、十二歳の少女の頃に戻って泣いた。
 祖母はずっと背中を撫でていてくれた。




 祖母は高台の下にある近所の一軒家に住んでいる。十年前とさほど変わっておらず、懐かしめる家があることに喜びを感じた。
 なんとなく、もう自分を待っていてくれる人などいないと思っていたことを恥じた。祖父は三年前に亡くなったという。お手伝いさんが週に三日きて世話をしてくれるという話をしてくれた。
 お風呂を使わせてもらい、祖母はおにぎりを握ってくれた。
 具のない塩おむすびが美味しかった。小学生の頃、泊りに来た時のお昼がその塩おむすびと甘めの卵焼きで、幸せの味を思い出してまた少し涙がにじんだ。

 「涼ちゃん……失踪宣告のね、裁判所に言ってないの」
 「……」
 「だから。おばあちゃん協力するわ。戸籍が取り戻せるように。……遺産相続できるから」

 祖母は航空機の事故で死亡したことは確実だが遺体がない場合、警察や海上保安庁が自治体に「死亡」の報告をしており、当人が生存していた場合それを証明できれば「死亡」の取り消しが可能になると説明した。いつか戻ってくると信じて、待ってくれていたのだ。

 「ありがとう……でもそれは少し待ってほしいの……」
 「どうして?」
 「その……」


 涼は上手く説明できなかった。今まで犯罪行為をやって生きてきたのだ。それに彼らが気づくのも時間の問題で、戸籍再取得となれば足がつく。メディアも嗅ぎ付けてくるかもしれない。これは誇大妄想かもしれないとも思う。祖母の申し出はありがたいものだったが、もし祖母にも身の危険が及んだらと思うと申し訳が立たない。



 「できるだけ早く返事するから……待ってて」
 「涼ちゃん……」
 
 涼は、自分を信じて、ずっと待っていてくれていた人に嘘をつく罪悪感に苛まれながら、震える声で言った。祖母は心配そうに名前を呼んだ。

 日本の極道社会なら足を洗うことは指詰めなどで済むが、大陸は違う。死を意味する。命の重さが日本とでは違うのだ。
 王汀州は何人ものの組織内の仲間たちを屠ってきた。彼には仲間ではなかったかもしれないが、その制裁を執行し、冷酷非情を貫いてきた。涼を『妹』と扱ってくれていた内はいいが、今は変わっているはずだ。
 『脱獄』を赦すはずがないのだ。しかし涼にはもはや策がない。頭打ちだった。

 せめて、祖母を遠ざけて、人に紛れて生きていくしかない。
 やっと、やっと……家族をやり直せると思ったのだ。だが、あっけなく甘い幻想を打ち砕いた。悔しかった。
 一刻も早く亡命資金を稼ぎ、この国からも『脱獄』しなければならなかった。


 再び都内に戻った。


 戸籍がなければ、まっとうな仕事なんてありつけない。しかしここは日本の首都だ。仕事の数は日本一、いくら景気後退が起ころうとまだありつけるはずだ。
 大金を稼ぐには身体を売ればいいが、風俗に出せるような体をしていなかった。いくらなりたくても、客がつかなければ儲けにならない。キャバクラはもっと難易度が高くなる。世間一般の流行はわからない。日本経済やアジア経済関連については多少話せるかもしれないが、それだけだ。酒も飲めない。おまけに愛想もよくない。


 ふらふらと仕事を探し求めて歩いていると、懐かしい商店街のアーケードの下にやってきていた。
 十二歳だった涼が、家出をして最後に座り込んでいた商店街だった。

 「……」


 その一年前に、絡まれていたところを助けてくれた少年ともう一度再会した場所だ。
 家出したときは、涼のためにバナナを買ってきてくれて、少しだけ喋った。向こうは涼を覚えていなかった。
 その時も結局名前は知れず仕舞いで終わった。今になって、それが『初恋』と呼べるものだったのだと思う。『初恋はたいてい実らない』と。女の監獄島の下宿アパートで生前の彼女がそう教えてくれた。
 
 商店街の中の青果店の前に行ってみた。バナナはそこにあった。
 小銭を取り出して一房買った。青果店から体を反転させたとき、背後に通りかかった男女二人に目を奪われた。
 心臓が跳ね上がる。


 黄色生地に蛇柄のジャケットを羽織り、切りそろえられた黒髪のテクノカット。左眼は隻眼で長身。どこにいても奇抜で目立つ。その男には派手さが似合っていた。


 (……真島、吾朗)


 四年前に大阪で見かけたときはもう少し落ち着いていたはずだ。
 彼は結婚して子供もいるというのだから、おそらく真島の傍らにいるのは妻なのだろう。しかし随分と若い。年下との結婚は気にしないが、あの少女は母親の方の子供だったはずだ。
 つまり、二度目の結婚なのかもしれない。

 真島が女の肩に手を回して、何か熱心に話しかけている。すると女が笑う。どこからどう見ても仲睦まじい夫婦だ。
 彼は、幸せに生きている。

 (……よかった)

 『穴倉』から出て、幸せに生きられる人間はきっといない。
 だから彼は『奇跡』に等しい。涼は心の底から祝福した。


 思い出のバナナを一本食べて、商店街を抜ける。
 神室町へ入り、さまよっていると焼肉屋からいい匂いがした。『韓来』の店の前のガラスには『バイト募集中』の文字が張り出されていた。
 給料が手渡しで、できれば賄いが食べられそうな飲食はいいかもしれない、なんてことを考えたのだ。


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