十章 『親離れの義侠心』
1992年 11月
焼肉屋・韓来の店員『ラン』。
あの『穴倉』にいた王吟と断定するには早い。そうはいっても勘という名の霊感が囁くのだ。
ハイライトの煙が、秋から冬へと移り変わりつつある鈍色の寒空へ吸い込まれていく。真島は手始めに『ラン』の勤務先である韓来に来ていた。開店前の忙しい時間だが手短に済ませるといって店主に話を訊くためだ。店の奥。他の従業員はまだ出勤していないがそのうち来るだろう。
「ラン? うちの従業員ですが、なにか失礼な事でも…?」
「いや、ちゃうんや。あの子まだ入ったばっかりやろ。ええ子やと思うで」
「で、では…みかじめ…とか」
「ちゃう。今日はその子について訊かせて欲しいんや」
韓来からはみかじめ料を取っていない。
もしかすれば、件の中国マフィアのお手付きという可能性もあるが、まずは『ラン』のことだった。
「はあ…。ええと、ランは今年の五月からうちで働いてるんですよ。裏でずっと皿洗いやってました」
「そうか! その…五月から働いとるっちゅうのは…、なんか変わったこととかあったか?」
「変わった、ことですか?」
店主は仕込み中の手を止めて、しばし思案した。
「いくつか…」といって、話し始めた。
「店前のバイト募集の紙をみて雇ってくれって入ってきたんです。なんでか手にバナナ持ってね。ヘンな子だなぁって、ちょっと思いましたけど。名前は? ってきくと『ラン』って。それだけしか言わないし、少し訛ってるんですよ。だから外国人か上京したての子なのかなってね。俺は働くやる気さえあればいいから雇ったんです」
「身分証明書は?」
「いいえ。だから、『なんでもします』と頭を下げてきました。そう言われちゃ、断れないですよね」
『ラン』は普通にこの店に来た。素性のわからない人間はこの神室町では珍しくない。密入国、不法滞在、地方から流れてくる若者。首都・東京に様々な欲望を抱いてやってくる。隣の人間が人殺しなんてことも無きにしも非ず。身分証明書がないのは少々きな臭い。真島は続きを促した。
「皿洗いをずっとさせてたっていうの、あれには事情がありまして」
「おう」
「入って三か月くらいたって、八月かな。一度ホールを任せたんです。中国人のお客さんが来店されて、その時に粗相して泣いちゃって。酒が入ってて絡まれたみたいでね……驚いたよ。普段大人しいから。そこからまた皿洗いやって、この間もう一回やってみようって始めたんです」
「……確認なんやけど、『ラン』は女の子なんやな?」
「ええ。年齢は二十三だって。…泥酔客とか戻しちゃったお客さんのの処理が上手いから、接客業以外になにかやってた? とは聞いたけどね。濁したから。清掃でもやってたんじゃないかな」
「清掃か……」
早計だが仮に『王吟』であるなら、頷ける話だった。
『身分証明書』、『二十三歳の女』、『汚物処理の上手さ』、『中国人』というワードに絞れてきた。
店主は「こんなもんです」と口を閉ざした。
「のう。その、ランちゃんは今日は出勤するんかいな」
「いいえ。今日と明日は休みですから。……真島さんのことお伝えしておきましょうか?」
「いや、エエわ。……まだこっちも色々揃っとらん。間違うてたら可哀そうやし」
まだ推測段階でしかないため、決定的な情報が必要だ。
真島はカウンターに凭れていた姿勢を立て直して手を軽く上げる。
「おおきに。…また来るわ。お客としてのう」
「ありがとうございます。お待ちしております」
韓来に中国系マフィアが入り込んでるとはどうも違う気がした。『ラン』が『王吟』であるならその背後にいる中国系マフィアがついていると考えるのが順当である。事実、中国人の泥酔客に絡まれて泣いたという話から、怯えているのではないか。『ラン』という名前も偽名なのは確かだ。身分証明書は出せないが、働く意欲はあり、偽名を使い、中国人に怯えた。真島の脳裏には『ラン』が逃げてきたのではないか、という推測が浮かぶ。
(もしかしたら、想像してるのよりごっつい話かもしれへん……)
真島はこの時まで『王吟』が中国人マフィアの組織の人間だとすっかり思い込んでいたことが、実は誤った認識だったのではないかと思い至る。
だとしたら、あの女は何者なのか。今までで知り得たことすべて、どれも本当を偽っているとしたら。そもそも『ラン』はどこに住んでいるのだろう。
(女が野宿いうても限度があるわ…)
身分証明書が出せないのであれば賃貸はもちろん、一般的なビジネスホテルはないだろう。ドヤ街の宿泊所、あるいは知人か友人宅での泊り。
やはり、次の出勤の日に接触をはかろう。
次は、韓来に来るまでの足取りについて調べる必要がある。
『ラン』は五月から働き出したといわれた。韓来の前はどこに。『穴倉』から逃げてきたと仮定すれば同じ関東圏内、すぐに追っ手がつきそうなものだ。
真島が『穴倉』にいたとき、『王吟』は順応しているように見えたし、様子がおかしくなってから会うことはなかった。真島が入った以前から考えると六年以上の歳月を過ごしていることになる。そこから抜け出してきたというのは、なにか重要な『契機』があったはずなのだ。
韓来で働き出したということは、お金はない。しかし、ふつう長居は選ばないだろう。東京で身を隠せるにしても限界がくる、逃げ回るには金が必要で手っ取り早く稼ぐには夜の店がいい。『ラン』ならそれも思いつくはずだが、選ばなかった。選ばなかった理由もあるはずなのだ。性別、特殊な事情、心情的な事情…が思い浮かぶも推測の領域を出ない。
『ラン』は女だが、それにも『証明』が必要だ。現在の『ラン』は性別不明の存在なのだ。
「気持ちわる…。あかん、考えてたら頭おかしなるわ」
真島は神室町を歩きながら、一度大きく息を吐いた。
もし『どこか』から逃げてきたら人は人間の中に隠れる。たくさんの人間の中に。それは東京では可能である。しかし、足の残る場所には行けない。金は持っていてもずれ尽きるだろうとなると、たいていは野宿をし、ホームレス同然の生活から始まる。今は金がありどこかに泊っている可能性はある。
真島はホームレスたちに話を訊いて回ることにした。
その日、一日中街中にいるホームレスに訪ね歩いた。顔写真がないため「わからない」と言われることの方が多かった。
それもそうだ。真島自身も無謀な探し方をしていると思う。途方に暮れそうになっていたが、西公園で休憩の一服をしていると、そこでブルーシートの上に座り込んでいるホームレスの老人に話しかけられた。
「なァ…あんた、真島か? 嶋野組の」
「おう、なんやじいさん。喧嘩したいなら立ちや」
「いや、わしはせん。年じゃ。……そんなことより、人を探してるんじゃないのかい」
その言葉に真島は「せや」と頷いた。
何か話してくれそうだと思って、老人の近くで身を屈めた。
「昼間っからお尋ね者してるヤクザがいるってのを仲間から聞いてな。……女、なんだって?」
「ああ。写真ないから顔は……、せやな、髪は染めとらんしキレイな黒い目しとるわ。肌は白くて大人しそうな、二十三の女や。身長は百六十センチ後半くらい。……ちぃと訛ってるかもしれへん」
「なるほどねえ…。その子、中国語喋る?」
「! お、そうかもしれんわ。心当たりあるんか?」
老人は顎下に蓄えられた髭を撫でながら、ふむと頷いた。
どうやらまともな話が聞けそうだ。
「その子は五月の最初の頃…ゴールデンウイークくらいか。その頃にこの辺で野宿してたよ。若い女の子だったし、悪いことは言わないからちゃんとしたとこに寝泊まりしろって言ったんだ」
「そん時、どないな格好しとったんや」
「ヘンって言っちゃ悪いが、普通の女の子の服じゃなかったよ。ぱっと見は男の子みたいだったね、ちょっと前に流行ったカンフー映画に出てくるみたいな服着てた。俺がこの辺の核だって知ってたんだろうね、『仕事をください』って言ったんだよ。まずはその磯臭くて汚い恰好をどうにかしろって千円渡して銭湯行かせたよ」
『穴倉』での王吟も中国服を着ていたが、それだろうか。
磯臭いというのも引っかかる。海を泳いだのはおかしい。なぜなら『穴倉』は関東圏内にある。『穴倉』から逃げてきたのなら、おかしな話だった。
「銭湯から戻ってきてもう一回『仕事をください』ってね。いうたって、日雇いの仕事ばっかりだよ。きつい力仕事だ。なんなら女の子のほうがその気になれば稼げるけど、なにか事情があったんだろうね。仕方ないから、二つ、三つある中から選ばせてあげたのさ」
「優しいのう」
「いんや。これも処世術ってやつだよ、その子はいまそんな恰好だけど、いずれどんな子になるかわからないからね。恨まれるのはゴメンだ。その子は全部の仕事をやったよ。お礼にいくらか貰った。この公園の近くでテント建ててしばらくいたよ」
「他になんか言うとらんかったか? さっき中国語がどうの…」
「ああ、それね。一回すごくうなされてる日があってね、テントの様子見に行ったんだ。寝言でずっとワケの分からない事言ってて起こした。事情を訊いたら、『飛行機から落ちる夢を見てた』って言ったんだ」
「飛行機?」
老人は「ああ」と言い髭を撫で続ける。
『ラン』は墜落する悪夢を見ていた、ということだろう。それと中国語の話がつながらない。
「寝言で『オウテイシュウ』って言ってたからなんだって訊いたら、『中国にいたことがあって、お世話になった人です』ってな」
「……」
『オウテイシュウ』に真島は覚えがあった。あの『穴倉』で、『王吟』と会った最後のとき、彼はその男を『オウテイシュウ』と呼び、その後、極悪非道の限りを真島に尽くした。
あの時『王吟』もその男にひどく怯えていた。仲間内にしては妙な関係性だと思った。『オウテイシュウ』が『王吟』を切りつけたのだから。あの時抱いた妙な違和感を今また感じている。
老人は「そういえば」と真島の方を見た。
「あんた、その子の名前はなんて言うんだい」
「『ラン』っちゅう、名前やけど」
「『ラン』? そいつは、おかしいなあ」
「おかしい?」
「その子、……『涼』って名乗ったよ」
「涼……?」真島は思わず復唱した。
『ラン』とはまた違う名前だ。どちらかといえば、日本的な響きだった。
「炊き出しにカレーが出てね。その時、『中学の食堂のカレーが美味しくて、その味に似てる』ってね」
真島はその『涼』が本名なのではないかと思った。
『中国にいたことがある』という言い方はそれ以外の場所を示唆しているし、中学の食堂のカレーという話はどこか懐かしんでいるようにも感じる。
『涼』という響きもなんだか初めて聞いたような気がしない。
「じいさん、それ下の名前やろ。上のほうは?」
「上か、なんだったかな。……この年になるとなぁ。……日本人なのは間違いないよ」
「チップ弾むわ」
ホームレス老人の意図を理解し真島は財布から数万円を引き抜いて老人の手に握らせる。
老人は髭に覆われた口元を曲線に描いた。
「……荒川だよ」
「荒川か」
「そう、荒川。その子、荒川涼って名前だよ」
これはかなり有力な情報ではないだろうか。事態が大きく前進する。
『王吟』でも『ラン』でもない、『荒川涼』というおそらく本名と呼べる名前だ。
「ここのテント仕舞ってね、どこいくんだって聞いたら、『実家に行く』ってさ。五月の中旬か下旬か、そのくらいよ。普通おかしいよな、実家があるなら先ず行くだろう?」
「ああ、……せやな」
『ラン』もとい、『荒川涼』の動向が掴めてきた。『実家』が国内にある。しかし『実家』には行かない理由があったが行ったというのはまた何かがあったはずだ。
『実家』の所在はさすがにこのホームレスも知り得るには難しい気がする。老人は「ん」と漏らす。真島の前に手を差し出して「くれ」といっている。金だ。
「はぁ。物知りやのう……?」
「俺をナメちゃいけねえよ。キナ臭えなぁと思ったら金のチャンスよ」
追加の一万円を差し出された手に握らせた。
老人は目元をついと細めた。
「俺たちの中にゃ、ルートがある。ホームレスたって仲間がいねぇとやっていけねえ。一人雇ってな、追わせたよ。別に深い意味はねぇ、その子が安全に家に帰れりゃいいと思って後をつけさせただけ」
「どこや」
「海浜関東線にある。横浜の一個手前だよ」