十章『親離れの義侠心』A

 ホームレスから話を聞いてから翌日。真島は都立図書館を訪れていた。
 かつて『穴倉』にいた『王吟』という名前を名乗っていた性別不詳の人物。今は『ラン』という名前を名乗り焼肉屋で働いている。その本名が『荒川涼』であるならば決定的な証拠があるはずだった。

 『涼』という響きを真島は知っていた。その違和感が拭えたのは、『1981年の7月8日』の記憶だった。不思議だ、あの頃その事故についてしばらく熱心に連日の報道を見守っていたいち聴衆だったというのに、忘れていた。真島の三十年近くの短い時間は濃密で、次第に消えていた出来事だった。
 それが昨日の『涼』という響きと、韓来の店主の言った『バナナを手に持ったヘンな子』と、彼女がうなされていた後に言った『飛行機から落ちる夢』は奇妙なつながりを持ち始めていた。

 この点と点たちは真島の中でしか噛み合わない感覚で、おそらく第三者に説明したところで事態は進展しない。


 (あの日、俺は……『さっぱりしたもん』を買うために商店街に行った)


 長い梅雨明けの朝を少し思い出す。蒸し暑く、蝉が鳴いていた。平日の火曜なのにもかかわらず、一人の家出少女が閉まったシャッターの前で座り込んでいた。
 たくさん泣いたあとの顔をしていた。腹は空いていないか、と尋ねた気がする。スイカと一緒にバナナを買って一本渡してやった。そのあと少しだけ喋った。…そうその日は七夕だった。

 『天の川を見たことがあるか』と少女はいった。今思えばなんてくだらない話なのかと思うが、彼女は真島のほうを怖気づくことなく、じっと見ていた。不思議なまなざしだった。真島が立ち上がると追い縋るように彼女も立ち上がり、泣き出した。見ず知らずの年下に泣かれる事に世間の体裁を気にしていた多感な少年だった。

 アーケードの外まで手を繋いでやり、そこで別れた。少女とは住む世界が違うことにどことなく苛立っていた。自分には親がおらず、力に魅了されてこの世界に入ったゆえの、他人との人生の比較をしてしまった。
 身なりがよく、海外に飛んでいける年下の女。親がいて、そのわずらわしさから逃れるために家出した。もっとひどい世界を真島は知っている。無性に腹が立っていたのだ。


 心の底で、衣食住満ち足りた世界にいるくせに、『甘えている』と思ったかもしれない。


 彼女を迎えにくる男がいた。年齢は同じくらいだったろう、優しげで泣いている少女を慰めるに値する男が『涼…!』と呼んだ。

 たったそれだけだ。

 日常におとずれた一瞬の出来事で、翌日に日本海海上で着水事故を起こした飛行機にもしかしたらあの少女が乗っていたりするだろうか、なんていう想像をした。はじめこそ、胸中がざわついたが次第にその事故の報道が落ち着いて、世間から消えていき少女の存在もたまに思い出すくらいの存在に変わった。

 真島が一般人だったのであれば、忘れられない記憶として残っただろうが、彼が身を置くアングラな世界は想像を超える不条理や目まぐるしく移り変わる刺激がある。

 懐かしめるほどの、一般人の死。つまり真島は彼女の存在を殺していたのだ。

 (皮肉、なんかのう――)


 真島が探しているのは当時の新聞だ。
 事故後の朝の新聞ではなく、その後発表された『乗客・乗員名簿』が記載されている新聞だった。あの頃、嶋野から新聞を読めと言われ真面目にやっていた習慣が少し生きている。


 『1981年8月7日』の新聞だ。朝夕ともに事故から最初の一か月経ち、新聞各社が報じている。


 『先月、7月7日から7月8日にかけての夜中、日の丸航機HM774便はイギリス・ヒースロー空港を目的地に直行便として運航していた。22時台の最終便の離陸から25分が過ぎた午後23時5分、日本列島の石川県能登半島の輪島から、北西へ約484q離れた海上に不時着水した。事故の原因はエンジントラブルとされており現在も調査中。数日間に渡って捜索されたが搭乗者数102名に対し生存者は数十名に留まる。不時着水後、避難誘導が行われたが機体が前傾に海中へ潜り込んでおり、102名のうち78名は溺死と確認されている。数名の行方不明者が確認されており現在も捜索中。生存者複数名から聴取し、「天気は晴天だったが海上には強風が吹いており海は荒れていた」とのこと。』



 一か月経過の日ということもあり新聞の一面に掲載されている。事故概要のあとに生存者の話や遺族のコメントが続き、『乗客・乗員名簿』として名前が掲載されていた。


 行方不明者の欄は三名。そこに『荒川 涼 (12歳・中学1年生 神奈川県 横浜市出身)』という名前と身分が載っていた。社会人であれば職業や企業名などが記載されている。大半は会社員とその家族である。彼女の名前の一つ上に同じ苗字があった。おそらく兄妹だろう。二人の兄妹の両親は残念ながら亡くなっている。父親は化学系大企業に勤めており渡航理由は海外赴任とあった。
 
 「……荒川、涼」

 ため息交じりに真島は名前を唱える。
 もしも、『ラン』が本当に『荒川涼』であるならば、一刻もはやく彼女を保護しなければならない。とくに彼女はただの行方不明者ではない。
 どういった経緯かはわからないが、組織から逃げ出してきたというのは一般的に考えれば『拉致』行為があった可能性があるからだ。
 彼女はこの国の法律に則って保護されなければならない。

 真島は足早に図書館を出た。
 外は冷たく乾いた風を吹かせて街路樹の赤い木の葉を散らしていた。
 一旦神室町へ戻り、嶋野に報告すべきだと考えた。警察へ通報したところでこちらに彼女の身分を証明する『証拠』がないため、まともに取り合わないだろう。組の人間を何名か使い、探し出して保護する。事情聴取をして彼女自身が『証明』すればいよいよ警察の出番だ。
 真島は義侠心に燃えていた。



 神室町へ帰ってきて嶋野組へ急いでいる道中、舎弟の一人である高木が真島に声をかけた。
 「兄貴も例の女探してるんすか?」真島は足を止めた。「どういうことや」と聞き返す。

 「親父が、『ラン』って女を探せって言ってて。なんでも他の兄貴いわく、その女を探してる組織から依頼されてるみたいで。…あ、その子ってこの間『韓来』にいましたよね?」
 「な…! あかん!!」

 真島は思わず吠えた。舎弟の高木はおっかなびっくりに目を白黒させている。
 探している組織というのは、間違いなく『荒川涼』が逃げてきた中国マフィア組織だろう。嶋野はなぜ……、と思考を辿らせていると真島は自らの口に手を当てた。

 「……俺か?」

 先日嶋野と会った際に告げていたのは真島自身だ。自らの口からこぼれ出た情報が、彼女を窮地に追い込みかねない状況を作ってしまった事に気がついた。
 猛烈な自己嫌悪と焦燥が喉元までせりあがってくる。腹の底がキリキリと痛くなった。いま嶋野組へ行くことは望ましくない。嶋野の目的は『保護』ではなく『譲渡』だ。そこからいくら程の金を積まれているかは知らないが、お話にはならないだろう。

 「くそッ! どないするんや…!」

 地面を踏みつける。
 こういう時、自分の組があれば幾ばくかの対処が可能だったはずだ。唇を噛みしめる。

 (また、俺は……女を犠牲にするんか?)

 四年前の『カラの一坪』及び『マキムラマコト』の時分。あの時はカタギから極道へ戻るための『飼い殺し』に生きていた。盲目の女を義侠心をもって守ろうとした。結果彼女はヤクザの政治に巻き込まれ、生死の境をさまよった。嶋野は『女程度では真島を幸せにできない』と言ったが、違う。『真島が女を幸せにできない』のだ。屈辱的である。
 しかし、だからこそ。

 (今度こそ、俺は……やらなあかん)

 高木は荒れ狂う真島の様子に肝を冷やしていた。

 『嶋野の狂犬』と名高いこの男は一旦機嫌を損ねると手が付けられなくなる、というのが彼らの条項であるが実際は『嶋野への尊敬と同時に起こる食い違い』が原因であることを真島以外は知らない。真島は武闘派の嶋野を尊敬しているが、今回のような事は度々起こっている。真島にある義侠心が嶋野にはないのだ。彼が憧れた極道の義侠心は、金に目が眩み光を失いつつあった。それは決して嶋野が変わったのではなく、真島が大人になったというだけだ。


 「お前、ついてくる気はあるんか?」
 「えっ…」

 真島の声は怒りを抑えつけるあまりに抑揚がなく、高木からは情けない声が出た。
 再三問いかける。

 「親父やのうて、『真島吾朗』についてくる気はあるんかって聞いとるんや」
 「それって……、兄貴が…」
 「さっさと答えんかい!」
 「はひぃ…ッ! ついていきますぅ…!」

 舎弟の高木は悲鳴に似た返事をあげた。





 真島はほかの舎弟にも声をかけ、簡易的な徒党を組むことにした。儀式をしている猶予はないため略式だ。
 『韓来』へと向かうことにした。幸い今日と明日は休みで店に出勤はしていないはずだが、嶋野組に号令をかけたということは脅迫が起こっているかもしれない。
 想像通り店内は急遽営業休止となっていた。

 「真島さん…! こりゃ、どういうことですか!」

 店の中は暗く、先にほかの組員に荒らされたとのことで、店の窓ガラスは割れ、食器や食材が散乱しており今夜の営業は難しい状況だった。店主は真島が店に入ってくるなり声を荒げた。
 『真島組』最初の仕事はおそらくこの店舗補償から始まるだろう。店主は右頬が赤紫に変色しており唇に拭いきれていない血がついている。夕方からの開店前の仕込み作業中だったため、幸いにしてこの日も従業員の出勤者はまだいなかったので怪我人はこの店主だけである。「補償費とあんたの治療費、勘定しといてくれ」と真島は言った。

 「急に、嶋野組が…入ってきて、『ラン』を出せ!って言ったんです。その話をしたの、真島さんしかいないから…ッ」
 「…すまん」
 「どうして……、どうしてくれるんです……、真島さんも、『ラン』を探しているんですよね…?」
 「ああ。せやけど、ここに来たんはな伝えてほしいから来たんや。……『ラン』に神室町から出ていけってな。あの子、どこに住んどるんや」

 店主は視線を下げた。
 「それが…知らないんです」と、涙声になっていた。

 「従業員の子で仲良うしてる子は?」
 「い、いいえ…『ラン』は寡黙な子なので、プライベートで仲のいい子は…」

 真島は悪態をつきたくなるのを堪えた。店主が「でも…」と続けた。

 「従業員の子がね、ホテル街で前に見かけたとかなんとか、聞いたんです。もしかしたら、ホテルに住んでいるかもしれません」
 「! おおきに。……『ラン』は守るで。約束する。…この後ほかの嶋野組が来るかもしれへん。店の片づけ止めてしばらく安全なとこに逃げてくれや。騒動収まったら弁償に来るさかい」
 「真島さん…」

 店主は頷いて、店の清掃をほどほどに奥の勝手口の方へと向かった。
 真島は店の玄関から出て、外に見張らせていた高木たちに声をかけた。

 「『ラン』はホテル街のほうにおるかもしれん。……しらみつぶしに当たれ。もし見つけたらポケベル鳴らせや」
 「はい。…兄貴は、どちらへ……?」
 「俺はまだ、行かなアカンところがあるんや。こっちでも見つけ次第鳴らす」
 
 真島はまだ一つ、行っていないところがあった。
 『ラン』もとい『荒川涼』の実家である。彼女は一度五月に訪れていたという。真っ先に実家に帰らなかったのは本人も両親は死んでいるに違いないと思っていたからだろうが、真島は覚えていることがある。

 あの事故の日、彼女は『祖母の家に住む』と駄々をこねた事を話していた。荒川涼の家族は、祖母が残っているのだ。一緒に住むというのだ。たまにしか会わないというわけではないだろう。近所、あるいは近くの街にいる。
 まだ存命かどうかは賭けではあるが。

 (横浜行く前に、あのホームレスからもっぺん訊くか…)
 
 真島は西公園へ向かった。
 ホームレスの老人はブルーシートの上で日本酒を啜っていた。真島に気づくと酒の入ったコップを持って手をあげた。

 「嶋野組の真島さんよ、進捗はどうだい」
 「じいさん、急ぎや」

 懐の財布から一万円を取り出し老人へと手渡す。
 「ふぉふぉふぉ」と酒も入っているためか、大層ご機嫌である。

 「『荒川涼』の実家、住所も知っとるやろ」
 「ふっ、まあな。いいか、『岬丘町の高台10の5』だ。わからなけりゃ駅前のタクシーに乗ればいい」
 「あとその祖母の家はどうや」
 「祖母? ……」
 「……金か」
 「いいや。こいつはサービスだ。『岬丘町の下川通り8の2』だよ」

 このホームレスはいずれ詳しく調べた方がいいだろう。良心的なサービスに真島は感謝を述べた。

 「恩に着るわ。……せや、じいさん。あの子見かけたら隠してやってくれ」
 「ふうむ……まあ、いい。あの子に免じてやるわい」

 ホームレスは空いたコップに日本酒を注ぎ、あおった。

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List午前四時の異邦人