十章『親離れの義侠心』B

 真島は東京レトロ神室町駅へと走った。途中で海浜関東線へ乗り換える。横浜の一つ手前の駅が最寄り駅だ。真島が到着する頃には、あたりは暗くなっていた。海が近いので潮の匂いがする。駅前には仕事帰りの会社員たちがタクシー乗り場に列をなしていた。タクシーに乗って教えられた通りに『岬丘町の高台10の5』へ向かう。

 荒川家は海が見下ろせる少し高台のところに建っていた。
 武家屋敷の佇まいでかつては立派であっただろう。表札は門の下に落ち、朽ち果てていた。一言で言い表すなら、幽霊屋敷だ。人の気配はなく物々しい雰囲気が漂い、他の住宅に比べて存在が異質。時が止まっているかのようだ。

 (実家には……来えへん、か? 祖母の家はこの高台の下や)



 『荒川涼』がホテル街での目撃情報があった以外に頼るなら祖母の家しかない。しかし、あの老人がその往来について何も触れなかったということは頻繁に戻っているわけではないし、祖母は亡くなっている可能性もある。真島はあえて最悪の選択肢を選んでここへ来たが本当に最悪になるのかもしれない。無駄足である。

 「……どちら様?」

 武家屋敷を見上げる真島に声がかかる。気配を感じなかったことにまず驚いた。
 暗がりの中、やや腰の曲がった老女が杖をついてそこに立っている。杖の音だけでもわかるはずだが、おそろしく静かで『幽霊』かと思った。

 「あんた…。……もしかして、荒川涼の……」

 真島がそう言いかけると、老女はカッカッと杖を打ち鳴らし物凄い剣幕に詰め寄ってきた。

 「涼ちゃん、……涼ちゃんを! ……あなた、涼ちゃんを知っているの…!? どこに行ったか、知ってるの?!」
 「そんなん、こっちのほうが知りたいわ」
 「……あなた、ヤクザ屋さんね?」
 「おう、せや」
 「涼ちゃん、何か悪いことしたの?」

 『涼ちゃん』と何度も呼び、食って掛かろうとする勢いで真島は思わず半歩退く。
 蛇柄のジャケットから覗く刺青を見て反社会勢力の自営業だと認めたうえで怯むことのない姿勢は感服に値する。
 度胸のある老女だ。その姿はどこかあの『穴倉』にいた『王吟』にも通じるものを感じた。

 「どうやろなぁ」
 「……」
 「おばあちゃん、『涼ちゃん』と会うたんやな?」

 言葉の節々に並ぶ情報に、この祖母は涼と会った事があり、それきり会えていないということが分かった。
 真島は背丈の低い老女に腰を折り両膝に手をついて視線を合わせ伺い見た。
 
 「……お金、いくら払えばいいのかしら」
 「金はええねん、話聞かせてもらいたいんや」

 未だ『借金取り』と思っている様子だったが、真島と目を合わせると何かが通じたのか「お家におあがりになって」と小さく言った。
 潮の香りをまとった強い風が一つ吹いた。



 高台のふもとに祖母である荒川恵子の家はあった。住んで半世紀が経つが十数年前にリフォームをしたらしい。道中、その祖母はあの幽霊屋敷同然となった家は『もしもの時』のために残していると話した。それが、飛行機事故で遺体として発見された両親ではなく行方不明となっていた彼女の孫たちのためであることは間違いない。

 家へ入り、和室の居間へ通される。襖で仕切っている奥には仏間があり、線香の香りと古い家らしい独特な香りと素朴な家庭的な香りとが混ざり合っている。古い木製の時計が壁にかかっている。時刻は午後七時を過ぎた頃だった。チッチッチッという細かい針の音が静かな時間を数えている。

 祖母はお茶を用意するといって、台所にいる。真島はなんとなく所在なさげに部屋を見回していたが、畳の上に腰を落ち着けた。障子越しに居間と仏間に繋がる縁側がありそこから小さな庭が見渡せるようだ。

 年季の入った机の上には、みかんが載った籠と、何冊か積みあがったアルバムが載っている。
 そのなかの一番上にあったアルバムに手を伸ばした。白くてやや高級感のある生地の表紙をめくり、最初の一ページめに、母親が赤ん坊を抱いているカラー写真があった。写真の下には『1969年 1月10日 誕生』、と油性ペンで書かれている。次のページにいくと、墨で清書された『涼』という名前が書かれた色紙を持つ初老の男と赤ん坊が写っている。

 写真はフィルムの簡単に撮影できるものが最近流行っているがまだまだ六十年代はカラー化してから日が浅い。それにカラー化されたといってもプロ用機材である。

 スーツ姿の男がカメラを構え小さな兄が庭で『涼』を抱っこしている姿を撮っているところを、さらに撮った写真があった。おそらくこの男は父親である。そういえば事故の新聞に父親の名前の隣には化学系大企業の名前があったのを思い出して合点がいく。

 豊かな家族が豊かな幸せな時代を生きている姿が写真越しに描かれている。少年だった真島が最も嫌う、雲の上だと思っていた人々の生活がそこにはある。今の真島にはその類の感情はもうない。

 (幸せは、…脆いんや)
 
 真島はパラパラとページをめくる。少しずつ背丈が伸び大きくなっていく女の子がいる。健やかで整い、余裕のある家庭出身の子どもらしい『顔つき』をしている。これは育ちだ。どれだけ大人になり金や権力や女を手に入れようとも手に入らないのは、この『育ち』だ。

 苦労を知らず、汚い世界を知らず、力を奮わずして力を持ち、親の豊かさを継承する人種の顔をしている。真島は想像する。もしも、あんな事故がなければ彼女は今どんな人生を送っていたかを。イギリスに行き、英語を話せるようになり、教養を高め、友達をつくり、日本の将来を担う国際的感覚を持つ女性になっていたかもしれない。
 たくさんの選択肢が彼女には用意されていて、何にだって成れた。

 (……? なんや)

 真島はひとつ気づいたことがあった。幼稚舎や学校の制服を着ている涼はどこか寂しいのだ。硬い表情をしており、写真撮影に緊張しているのかと思われたがどうも違うらしい。家庭で、とりわけこの祖父母の家で撮影されていると思われる写真では笑っている。

 兄にちょっかいを掛けられ泣きべそをかいている姿、ケーキを作るために泡立てた生クリームを指ごと舐めている姿や、口まわりに白い粉をつけていちご大福を頬張る姿、ぬいぐるみをぎゅっと抱いたままソファで眠る姿はいっとう可愛い。子どもらしい喜怒哀楽がそこにはあった。

 一見誰もがうらやむ人生だが、彼女自身や家庭内ではもう少し違った事情があったのだろうか。真島にはあの時の『おばあちゃんの家に住む』といった言葉が思い出された。あの夏の家出は、彼女にとって一大決心の勇気ある反抗だったのかもしれない。
 
 (……涼)

 真島は正座で静かに堪えるようにアルバムを見つめていた。
 お盆に二人分のお茶と茶請けの菓子を持って祖母が現れた。
 「寒いでしょう、そっちのストーブつけてくださる?」というので、部屋の角に置かれている石油ストーブのスイッチを押す。

 「これ、涼ちゃんが好きなものなの」
 「おお」

 机の上に並べられた茶請けは白くて丸い大福だった。中には苺が入っているのだろうか。さっきみたアルバムの中の写真にも美味しそうに食べる涼がいた。
 「どうぞ」と言われて真島は「いただきます」とともに合掌した。そういえば朝に軽く食べただけで何も食べていなかったことを思い出した。大福を割ってみると予想通り中に苺が入っており、甘酸っぱくて美味しかった。涼が好きだったこの家庭的なおやつの味に舌鼓を打つ。

 真島に血縁関係の家族の温もりはない。疑似家族制度のなかの契りは交わしているが典型的な男の縦社会だ。だからこそ対極に位置する女子供らに対する憧れと守ってやらねばならないという精神がある。結婚をすることで憧れを実現したいと考えていたが、朴美麗とはそれを果たし合えなかった。

 (……家族、か)

 涼の好物がすぐに出てくるというあたり、いつ帰ってきてもいいように待っているのだ。あの写真の姿をもう一度見られる日を望んでいる。
 彼女はその祖母に会ったうえで帰ってこないのは、追われている身を気にしての事だろう、と率直に思った。
 祖母は向かい側に座りなぜかにこにこと真島を眺めている。涼同様に白い粉が口まわりについているのだろうかと思い、手の甲で拭う。
 
 「なんや。おもろいもんちゃうで」
 「ふふふ。年老いて一人は寂しいものなのよ。旦那は数年前に亡くなって」
 「……それは、なんや…言わせてしもたのう」

 息子家族は事故で死亡・行方不明。長年連れ添った夫に先立たれての孤独は真島の想像する限り、あまりにも酷だった。この祖母はずっと待ち続けて、ようやく戻ってきた涼がまたいなくなり、孤独に晒されているのだ。真島は『涼に会ったのはいつか?』と尋ねた。

 「半年くらい前になるかしら。あの家には毎日行くの……事故以来欠かしてないわ。ヤクザ屋さんはどうして、涼ちゃんを探しているのかしら」
 「そのヤクザ屋いうのやめや……真島や、真島」
 「真島さん…?」
 「そうや」

 ズズっと熱い茶をすする。旨い。
 祖母の顔にまた不安が戻ってくる。

 「やっぱり、お金借りてるの?」
 「金やない。……身柄を、保護せなアカンのや」
 「……どうして?」
 「ばあちゃん、ひっくり返らんか?」
 「ひっくり……驚くってこと? そんなの、涼ちゃんが生きてたんだから、それ以上はないわ」
 「ええ覚悟しとるのう」

 胆力のある人間は男も女も問わず好きだ。若いころはさぞかし『いい女』であっただろう。
 仰天し腰を抜かして泡を吹かすなんてことはないだろう。

 「涼ちゃんは、…簡単に言うとな、拉致されとったんや」
 「拉致…」
 「拉致されて、犯罪を手伝わされとった。……ほんで、そこから逃げてきたんや」
 「……そう、それで」
 「なんや?」

 祖母は憂いた顔をして俯いた。
 この祖母とて行方不明の間に様々な想像をしただろう。死んでいればどんな最期を遂げたか、生きていればどうなっているのか、そんな想像を十年以上抱いて生きてきたはずだ。
 ひょっとすると『誘拐』ということも考えた。大層に驚かないのだからそうだ。一つの答えがもたらされた。そして、祖母の中で合点がいったようだった。

 「涼ちゃんに言ったのよ、認定死亡になってるから、届け出ようって」
 「戸籍のやな。……それ以来この家に来えへんっちゅう……わけやな」
 「そうなの。…だから、そう。そういうことだったのね」

 祖母が述べたのは、海上事故や事件などで遺体の上がらないが死亡だと思われる場合に取調官公署が死亡を認定し、これを受けて戸籍に死亡の記載がされるという話で、行方不明となっている本人が生きており、それを証明することで、死亡を取り消して再度戸籍を取得できるというものだ。海難事故はたとえば漁師などが該当するため、真島は自身がかつて密漁を行った経験から知っていた。

 戸籍取得をすれば諸々の手続きの段階で『荒川涼』が生きているということをどこかで聞きつけ、ちょっとした騒ぎになる。それが市中に広がればやがて追手の組織にも伝わる。
 祖母に負担がかかるとあって避けているのだろう。

 祖母の目元にはうっすらと涙が浮かんでいた。 

 「涼ちゃんは、犯罪者じゃ……ないのね?」
 「それは本人に訊かなあかん。せやから、保護をせなあかんのや」

 現状、これらすべて推測の話ばかりだ。しかし、彼女は事実狙われている。中国マフィア組織と、多額の金を積まれ仕事をする嶋野組に。危険な身の上であることは確かだった。
 この仕事を遂行されれば嶋野組の立場は危ういものとなる。彼女が『荒川涼』であると証明すれば、一般人を相手に追っていたことになり、またその一般人は十年前に失踪していた事故の当事者だったとなれば、結末は自ずと知れる。さらに『拉致』を認めた場合、たとえ彼女が犯罪に手を貸していたとしても洗脳の疑いや精神的な状態を考慮して軽罰か不問となる。組織に強要されていた場合には強要罪が適用される。
 『王吟』という名前の人間が、この世に正式な形で『存在していない』ことが、前提になるが。


 「……真島さん警察の人みたいねえ」
 「あン? ポリ公は起きてからやないと動かへんで」


 すべてシノギで得た経験と知識だ。極道ならびに暴力団は法律に詳しくなる。そういう生き方しかできない、はぐれ者ゆえに社会の抜け穴を見つけたり違法行為を行うのだから一般人よりはまんべんなく知っているだろう。それを今たまたま役立てる時がきたというだけで、警察のようだというのは皮肉だった。ほかの嶋野組が見つけてしまわないうちに『保護』しなくてはならないが、同時に彼女が戻ってくるこの家のことも考えなくてはならない。


 今『ラン』が『荒川涼』であることを知るのはおそらくあのホームレスと真島だけだ。『韓来』のこともある。どこかでその情報が洩れればこの家も安全でなくなる可能性があった。祖母は足を悪くしているし涼が憂いていた事が現実のものとなる事は避けたい。身から出た錆とはいえ、真島はこれ以上の被害を出さないために手を打つことにした。
 真島はポケットに入れていたベルが鳴った。高木からだった。


 「ばあちゃん、電話借りてええか」
 「どうぞ。電話は玄関のすぐ横にあるのを使って」
 「おおきに」


 玄関の脇にある黒電話の前に立った。
 しばらく待った後に電話のベルが鳴った。ワンコールで受話器を拾う。
 電話の向こうは騒がしい。高木が大声で叫んだ。


 「兄貴! 今どこにいるんすかァ!」
 「やかましいわ! ……俺は今、横浜のほうにおる」
 「浜ァ…?! なんでそんなとこにィ…」
 「そっちはどないな塩梅や」
 「い、いま……女が走ってったんス! でも兄貴からのコールだし…、他の連中に追わせてますが…ほかの嶋野組も勘づいたみたいで追いかけだして…!」
 「なんやて?」

 
 想像よりも早く、事態が動いた。
 真島はこの家を守らせるために応援を呼ぼうと考えていたが、今は真島の方が急がなければならないようだった。

 「真島さん…?」

 真島の声が気になったのか祖母が廊下に出てきた。手で待つように、とジェスチャーをする。
 電話の向こうの高木は「詳しい事情はあとっす! 兄貴も早く来てください!」といいガチャ切りした。
 
 「ちょ、待てや! ……くそ」
 「……涼ちゃん、みつかったの?」
 「………。いま、逃げとる。……俺は、今すぐここ出て東京に戻らなアカンのや。けど……ばあちゃん、一人で待ってられるか? ここにヘンなやつ押しかけて来て。……そないな事、涼ちゃんが一番悲しむんや。せやから、応援呼ぶつもりでいたんやけどアカンのや」
 「私は大丈夫よ」

 真島は髪をかき上げ、暗い天井を仰ぎ見て考えた。
 祖母はもう一度、「大丈夫ったら大丈夫。これでも戦前生まれよ。舐めてもらっちゃ困るわ」と強気を見せた。
 戦前生まれはタフかもしれない。だが老人相手に加減をするような輩ならば、そもそも『輩』ではないのだ。

 「せやけどな……?」
 「アタシは元極道の、荒川権太の妻なのよ!」
 「はあ? いや……それは映画俳優やろ…って、あ、イタ、痛いわ! 杖でつっつくなや…!」
 
 荒川権太。Xキネのドンと呼ばれ、ヤクザ映画の大御所を務めた戦前生まれの名優だ。本当に夫であったとしても役者であるのだから本物のヤクザではない。
 しかしこの肝の据わり具合といい、手(杖)が出る加減なら黙って大人しくされるがままではないだろうし、現に突かれている尻が痛い。鉄でも入っているのではないかと思う。

 「嘘つくにしてももうちょいマシなの言うてくれや!」
 「嘘じゃないもの! はやく行き、な、さ、い……!!」

 半ば追い出されるようにして真島は荒川祖母宅を出た。

 (あのばあちゃん、ごっつい…女やでぇ……!)

 走って駅前に戻り停車していたタクシーに乗り込む。
 行先を告げようとしたとき、再びポケベルが鳴る。『0000‐21019』と表示されている。
 0000は四輪車すなわち、車のことで『210』はフトーと読める。『19』は行く。『車で、埠頭行く』という事だろう。埠頭とは芝浦にある。

 「芝浦や。芝浦埠頭にいってくれ」

 車が発進する。真っ暗になった海が窓ガラスの向こうに見えた。
 乾いた唇を舐めるといちご大福の甘味がすこし蘇った。



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