十一章『あなたは星のよう』@

 十一章 『あなたは星のよう』

 

 お金を貯めて国外亡命する。

 それは内側で眠る王吟が涼が眠っている間にやり遂げようとしてくれていたことだった。あの『穴倉』の汚れ仕事を、彼は涼を傷つけないよう、業を被る事を避けて努力してくれていた。人を傷つけないでいることや苦しめないでいることは難しい。けれど、殺さないでいてくれた。守ってくれていた恩を返すため、彼の努力を水の泡にしないために彼の行動をやり遂げる。もうそれしか生き方はないと思って、涼は亡命資金を貯めていた。コツコツと七月の中旬までは。

 よく考えてみれば、涼は飛行機に乗れないのである。精神的な苦痛を帯びているうえに、そもそもにして身分証明書もなくパスポートもない。空輸の貨物に紛れて乗ることも考えたがセキュリティ突破が難しい。次に考えたのは貿易船のコンテナに紛れ込むことだった。日本にいても、『藍華連』たちの侵攻計画は進んでいく。もう少し、もう少し、と続けているうちにじわじわと滞在期間が伸びていったのだった。



 1992年 11月下旬




 涼は五月から神室町で働き出してからずっと、ホテル街のホテルを転々とした生活を送っていた。身分証明書がないため一般のビジネスホテルの宿泊は難しいためだ。料金体系が時間制で金額が決まるため平日は泊まれても週末や夏休みなどの期間は少々値上がりするので、一晩中起きてビルの屋上で野宿をすることもあった。冬になるとそういうわけにもいかず、週末でも宿泊せざるを得ない。

 ラブホテルの広くゆったりとした風呂の湯船に、三角座りになって浸かっていると、どこからともなく女の喘ぎ声が聞こえてくる。抜け出してきた『女たちの監獄』はこれよりも劣悪な世界だっただけに、まだ幸せそうに見えた。風呂には宿泊の回数だけ入れて、食事は賄いで昼と夜に食べられる。案外生きていけるものだと思った。



 今日は意外な出来事が起こった。

 嶋野組の真島吾朗が店に来た。普通に食事をしにきた。

 ……とはいえ意外でもなんでもない。嶋野組は暴力団の東城会系でこの神室町エリアをシマにしているので、たまたま今日まで会わなかっただけなのだ。彼は恰好が目立つので歩いていると遠目でもわかる。引き締まった長身で蛇柄のジャケットを羽織り、隙間からは鮮やかな色の紋々が見え隠れし、切り揃えられた黒髪と端正な顔立ちの中、左眼を眼帯で覆っている。『嶋野の狂犬』と呼ばれ、『韓来』で飲食をする彼の同業者たちから噂話をきくことは日常茶飯事であった。

 『シノギで五千万儲けた』や『カラオケに連れまわされると帰れない』や『結婚した』など、常に話題に上る中心人物として存在感を放っている。ヤクザの世界のカリスマ的存在といえばいいのだろうか、『穴倉』から出たほどの人間なのだから、大物になる素質を持っている人だと思う。

 その真島吾朗が同じ組の仲間と思しきメンバーを引き連れて来店した。

 夕方からの開店前に店先を清掃していて声を掛けられるとは思わなかった。『ラン』という名前を使っているし、なにより彼と正確な面識はないのだ。『穴倉』にいたのだってもう六年ほど前の出来事になる。一度、蒼天堀で見かけたときですら、狐のお面を被ってやり過ごしたのだから向こうはいっさい涼を知らないだろう。そしてこれからも知らない。幸せで豊かな生活が彼の周りにはある。

 将来があって、組織内の人望も厚いうえ出世も遠くないだろう。おまけに妻帯者とあらば今が人生の盛りあがり時ではないだろうか。みんなの、一番星のような存在。


 「なぁ姉ちゃん」
 「はい、ご注文でしょうか?」
 「! あぁ、せやな……」

 二回目の注文の肉が載った皿を持ってくると真島が声をかけた。座布団席に座っているため目線が低くやや見上げられるせいか距離を近くに感じた。何もかもを見透かしてしまいそうな瞳で『ラン』をじっと見つめている。真島吾朗の顔をまともに見るのは四年前の蒼天堀だろうか。今年の五月での邂逅はただ横顔から後ろ姿にかけて通りすがる形で、真正面から捉えることは久方ぶりである。

 あの頃は少し痩せていたが、今は血色もよく脂がのりだした二十代後半らしい厚みがある。
 『ウーロン茶二つにビールと日本酒』をメモを取っていると視線が惜しげもなく向けられていて、『疑われている』のだとわかった。はぐらかそうと「どうしました?」と言ってみるが、それをより確実のものとする言葉を紡いだ。


 「姉ちゃん、……会うたことないか…?」

 まさか、そんなはずはないと思った。真島の声音は疑いではなく、『会ったことがある』と言い切るように力強い。なぜそんなことをわざわざ言うのか。

 涼は最悪の想像をした。真島吾朗が『恨んでいる』ということだ。『穴倉』での生存率は数パーセントにも満たないが、稀に真島のような強靭な人間がいて『穴倉』を出た後に、恨んでいた拷問官を探し出して殺してしまうケースはなくはない。
 男性ホルモン注射を打たなくなって以降、だいぶ経つ。筋肉も落ち、一日二食の食事にありつけるようになって、肉付きが女性らしさを取り戻しつつある。髪も伸びて姿形だけでは判別は難しいはずだ。どうか彼の記憶が不正確であることを祈って、「ないですよ」と口にした。思っている以上に硬い声がでた。
 
 「昔会うた人に、似とったんや」

 彼は疑心に満ちた表情から一転和らげた。冗句のつもりだというように、笑みを向けられる。
 それは本気の笑みではない。五月の通りすがりの時に垣間見えた妻の前で見せたものこそ、本当の笑みだ。涼はひそかに、出国の予定を早める必要があると考えた。
 真島吾朗は獲物を狙う肉食獣のような目をしている。国内で死にたくはない。それは祖母のいる国で死ぬことは、耐え難いものであったからだ。



 夢だ。夢をみている。
 まだ熱心に、聖母マリアさまを信じていたころの夢。
 

 『荒川さん〜! ほら、あの席に座ってるのが荒川さん。……こっち来てあげて! 神岡くんがお話したいんですって』


 喫茶店で友達とお茶をしてそのあと、少年に助けられてから少し経ったある日のことだ。

 神岡幸太郎という同学年の四組の男子が涼を呼び出した。まわりにいる女子たちはきゃあきゃあと黄色い声をあげていたが、その時の涼はちっともわからなかった。それよりも、ずっと『彼』のことばかりを考えていたのだ。長身で喧嘩が強く、目つきが悪いも俳優のように整った顔立ちの年上の少年の事を。
 少年はどこで暮らしていて、今何をしているのだろう。誰かの生活を考えることは生まれてはじめてだった。名前も知らない少年にもう一度会いたいと思ったのだ。


 『荒川、さん…あの、……好きなんです』
 『好き……』
 「は、はいっ。ぼく、実は初等科から途中で編入してきたんですけど、えと……ずっと同じクラスになれなくて、あんまり喋ったことないんですけど、好き、です」
 『……』

 涼は彼に対してのこの感情に名前があるとしたら、それが『好き』なのではないかと思った。
 同時にこの神岡くんの想いを知って、『喋ったことがないのに、好きと言われても…』という感情に、同じことを涼はあの少年に向けているのだとおもうと無性に悲しくなった。

 『あなたのことは何とも思ってない』という事を告げるのは酷で、かといって無下にも扱えない。

 『ありがとう。お友達から…はじめましょう?』
 『は、はい! ありがとう、ございますっ」

 『お友達から』といいながらその好意を報いてあげられる日が来ないことを知っている、自分自身を浅ましいと思う。
 とっくに汚らわしい身であることを、神は見抜いていたのかもしれない。ひとを『好き』になるということは、彼を『好き』になったということは、『神への愛』をも果たせなくなってしまったのだ。

 天罰として、死をお与えになった。だから、どれほど願おうと助けてはくれず、願いを聞き入れてくださることもなくなった。

 
 ラブホテルの浴室の、熱い湯船の中で舟を漕いでいる。髪が濡れ、長い黒髪が湯の中でゆっくりと広がっている。
 水面には暖色のライトが反射し、沼の底の土を掘り返したように濁った眼をした女がじっと見つめ返している。死んでいるみたいだ。涼はもうあの事故の時に死んでいて、幽霊になってこの地上の世界をさまよっているだけなのかもしれない。神に罰され、天国への道を失い、地獄にもいけないのだ。
 涼に告白してきた、神岡幸太郎も涼を忘れて自分の人生を生きているはずだ。


 「わたしだけが……ずうっと、止まって…」

 あのまま王汀州の仕事を続けてればよかったのだろうか。人の不幸をまざまざと見せつけられて『見殺し』にする。彼らに日本語を教えていた頃はもう少し人間味があった。涼を仕事以外のときは『小猫』と書いてシャオマオと呼んだ。文字通り彼らの猫のような愛玩動物だったのだろう。可愛がられているうちはいいが、飽きられれば終わりだ。だから次に見つかった時は間違いなく、殺されるだろう。



 



 料金を精算しラブホテルを出ると冬の冷たい風が体を冷やした。思わず身震いする。パーカーにジーンズにスニーカー。カジュアルな服装だが、道行く人々はコートを羽織っている。目立たないように一着コートを買った方がいいだろうかと思い古着屋を探しに行くことにした。

 『韓来』は二日間の休みを取った。休みといっても今日か、明日中にはこの街を抜けないといけない。二度と戻ることはないだろう。店長は事情を詳しく聞かずに店に置いてくれた、とても感謝している。
 芝浦にある埠頭は建設中の橋があり、まだ大きな旅客船は通れないが小さなものならそこから船が出ると聞いた。出航時刻を調べなくてはいけないが困り果てた。

 ぐう、と腹の虫が鳴る。

 日本を出たらしばらく食事もままならないだろう。何が食べたいか、と考えて最初に脳裏を過ったのは祖母の家に遊びに行くといつも用意されていたいちご大福だった。元祖といわれる店が近くにあるはずなのだがまだ行っていなかった。西公園前を横切ろうとしたとき、あの目立つ蛇柄が目に入った。真島吾朗だ。屈みこんでブルーシートの上に座るホームレスと何やら話し込んでいる。目を眇めよく見てみると、かつてお世話になったことのあるこの周辺を牛耳っているお爺さんだ。祖母の家に一度行ったっきり戻っていないので今会うと色々ややこしくなる。

 もしや、あの真島吾朗は涼を探しているのではないか、とまた嫌な想像をしてしまう。


 (そんな……まさか)

 こそこそとフードを深くかぶって涼は公園の前の道路を抜ける。
 よく前をみていなかったせいで曲がり角で女子高生グループにぶつかってしまった。持っていた炭酸飲料水が道路に中身をまき散らし、シュワシュワと音を立てながらアスファルトに吸収されていくのをみて、ため息をつきたくなった。

 「あっ……」
 「なにが、『あっ』よ! ちょっとお、どうしてくれるのよォ?」
 「ご、ごめんなさい!」


 あまり騒ぎになると、あの蛇柄の男がすっ飛んでくるかもしれない。そう考えると涼は震えた。女子高生グループは三人で、化粧を施しシャツの第一ボタンを開けスカートを短く折っている。すらっと伸びた脚、健康的な肌が艶々と輝いていてなんだか眩しい。ガムを噛む女子高生が「おい、ババア弁償しろよ」と手を差し出すのでおずおずと千円を渡した。

 (約一時間半分の労働対価が……)

 なくなく手放した貴重な資金だった。
 女子高校生だった時間もなく、それなのに年下からおばさん扱いだ。確かにおばさんかもしれないが、いささかもやもやする。ぐう、とまた腹の虫が鳴る。いちご大福を食べないといけないのに。

 女子高生たちがお金にきゃっきゃしているうちに逃げ、ほっと胸を撫で下ろすのも束の間。その次にやってきたのは、『電車に乗りたいんだけど電車賃がなくて貸してくれ』という男と、目の前でジュースを買おうとしたが側溝に百円玉を落とした少年だった。見事にお金をせびられ、財布が軽くなっていく気配に唸った。

 やっと元祖いちご大福発祥となった店にたどり着くと、すでにそこは行列を成しており最後尾に並んだ。なんとかありつけたい。願いが叶ってか、奇跡的に最後の一個を手に入れた。感動冷めやらぬうちに、店先で食べようとしたとき、図体の大きい男がなだれ込んできた。
 目の前で喧嘩が始まったようだった。

 「あっ」

 先ほどの衝撃で、口に運ぼうとしたいちご大福は地面の上へと転がり、たった今通行人が踏んでしまった。それを呆然と見下ろしていると、喧嘩が終わったらしい赤シャツにグレースーツの男が声をかけてきた。

 「お、おい……その、なんだ…」
 「…うぅぇ…」
 「わ、悪かったって」
 「最後の一個だったのにぃ……」

 年甲斐もなく涙がこぼれる。不意に小学校三年生の夏休みに、宿題が終わったご褒美として用意されていたいちご大福を、兄に食べられてしまったときのことを思い出した。図体の大きい男は回り込んで涼の前に立つ。「どいてくださいよぉ!」と吠えると「そうはいかない」と言う。俯いていた顔を少し上へあげて、どこからどうみてもその筋の人だ。彫りが深く、野性味のある精悍な顔立ちをしていて、これまた俳優になったほうが稼げるのではないだろうかと思う男だった。

 しかもよく見てみると、ジャケットの襟についているピンバッジから、堂島組だということが知れる。思わず涙もすっこんだ。なんて厄日、厄年だろう。マフィアから逃げてきたらヤクザばかりの街で、さらにヤクザから逃げようとして、ヤクザみたいな脅しを受け、ヤクザの喧嘩に巻き込まれるという負の連鎖。

 悪運が強いとは、まさにこのことだ。
 泣き言をいう涼を見かねたのか、堂島組の若いヤクザは一つ提案をした。
 

 「それ、明日になったらまた店に並ぶんだろう?」
 「……はい」
 「じゃあ、明日ここで買ってやる」
 「明日……」

 涼は肩を揺らした。計画に従うなら、街が静かなうち、今日中が望ましいのだ。
 明日までここにいなくてはいけないのだろうか。しかし、一度得た幸福の味をあと一歩で得られる。いずれ果てる命なのだから、美味いものを食べたという思い出が欲しかった。

 明日の早いうちに食べてから、船に乗ればいいのではないか。
 その考えから自然と唇は動いた。

 「芝浦の船の出航時刻って、ご存知ですか……?」
 「船……?」
 「……あっ、いえ…なんでも、ありません」
 「いや」
 「お気持ちは嬉しいですけど、やっぱり明日は無理です」

 危うく人情に流され、余計なことを言ってしまうところだった。堂島組とはいえ同じ系列のシマだ。忘れてはならない。どんな縁があるかわからないからだ。涼は男の脇をくぐり抜けていく。
 「おい」と呼び掛けられるも振り向くことはしなかった。その背後で「おい、桐生!」と呼び掛けられ彼もまたその場を立ち去ることとなるのであった。



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