十一章『あなたは星のよう』A

 翌日。


 涼はまだ出国していなかった。理由は簡単で、その後カツアゲに遭ったからだ。
 おかげで資金は目減りし、コートも買えず、ラブホテルに宿泊する料金もままならず。誰にも見つからないであろうビルの屋上で、新聞紙に包まって寒空の下で夜を明かした。空腹が限界を超え、もはやなんとも感じなくなっていた。

 遅い日の入りの光を頬に受け、涼は静かに思った。
 昨日、『桐生』という男にあんなことを言ってしまったが、いちご大福を最後に奢ってくれたりしないだろうか、という淡い期待が一つ胸の中にある。乞食のような発想だが、もはや朝ごはんを賄うにも躊躇するほど金がない。

 空腹で体温が下がり続けている。船に乗り、寒い海上の夜と国を越えるにはもう少しエネルギーが必要だ。できれば貨客兼用の船がいいが、大手のコンテナが係留する船をいちいち見て回る余裕はない。金があれば悩みもしないことだった。

 一番は、神室町内に不法滞在や不法移民の外国人と関係を持つことができれば、ルートを使って逃げられる。だが、彼らの情報網は至るところに張り巡らされているため、簡単に捕まってしまうだろう。コミュニティを広げず、『韓来』とラブホテルの往復生活に留めてきた弊害がいま起きている。

 涼は一縷の望みを賭けて、ビルを下りた。
 街へ出た時、すぐに違和感に気がついた。そこら中にガラの悪い集団が徒党を組み、店に入ったりして、聞き込みをしている。その異様な雰囲気に涼は慄いた。

 電柱に隠れてしばらく様子を窺っていると、どうも人を探しているようだった。


 「おい、見つかったか?」
 「だめだ。『韓来』には今日は来てねえってよ。あのアマどこに逃げよった?」

 (………!)


 その瞬間に、涼はすべてを察した。
 やはり昨日のうちに出ていくべきだったと後悔が先にやってきた。おそらく今聞き込みをしているのは嶋野組だろう。真島が動いたのか。早く神室町を出ないといけないが、四方八方に嶋野組の組員たちが散らかっていて、恐ろしい。その恐ろしさゆえに身がすくんだ。

 そして一つの心配事が浮かび上がった。
 世話になった『韓来』はどうなっただろう。不安になった。涼はいてもたってもいられず、『韓来』へ向かった。

 ちょうどそこに組員を引きつれた真島が、店内へ入っていくところだった。もちろん、飲食が目的でないことくらいはっきりとわかった。店の前では見張り役として、男たちが立たされている。きょろきょろと周囲を警戒するように見回していることから、真島を含む嶋野組も、おそらくは堂島組も、あるいはその上の東城会が総出で探し回っているのかもしれないと思った。

 見つかると殺される。
 涼はそっとその場を足早に立ち去った。昼はとっくに過ぎていて、夕方の営業開始までの休憩時間。店内は暗くガラスが割れていた。おそらく嶋野組の嫌がらせだ。『自分がいたせいでこんなことが起こってしまった』という自責の念に駆られて、どうしようもなく、情けなく不甲斐ないと、歩きながら頭を垂れた。

 生きているだけで、すべてを否定されているような気がした。
 ぼろぼろと涙がこぼれおちる。その背後から固い男の声がかかった。

 「おい、お前」
 「いま泣いてるんで後にしてください……っ」
 「おう…」

 男は気迫に退いたが、涼は聞き覚えのある声に、はっとして振り返った。
 すると昨日の堂島組の『桐生』という名前の男が、律儀にも小さい紙袋を持って、店の脇に立っているではないか。
 涼はきょろきょろと見渡し、周囲に嶋野組がいないことを確認して、ひょこひょこと桐生のもとへと近寄る。白い小さな紙袋のなかには本日のいちご大福が入っている。
 桐生を見上げて、寒さと緊張に震えながら「いただいてもいいんですか」と尋ねれば、さも当然という顔で頷いた。


 「もともと、落っことしたのは俺のせいだろう。遠慮せずに受け取ってくれ」
 「あ、ありがとうございます」
 

 かさ、とやや硬い紙特有の音をたて受け取る。袋から取り出してパックをパカッと開くと、夢にまでみた、まんまるとふくよかな餅の姿がある。いちご大福をつまみあげると、大きく頬張った。柔らかく、あんこの甘み、大粒の苺の甘酸っぱさ。至極の味である。
 この味だけは涼を裏切らない。白い粉がほろほろと零れるも、昨日の朝ぶりの、飲食にあっという間に食べ終わってしまう。ささやかな幸福に満たされ、切なさが後を引いた。涼が食べ終わるまで、桐生は傍らで見守っていた。


 「ところであんた、なんでさっきまた泣いてたんだ」
 「……」
 「今度は、どら焼きでも落としたのか?」

 なぜ食べ物を落とすことを前提にされているのだろう。『お金ならカツアゲされたけれど』と思い出したくない出来事と、桐生の喧嘩が原因でありつけなかった事柄が同時に過ぎった。その不服そうな顔が伝わったのか、男は「今のは冗談だ」と言った。
 涼と接する人間は一様にしてからかってくる傾向にある。こんなにも真面目に生きているのに、だ。今となってようやく、そういう星の元に生まれたのかもしれないという事に気づいたが、いい思いをしたことがない。

 「……まじ…いえ、嶋野組が…」
 「真島の兄さんか?」
 「あぁっ…!」

 まさかこんなところで、聞きたくもない男の名前の登場に涼は両耳を塞いだ。
 桐生は不思議そうな顔で見下ろしている。約束事をきっちりと果たす人情味のある男だと思ったが、たったいま覆った。

 (やっぱりこの男も危険だった!)

 涼は頭を抱えた。
 所詮ヤクザ者を信用しすぎてはならない。うっかりと口を滑らしてしまったことで、とんでもない事になってしまったら。口元を抑えても後の祭りだ。

 「あんた、忙しないな……」

 ため息をつきながら言う桐生に、涼は首を傾げた。
 はぐらかそうとしているのではないか、疑り深い眼差しを送ると今度は桐生が首を傾げた。

 聞き間違いでなければこの男はたったいま『真島の兄さん』と呼んだはずだ。
 真島吾朗の喧嘩を見たことがある。もちろん遠目からだが、脚は長い、速い、強い。腕も長い、拳は強いは、頭も切れるし、ドスでも切れる。鮮やかな喧嘩捌きをする。体を使うのが上手で、五十メートル走を七秒のタイムを持つ涼でさえ逃げきれる自信がない。

 そんなチーターのような運動神経を持つ男と関係のある男が、目の前にいる。
 昨日の喧嘩を思い出してみれば、きっとこの桐生は強い方だ。敬称の『さん』付けではなく、『兄さん』と呼んでいるので、組は違えど交流はある。となれば何かの会話の弾みで、妙な女にいちご大福を買ってやった話が伝わっていくのも自然な気がした。

 多幸感に満たされていた涼の顔はやがて白くなっていった。

 「うぅっ……このこと、本人に言わないでください」
 「あんた兄さんの女か?」
 「なんでそうなるんですか、全然違いますゥ!」
 「あんたが、本人が……なんて言うから、って……おい!」

 喋れば喋るほどボロが出る。
 ドツボにはまる状況を振り払おうと叫んだ。
 「ごちそうさまでした」を言い残して、涼その場を脱兎のごとく走り去った。





 桐生から逃れて神室町を出ようとしていたが、四方八方の通りを嶋野組たちが囲んでおり、袋のネズミ状態になっていた。次第に日が落ち暗くなってきて、夜目があれば人目につきにくいと考え息を潜めて好機を伺っていた。そんな涼に声をかけたのは真島と同じ所属と思しき、嶋野組組員だった。

 「お姉さん一人? あのさ聞きたいことがあるっていうか」
 「えっ」
 「あ、ああ。『ラン』って名前の女を探してるんだけどよ……」

 涼はただ『知らない』といえばいいのだ。もちろん涼はそのつもりでいた。「あ、お前! 桐生が探してたぞ!」というはつらつとした声が降りかかるまでは。
 突如として現れた男に涼は全身を震わせた。

 (だ、だれ……?)

 髪は長く、どこかきざったらしくも見える。黒シャツに白スーツ。一見どこかのホストと見紛うが、襟に光るピンバッジから、「ああ…」とならずにはいられない。昨日桐生に声をかけた男だろうか。名前は知らない。だが桐生まで探しているのかと思うと涼の口からため息がでた。

 「お前! 堂島組のじゃねえか! お前らもあの女探してるんか!? あぁん!?」
 「うるせぇよ。誰だよ、あんま大きな声出すとこいつビビって逃げ……おいおいおい! 待てって!」

 涼は走り出す。ええいもうどうにでもなれ!という気持ちで走った。時間が過ぎれば過ぎるほど、待てば待つほど状況が最悪の針路に向かう。劇場前通りを抜け、天下一通りを抜け切ろうとしたとき目の前に黒塗りの高級車が停車した。重厚感のある光沢を放つドアが開く。中からぬっと現れたのは、この世で最も会いたくない男だった。

 「オウ、テイシュウ……」

 地獄への合言葉のように、唇を震わせる名前すらも忌々しい。
 絶望、虚無、諦観。
 どの言葉もふさわしく、畏怖という感情に芽吹く感触に、息が吸えなくなっていく。
 
 髪は前髪一本も残さずに塗り固め、後ろで一つに縛り、黒絹で仕立てられた上質な中国服に黒の外套を羽織っている。細い街灯のような高い背、笑う顔一つ想像できない彫像のように凝り固まった冷淡な顔つきは涼の忘れたがっている日々を一瞬で思い出させた。
 足に根が生えたかのように動かなくなり、心臓が早鐘を打ち、嫌な汗が全身の孔という孔から吹き出てくる。王汀州が一歩、また一歩と歩くだけで、その身に鋭利なナイフの切先を切りつけられているかのように痛んだ。

 「待て!!」

 後ろから追いかけてきた面々の声が涼の背後から差し迫ってくる。王汀州が気づかないはずがない。
 状況がどんどん悪くなっていく。いつもこうだ。

 (……もう、お願いだから…ゆるして)

 ゆっくりと冷酷非情な目がフードを被った涼を捉える。目を合わせてはいけない、そうは思いつつも布の陰から見ていないことを確認したくて忍ばせた瞳が、視線が交じり合う。王汀州の一挙手一投足は細かくコマ送りしてみるようにゆっくりと動いて見えた。

 「小猫」

 唇がそう、動く。シャンマオ。『子猫ちゃん』その日本語を教えはじめた時、彼は涼を指さしてそう呼んだ。
 愛玩動物に対する、彼女への称号だった。王兄弟を愉快にさせるための、飼い猫の烙印である。
 視線を外す。涼は昭和通りを走り出した。夜の繁華街に溢れた人混みを縫うようにかいくぐるように、時には這い出したまたま道端に停まっていたタクシーを拾うと「出して!早く!」と叫んだ。
 運転手には悪いが、その通りにまず発車してくれた。

 「お、お客さん、ど、どちらへ?」
 「……」

 どこに行けばいいのだろう。自分はどこに行っていいのだろう。どこに行っても、ダメな気がした。

 (たすけて、吟……)

 吟はうんともすんとも言わないのだ。もう彼はどこにもいなかった。とっくに死んでいるのかもしれない。眠っている、と思っているのは涼だけで実際は彼は約束を果たした段階で消えてしまった。涼はもうこの世界でひとりぼっちなのだ。

 「芝浦に……、いってください」
 「芝浦? 芝浦ですね?」
 「……おねがいします」


 吟の約束を果たさなければならない。吟は約束を守ってくれた。いつも傍にいてくれた。

 タクシーの後方には黒塗りの高級車に続きタクシーが何台か追ってきている。途中、白いバンが横道から入ってきて合流しその一列はみな芝浦へと向かっている。

 涼は疲れ切った顔でバックミラー越しに見える後ろの様子を確認した。まるで祖父が出演していた映画の中のようだ。祖母に会って以降気になって、神室町にあるビデオ屋さんに行った。Vキネに出演する祖父がパッケージの中にいた。数年前に亡くなったのでその姿が遺影代わりとなる。まだVキネができて数年足らず。ビデオ屋さんが制作したと思しき宣伝用の紙には『Vキネ界のドン』と書かれていた。

 (数年でドンになれる世界ってどういうことよ…)

 キネマ俳優として任侠映画に数多く出演し、涼のいない十年の間で名優へと上り詰めた。その祖父でもこのヤクザ数十人以上に追いかけられる逃亡劇は撮ってこなかっただろう。



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