十一章『あなたは星のよう』B

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 ポケベルの数字の指し示す通り、芝浦埠頭へ向かっている走行中のタクシーの中。真島は落ち着きを払えずしばしば窓の外から見える巨大橋梁の方向をみていた。あの橋は未だ建設途中の『ムーンスターブリッジ』といい、全長798mの『東京港連絡橋』として使用される事になっている。今はまだ下の埠頭に入ってこられる船の種類は決まっているが、海外の旅客船が船の下を通過できるようにという目的で作られており、もう少しで完成するといわれている。

 真島は料金メーターをみる。もうすぐ一万円になろうとしていた。一つ息を吐いた。膝上に置いた手の甲に視線を落とす。すると窓の外でありえない轟音をたて、何かが『ムーンスターブリッジ』のこちら側で爆発した。タクシーの運転手が「わっ」と驚いた声をだし、前方の車が低速走行していく影響でこのタクシーものろのろと走行し、ついには停まった。

 「な、なんや…」

 ボオンともう一度、爆発音が空気中に振動と音を響かせ、橋の手前側を赤く染めている。ガタガタと窓ガラスが震えた。嫌な予感がした。この道路の進行方向にあるため、おそらくこれ以上車は進めないだろう。タクシー運転手は「お客さん、下ります?」と声を掛けてきた。真島はああ、と返事をし一万円と数千円を出した。


 「え、ちょっと、多いですよ」
 「ええ、ええ。それよりおっちゃん、この辺で公衆電話あるか? 無いならその無線から救急車と警察、消防車…全部呼んでくれや」
 「公衆電話ならこの先、車が邪魔してるけどちょっといったとこにあるよ。……わかりました、連絡します」


 おおきに、と真島は言うと開けてもらったドアから道路にでる。運転手に通報を頼んだが真島は公衆電話へと駆け込んだ。言われたように道の少し先にあり、もうすでに誰かが通報してくれているようだが、それは必要な連絡だった。

 連絡が終わると、渋滞で一歩も進めない車の間を縫って事故現場の方へと走った。

 ただならぬ予感に心拍数は上がり、海風の染み込んだ冷風が吹きつけるのに体は熱く、尻に火をつけられ急かされているような気がした。
 空気が乾燥し南からの潮風が吹いている。延焼するかもしれない。近づいていくと野次馬ができていた。人の壁を避けて潜っていくと、タクシーの前方部分がぐしゃりと潰れて、さらに後方から追突した黒い高級車が押し上げるようにして突っこんでいる。二つの車ごと火だるまになって、橋の手間のバリケードを突き破りそれらがあたりに散乱している。

 「……おい!」

 真島はタクシーから少し離れた陰で仰向けに倒れている男を見つけて声をかけた。服装から察するにこのタクシーの運転手だろう。
 意識はあるようで呼吸を乱しながら横たわっているところに近寄った。
 
 「あんた、一人か?!」
 「いや……」
 「乗客、おったんか?」
 「女が一人、乗って……追われて……」
 「! わかった。もう喋るなや……、救急車呼んだから、それまで持ちこたえるんやで」

 野次馬たちを掻き分けて、男たちの粗暴な声が聞こえる。
 散らばって停車している白バンが何台かある。男たちのなかから一人「おう、真島やないか!」と見つけられる。男たちは、嶋野組だった。
 燃え上がる熱とは違う理由で真島の額に汗が浮かぶ。

 「おまえら……」

 つまり、そういうことなのだ。

 
 ひりひりと焼き切れるような感覚が真島の思考を冴え渡らせる。タクシー運転手の傍らから立ち上がると真島は火の中へ飛び込んだ。
 タクシーは女一人を乗せて走行し、後方から来た車に追われていた。タクシーと高級車には人が乗っていなかった。中の人間は外にでている。

 (涼や……、涼が……まだ、どっかに……!)

 橋は手前の支柱が一部焦げ始めているのか煙たい。吊り橋構造の橋なためいくつかのワイヤーがあり熱伝導率は低いが車の炎上はもう一つピークが来るだろう。爆風の振動でそのワイヤーに負荷がさらに加わればどうなるかはわからない。なにせよ、まだ建設途中なのだから。

 とはいえ橋の手前側は完成している。『全長798m』幅はおよそ『50m』あるこの橋の上。置かれた鉄鋼資材たちや重機の陰に隠れることはできる。真島は『涼!』と叫んだ。もうその名を呼ぶことに馴染んでいた。
 真島の声は海風とともに冬の透き通る闇へと吸い込まれていく。今日は、ひどく、風が強い。
 
 「っ……涼―ッ!」
 
 自分だけが追っているならまだしも、もう一人いるのだ。
 それが嶋野組なら殺しはしないだろうが最悪の事もありえる。しかしあの高級車はと考える。嶋野組ではないのだ、それが如実に物語っている。
 中国マフィアどもであるならば。

 「おや」という感動詞が真島のすぐ真後ろからした。右手を男の顔をめがけて奮おうとしてぴたりと止まる。
 そのコンパスの針のように長く、鋭いニヒル顔の男。あの『穴倉』で最後に真島を嬲った男、『王汀州』であった。彼の右手にある黒光りする鉄の銃の口が真島の額にぴったりとくっついている。
 『M92 』ベレッタM92 とも呼ばれアメリカ軍でも使用される自動式拳銃。その美しいフォルムに憎らしいほど合っている。『蠅の王』という称号はやはりこの男に似合うと思った。

 「お久しぶりですねえ、真島、吾朗でしたか…お噂はかねがね。せっかくお会いできたのに残念です」

 流ちょうな日本語の節々に中国人特有のアクセントが加わり、不気味な印象を与える。男の両目は黒々として深淵の闇を覗くように深い。その声はたゆたう意識へと誘うようになめらかである。
 日本のヤクザにある粗暴さはなく、知的でスマートで腹の底が読めない末恐ろしさを、額に伝わる鉄の冷たさに感じた。
 押し黙っている真島にくすり、と一つ笑みをこぼした。

 「私は今忙しくて。逃げた子猫を連れ帰らないといけないのです」
 「……させへんで」
 「いえいえ。あなたがた嶋野組には見つけていただいた以上のものを用意しております。ですから、……この先は私でなんとかいたします」

 嶋野と繋がっていたのはこの王汀州であることを確定づけた。まさか真島が『保護』を目的に動いているなどとは、微塵たりとも思っていないだろう。
 王汀州は真島にここで手を引け、と言っている。

 (そないなこと、するわけないやろ)

 「いたぞ!」という号令がかかる。数発の銃声が鳴り入り口側の方向にいる野次馬たちがどよめく。
 さらにもう一発の発砲音。それは橋の下から飛んできて狙いが外れて橋のワイヤーへと掠めた。「涼!」と真島は叫んだ。橋の左側の側面のどこかに隠れている涼がいるのだ。王汀州が動いたのが速かった。

 (させるか……!)


 真島は後れをとったものの王汀州の走る足を身を滑り込ませることで引っかけた。前傾へと体勢を崩れ転ぶ、真島の方へと向いた。右手に持ったベレッタの銃弾がが真島の頬を熱く掠めた。
 命が燃える瞬間だった。真島は自然に笑っていた。姿勢を立て直し、蛇柄のジャケットを脱ぎ捨てる。その背中に宿った鬼女晒す。
 起き上がろうとする王汀州よりも早く走り寄り、足で右手の銃を弾き飛ばす。銃はぐるぐるとアスファルトの上を回転し五メートル先まで飛んだ。
 蹴り上げた脚を王汀州が巻き付いて真島を押し倒す。形勢逆転し、腹に重い一撃を食らう。

 「ぐぅっ!」

 発砲音が下でもう一度したとき、「何晒とんじゃあ、ボケ!」という怒号が飛んだ。その声は嶋野だった。現場に嶋野が来たのだ。涼を早く、保護しなければと考えていると、王汀州の拳が顔に入った。口内に鉄の味が染みわたる。もう一度、彼の右手が振り上がるとともに、真島は腹筋を使い、太ももの上に乗り上がる男の姿勢を崩す。張り倒し、王汀州の首を締め上げる。すると鳩尾に肘が刺さり、くるりと回り体を真島から引きはがすと、手刀が真島の首裏にめがけて飛ぶ。位置がずれたため気絶には至らないが、確実に、容赦なく、急所を狙っている。

 「んーーー!」

 悶絶しアスファルトの上を転ぶ。余分な拳もなく、無駄もなく、的確な急所を狙う。殺すことに躊躇いのない攻撃である。これは、喧嘩ではないのだ。
 
 「邪魔しないでください、あなたも、親に逆らうのですか」
 「………せや。俺は、逆ろうてんのや」
 「ハハハ、あんなに、戻りたいって言ってた『極道』じゃあないですか、ナンテ欲深い!」

 悔しいことに王汀州は息一つ乱していない。余裕綽々といった様子で、真島を見下ろしながらゆっくりと、弾き飛ばされた銃を拾いに背を向けずに歩く。
 真島は走り出す。王汀州が銃を拾うよりも早く、胸倉を掴むと頭突きする。

 「お前に、関係ないやろ!」

 二度目の頭突きで王汀州の表情が歪んだ。おそらくこの男の苦痛の表情など生きていてお目にかかれることはない。
 それでもなお昏倒には至らず、業を煮やした真島は王汀州の脚を持ち上げると腕と脇の力でへし折った。さすがに呻き声をあげ、次は手をと思い掴み上げる。


 「きゃあ」と女の声が橋の下からした。はっとして真島は鉄骨で組まれた橋の外側へと身を乗り出す。
 暗闇と海の暗いその中を橋の側面に沿って何かが動いている。それが人の形をしていて、風をうけて揺らめくものが髪の毛であることを捉えた。


 「涼……」

 涼は「ひっ」と悲鳴をあげた。
 橋の下は歩行者用の遊歩道がある。そこへ飛び移ろうとしているようだった。真島は鉄骨の上へと飛び移った。側面に張り付いて落ちないように歩を進めると、ハタハタと彼女の着ている服のはためく音が聞こえた。すぐそこに、涼がいる。

 「涼、こっちや。手え、伸ばせ!」
 「っ……いや、……いや、……こないで」
 「そないなこと、いま言うてる場合やないやろ……!」

 真島がにじり寄ると、少しずつ涼は奥へと進むのだ。彼女は嗚咽をもらし泣いていた。しかし、ここで止まることは、許されない。
 保護をしなくてはならない。彼女を救い、陽の光のもとへ連れ出す。

 指先を彷徨わせ、鉄の肌ではなく、彼女が掴まっている指先に僅かに触れる。彼女の右手。十一年前、真島に追い縋ってそれを振りほどいた右手を今、求めている。手の甲に触れる。肌は冷たくカサついて、震えている。涙声混じりに吐かれる息は白く、すぐにその場で溶けて消えていく。

 「涼……」

 もう少しだから、もう逃げないでほしい。
 真島が一歩、進む。

 「小猫、去死吧!!」

 銃声が鳴り響く。一発、二発。跳弾が鉄骨に振動を与える。
 身を乗り出した王汀州が、二人を狙って撃っている。真島は思い切って身を被せて守ろうとした。
 だが、三発目が涼の髪を掠め、鉄に掴まっていた右手が離れ、僅かな悲鳴とともに真っ逆さまに海へと落ちていく。


 「涼ッ……!」


 真島は追いかけるように、飛び降りる。


 海面から約52m、『ムーンスターブリッジ』の上から、ふたりは一緒に墜落する。

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List午前四時の異邦人