十一章『あなたは星のよう』C



 涼は、あの事故の夜にも、こんな綺麗な星空が瞬いていたことを思い出していた。轟音とともに、海水へ沈み込んだ巨大な舟は浸水し、涼が薄い意識を取り戻す頃には、腰まで水が浸かっていた。
 兄が涼を抱えて開け放たれたドアまで、死体をかき分けて歩く姿、顔が、表情が、鮮明に蘇る。

 『涼、死ぬな』

 お兄ちゃん……。

 『死んでくれるな、ぜったい、ぜったいに、死ぬな』

 生に希薄で、生きることに情熱を持てない自分を、必死に助けようとしてくれている彼の表情を、今もう一度見ている。


 (真島、吾朗……)

 思えば彼とは、度々出会った。
 彼はいつも誰かと一緒にいて、必要とされている人で、それが自分にはなくて、憧れた。
 走馬灯のように駆け巡る彼の顔が、どうしてだろう、どうしても、どうしようもなく、さいしょに好きになったあの少年に似ているのだ。

 彼がおちてくる。それは流れ星のように美しく、輝くスターがおちて、いっしょに、おちていってくれる。
 おそろしい人なのに、ひどく嬉しいとおもう。
 神さまは、さいごに贈りものをくださった。


 「死ぬなや……!」

 彼の力強い腕の抱擁と、腹の底から響く声をききながら瞼をとじた。


 




 落下途中に追いついた真島は涼の頭を打たないよう離れないよう、全身で抱き込んだ。
 海面接触を減らすため垂直にふたりの体は黒い海へ消える。
 盛大な飛沫と共に波がうねり上がり、埠頭の岸には白波が幾重にも重なり押し寄せた。

 涼を抱えて水面に出る。

 「はぁ! ……涼、……涼っ」
 
 新鮮な空気が肺へと広がる。
 彼女を抱き上げて海の上へと顔を出すが、首が反って頭が重く人形のように力なく、だらんとしている。

 (あかん、……体が)

 体はひどく冷たくなっている。冬の南側からの海風を受け続け、夏の夜の海よりも、ずっと冷たい海水に浸かっていからだ。はやく海を出なければならない。

 波をかき分けて、岸まで真島は泳いだ。橋の上側では消防車が到着し、消火活動が始まっている。救急車とパトカーの赤いランプが、濃紺の空を照らしていた。あの王汀州が気がかりであるが、今はそれどころではない。改めて気を引き締め直すと、岸の上に這い出た。

 風がびゅうびゅうと音をたてている。
 涼を固められたアスファルトのへと寝かせ、胸元に耳を近づけると、無音がそこにある。息をしていなかった。


 「悪いけど、触るで」

 蘇生に移るべく、厚いパーカーの首元を緩めると、服と冷えた素肌の間に手を差し込んだ。胸の真上から胸骨圧迫をする。そのテンポは一分間に百回とされており、胸部が五センチ沈むほどの力を与え続けなければならない。

 顎を上げて、鼻をつまみ、息が漏れないように口をつけ空気を送り込む。胸が膨らみ、送り出した息が戻ってくる。気道確保が上手くいっているためもう一度空気を送り込む。――それを繰り返し、繰り返しひたすら続けた。
 
 人を殴ってばかりいる真島が、命を救おうと躍起になっている。彼女の息が吹き返すことを切望しながら、シニカルに自分を見下ろす冷静な自分自身の言葉が響いた。そうして、ある一つの結論にたどり着く。

 人生を通して、彼女ほど特別をもたらす者はいないだろう――ということだった。


 心肺蘇生を行い二セットを終えた頃、肺に溜まっていた水が吹き出た。荒い咳と共にえずく涼の傍らで、疲れた真島はアスファルトに腰をつけた。疲労感が一気に押し寄せ、冬の空を見上げようとした時だった。


 「親父……」

 息をつく暇さえ与えられないようだ。嶋野が二人を見つけて、近づいてきた。
 真島はゆっくりと体を起こし、涼を庇うように立ちふさがった。

 「真島、そいつを寄越せや」

 想定の範囲内の台詞だった。涼の価値は嶋野組の金の価値だ。この男には彼女が一人の女でも、傷病人でも、組織の被害者でもなく、札束に見えるだろう。真島はとっくに腹を決めていた。

 「この女は……『真島組』に預からせてもらいますわ、親父」
 「———オドレ、それがどないな意味か、わかって言うてるんやろなあ?」
 「『王吟』なんてやつはこの世のどこにも、おらんのや。……この女は十一年前の事故で行方不明になっとった、カタギのガキや。でもただのカタギとはちゃう。どんな罪状もつかへん。親父のやろうとしとるんは、カタギを売る…『人身売買』になるで!」
 「真島、いつからそないな口の利き方覚えたんやァ……躾が足りひんみたいや、なあ?」

 好色な笑みが差し向けられる。いやらしく、体をじゅうを弄るように這う視線は、屈辱的な過去の記憶を連れてくる。
 真島は負けてはならなかった。

 「組持たせる言うたんは、親父からや…!」
 「ド阿呆!!」

 嶋野の血管が切れそうなほどの怒号が飛ぶ。今にもその上等なスーツを脱ぎ捨て、殴りかかってきそうなほどの凶暴な男を前に、毅然と立ち向かった。
 真島は屈することなく、『決別』を込めて鋭く睨めつけた。嶋野の背後には救急車とパトカーが到着し、中からストレッチャーを引き出してくる救急隊員が出てきた。
 
 「通報を受けました。確認させていただきます」
 「ああ」

 救急救命士に引き継ぎ、ストレッチャーに涼が載せられる。
 真島は気を緩めぬよう声を張った。

 「親父は尊敬してますわ。せやけど、……俺には俺のやり方がある」
 「真島ァ……!」

 拳がぎゅっと鳴る。いよいよかと覚悟したところに、パトカーの中から出てきた警察官が「真島さん……、ですね?」と控えめな声がかかった。
 嶋野は怒りに身を震わせながら、ジロリと真島をみた。

 「通報を受けました。確認させていただきます。——認定死亡届のある行方不明者を発見及び保護……で間違いないですね?」
 「ああ、せや。……その話は…病院でしようや。この娘、さっきまで息止まっとったんやで」
 「わかりました」
 「あと……その娘、狙われとったんや。そいつ運が良ければまだ橋の上におる。銃のタマが何発か残っとるさかい……、はよ捕まえたってくれ」

 警察官は無線で連絡を入れる。
 ストレッチャーで運び出される涼についていく真島に、嶋野は低く唸った。

 「なにポリ公の真似事してるんや。腐っても、ヤクザもんの極道。まっとうに生きられへんお前はこっち側やで、真島ァ」
 「………」
 「首洗って待っときや」

 嶋野の脇を通り過ぎる。
 もはや言うべきことはなかった。中学を卒業し組へ入り、若衆として武闘派の嶋野に憧れていた頃、『穴倉』へ入り出たあと、極道へ復帰した頃。どれも真島吾朗だったが齢を二十八年数えて、あの頃と同じような真島吾朗ではいられなくなったのである。

 今も力に魅了され続けて、力を捨てることはできない。しかし自身に夢を見させた者が結局金を求め、人の不幸をさも当たり前のものとし、持つ力を適切に使わなくなったとき、それは極道とは呼べないのである。

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List午前四時の異邦人