終章『神のおくりもの』@

 終章 『神の贈りもの』


 1992年 12月



 あの夜の逃走劇は報道管制が敷かれた。

 『ムーンスターブリッジ衝突炎上事故』という文字がしばらく新聞の一面を飾っていた。


 世間向けに発表されているのは、11月27日(金曜日)の夜、東京都港区芝浦地区と台場地区を結ぶ建設途中の橋梁、『ムーンスターブリッジ』の芝浦側の入り口にて二台の乗用車による追突事故が起こったこと、追突された側はタクシーで運転手は意識があり命に別状はない。追突した側はハイヤーで運転手と同乗者は即死とされている。度々起きた銃声は日本の暴力団による抗争事件が一部起こったとでっちあげ、視線をそらせているものの鎮火にはもう少し時間を要する。


 大陸マフィアが十一年前の飛行機事故の行方不明者を追っていたことなどが明るみに出れば、国際問題に発展すると考えられたためである。
 『拉致』され、犯罪を強要・教唆、この国では強要罪にあたる。被害者の体にはすでに複数の暴行を受けた痕跡があるため、被害者の意識が回復し次第に行われる聴取の立証にて認められるだろう。

 被害者は拉致帰国者扱いになるためその後の生活は保証され、日本国籍の取得、教育機会の確保や或いは職業あっせん、精神的なケアなどが行われる。
 どの程度の支援が必要になるかは当人と家族の要望によって異なる。


 東都大病院の病棟の待合室で新聞の二面の片隅に追いやられた『ムーンスターブリッジ衝突炎上事故』の記事を眺めながら、深く椅子に腰かけた真島はひとり長い溜息をついた。もうあと数か月も経てば、新聞からも消える。そのあと時々週刊誌に持ち上がったりするだけで、事故自体は世間から忘れ去られるだろう。おかしなメディアが野暮に追いかけたりしないことを祈るばかりだ。

 警察側は現在、王汀州の身柄を拘束しているが、日本が用意した檻など簡単に突き破ってしまえるだろう。彼らは歴史をさかのぼること青幇系のマフィア『藍華連』の人間で、かつては上海を支配しアヘンを売りさばくことで潤沢な資金を得ていたルーツを持つだけあって、金には困っていない。
 王汀州が『拷問』を享楽的に捉えていたのは頷ける気がした。

 事情聴取には時間がかかっているようで、流ちょうに話せていた日本語はおろか中国語でもほとんど話さないのだという。ハイヤーを運転し、現在逃走中の仲間が助けに来るまでの時間稼ぎのつもりだろうが、警察は手を焼いているようだ。


 
 (難儀やな……)

 がさりと新聞を畳んで机の上に置く。窓から見える景色は、まだ昼間だというのに薄暗く葉が落ち切った寂しい裸の木が並んでいるものでつまらない。
 嶋野組は警察のガサ入れがあり、しばらくはあの嶋野も何も言ってこない。飛んでくるはずの拳も飛んでこず、事件に係る『韓来』などの補償金などはすでに持っていたシノギの金で間に合わせた。さすがに橋の被害については別の拠出金だが回りまわって結局、組から出す可能性もあるがそこはまたなんとかなるだろう。

 真島のため息の原因はそれではない。

 拉致被害者となっている、荒川涼が事件後から昏睡状態にあるのだ。
 彼女が目覚めないことには事態は進展しない。だからこうして、毎日のように顔を見に病院を訪れているわけだが、警察の監視もおまけについてくる。
 つい先日には行方不明者支援団体と名乗るNPO法人団体がやってくるなり、名刺まで渡して『あなたがいることで今後、彼女が生きていく妨げになる』と、要約するとそんなことを言っていた男の名前は、神岡幸太郎というその団体の代表者だった。


 『なんやねん、こいつ……』と思うだけに留めた自分自身を褒めたい。
 涼を発見したのも、涼を助けたのも、通報したのもすべて真島の功績なのだが外野には『暴力団が金目当てにやったこと』と認識されているのだろう。さすがにそれを見かねた彼女の祖母が『真島さんは涼ちゃんの命の恩人なのだから』と庇ってくれた。
 

 「あらあら、真島さん今日もお元気?」
 「おう、ばあちゃん元気やで。荷物、持ったるわ」
 「ありがとう」

 待合室で祖母と待ち合わせをしてから彼女の病室へ行く。これは入室するために必要な手順だった。真島単独では面会謝絶扱いになってしまうため、ここでも祖母が『私が一緒のときはいいでしょう』ととりなしてくれたのであった。病室は個室で部屋の前には警察官が見張っている。刃物の持ち込みがないかボディチェックを必ず受けてから入室するのが通例となっていた。
 

 「涼ちゃん、おはよう」

 祖母は病室に来るとそう呼びかける。無機質な色の四角い壁に囲まれ、今日にいたっては外の自然光が暗く、白い涼の頬をさらに白くみせている。
 点滴のチューブが右腕に繋がれ、心電図モニタの波形は穏やかに波打ち、酸素マスクは一定の間隔に白く曇り、……彼女はしずかに眠っている。
 医師らでも意識の世界をどうこうすることはできない。回復は患者本人の体次第であると祖母に説明した。

 真島はパイプ椅子を二つ広げると、そのうちの一つに腰かけた。輸液容器のパックから点滴筒へぽたりぽたりと滴り落ちる水を数えるのにも飽きて、涼の顔を眺める。傍らに座る祖母が、持ってきた荷物の中からバスケットボールよりも少し大きい、やや色あせたぬいぐるみを取り出した。


 「なんやそれ」
 「これはね、涼ちゃんがお気に入りで抱いてたぬいぐるみ」
 「ああ……」

 祖母の家で見た、アルバムの中にソファでぬいぐるみを抱いたまま眠る涼の写真があった。その当時よりもぬいぐるみはくたびれているが、寂しい枕元に彩りを添えた。涼とぬいぐるみ。そのふたつの愛らしさに思わず頬が緩み、乾いた心にそっと潤いを与えてくれる。


 「幼稚園に入って、はじめてのクリスマスのプレゼントだったのよ。よほど嬉しかったのか家じゅう走り回ってね。……廊下の曲がり角でお兄ちゃんに頭ぶつけて、たんこぶ作って」
 「……お転婆やのぅ」


 きっと涼の地の性格は明るい。けれど人は生きているうちに、少しずつ変わらずにはいられないことを真島は知っている。だから祖母のする昔話の涼と違っても、かまわないと思う。
 

 「クリスマスで思い出したけれど、もう師走も終わりね……。真島さんも、ご家族がいらっしゃるだろうし、これから年の瀬で忙しいでしょうから無理にいらっしゃらなくてもいいのよ?」
 「ええのや、好きで来とるようなもんやし。……それに、家族はおらん」
 「あらま。失礼なこと聞いちゃったわね、ごめんなさいね」


 「いや」と頭を横に振る。
 祖母の方をみると、しんみりと切なげな顔をしているので、何か言わなければと真島が口を開きかけたところで、唐突に「ふふっ」と笑った。
 「どうしたんや」と声をかけると、その顔をみた祖母が笑いを堪えきれずにまた「ごめんなさいね」と謝った。まったく嫌な気持ちにはならないが、自己完結で楽しまれているのは消化不良を引き起こす。ひとしきり笑い、落ち着きを取り戻した祖母がようやく口を開いた。


 「ほんとうに、そっくりなの。真島さん」
 「はあ……?」
 「亡くなった夫にそっくり」
 「旦那て、あの……、元極道っちゅう……映画俳優のやろ? せやけど、あれは作りもんの世界やで」


 ヤクザ映画はある事ない事、ご都合主義に描かれている。どのような描かれ方をしているかを見る楽しみは本職のヤクザにはあるがそれだけだ。
 顔が似ているのなら、騒いでも仕方がないとは思うが。

 「ちがうの。……俳優になる前は、ほんとにヤクザ屋さんしてたんですもの」
 「ほ、ほんまか……?」
 「ふふ。……戦争にいって帰ってきて、まともにお仕事に就けなくて。あたしと生まれたての赤ん坊を養わなきゃいけないし、そこでなんでもいいからってそういうお仕事してたの」


 祖父は帰国し復員除隊となり、定職にありつけずとりあえず露店商をはじめたところ、その地域を根城にする組に見つかって騒動になり喧嘩で勝ったそうだ。
 そこから組へ入らないかと誘われ入った。しばらく色んな仕事をやった。ある時大道具の仕事を依頼され、撮影所に仕事をしにいったところ、そこで見た芝居に感銘を受け俳優を志したそうだ。
 
 「だからね、まともな役と親分の役をしてるとき、左手は見えないのよ」
 「……まさか」
 「そうそ。指ないの。小指の先ね、探してみてみて。あたしびっくりしちゃったもの。お家帰ってきたら、玄関が血まみれだし、そこで手ぬぐい巻いてじっとしてたもんで。『病院行きなさいよ!』って怒鳴っちゃったの覚えてるわ」
 「……」

 その元旦那と真島の両者の似ている点がおそらくヤクザである以外になさそうなのだが。そう考えていると、祖母は「一生懸命で、誰かを守ったり助けたりして、放っておけない人だったの」と感慨深げに言った。それはたしかに、少し似ている気がする。
 ……祖父は元から『極道』だったのだ。その強さはおそらく、涼にも受け継がれているはずだ。
 
 眠り続ける彼女の右手をそっと握った。
 




 12月24日



 聖なるクリスマスを前日に控えたプレ・クリスマスデー。真島は神室町にいた。

 世間はムードが出来上がっているが、先月の事件のせいもあって東城会及び、嶋野組内はピリついており例年なら仕事納めの時期に開かれる幹部会をこの日に持ってきていた。嶋野は出払っているため組の事務所内はまだ落ち着いているものの、真島が嶋野に楯突き『真島組』を立ち上げるという話で、『破門』にされてもおかしくないという話や、『嶋野組』そのものから足を洗おうかとこぼす組員がいるらしく、渦中の人である真島はその中に顔を出すに出せない状況となっていた。

 (……アホらし)

 ヤクザ社会はしょせん人間社会。一般社会にある派閥が同じ会派にもあり組内にもある。政治家とて同じことをしている。そのややこしさや難しさから自分も逃れられない。だが真島には渡世の兄弟のお勤めを待ち、彼の生きていく場所を作らねばならないし、彼女の今後の生活を保護するにはやはり警察だけでは頼りないため必要になる世界だった。嶋野が戻ってき次第が大勝負だろう。縦社会ゆえに、親の決定は従わねばならない。もし『破門』宣言を出されても、泥水を啜って這ってでも生きていく覚悟はすでにできている。

 『穴倉』にいた頃を思えばずっとマシだ。

 嶋野が戻るまで、煙草をふかしながら事務所の前で待っていた。
 目の前の道を通る人影はまばらだが、恋人同士が多かった。「プレゼントなににする?」と男が女に振っている。女は「別にいいよー」と言いながらもまんざらでもない様子で、欲しいものをねだっている。


 (……欲しいもの、か)

 今の真島に欲しいものは、ものではない。
 彼女が目覚める事だけを、そればかりを願っている。
 寝ても覚めても、彼女が目を覚ましてベッドから起き上がっている姿を想像するのだ。たとえ、あの夜のように拒まれようとも、生きていてくれたらそれでいい。
 できれば、この手で幸せにさせてくれたら、一番嬉しいのだが。それは願いすぎだとも、おもう。


 真島はこの年にして、金は人を豊かにし幸せにするが、金では買えないものの重さを知った。

 携帯灰皿に煙草を始末する。事務所前の道路に一台の黒い車が停まる。嶋野が帰ってきた。
 ドアが開き、その巨体が車体を揺らしながら出てくる。真島は姿勢を低くし頭を下げた。威圧的な男が真島をじいっと見下ろしフンと鼻を鳴らした。


 「出迎えは上々やな」
 「お帰りなさい、親父」
 「尻尾を振る先、間違うたらアカンで。聞いたわ、入れ込んどる女がおるんやて…?」


 真島は答えなかった。
 嶋野にしてみれば、その女は金づるだ。今後もおそらく政治材料になる事を見込んでいるからなのか、真島の病院通いについて咎めたことはない。結局、利が嶋野自身に向くために許されているだけであって、彼女自体の評価は『自分の組の子どもを誑かす女』なのだろう。王吟の際に面識があるため本当はどう思っているか真島にはわからない。 


 「……そいつと、結ばれよう、思うてへんな?」
 「……親父」
 「フン。そいつもお前を幸せにでけへんわ。……支援金引き抜く言うんなら、話は別やけどな」


 行方不明者が帰国し、社会生活を送るために受けられる必要な支援制度のなかに、支援金が存在する。彼女と結婚をするなら、そこから巻き上げろということらしい。それは男の風上にも置けぬ話だ。女の金で生活するヒモ男は実在するが、その性質が真島にはない。しかし堪えるほかなかった。もしも仮に、彼女とそうなる事があれば嶋野だけでなく様々な人間が色眼鏡で関係性を見るだろう。仕方のないことと割り切ってしまうほうが楽だ。


 「支援金貰わんでも、そいつの元々の家がエラいらしいやないか。……日系大手企業の、海外赴任任されとった息子は事故で死んどって、会社から葬祭料に慰労金、保険金。航空会社からは多額の賠償金もろとる。それ全部ばあさんが相続しとるそうや。オマケに死んだ旦那は銀幕のスターやで。一生食いっぱぐれへん、正真正銘のお金持ちや。旨い汁……吸わせてもろたら、どうや? エエ?」
 「……ッ」

 それは、あまりにも屈辱的だった。鏡を見ずとも悲痛な顔をしているだろう。
 どんな平手打ちよりも、骨が折れるよりも痛みを伴った、心の痛みだ。
 あの夜の不躾な真島の態度から、嶋野なりの仕返しのつもりで、それはよく効いた。

 「それをやるいう覚悟があるんやったら、『真島組』を認めたってもええ」

 嶋野は真島の肩に手を置いた。重い手だった。
 男の顔にはあの好色な笑みが浮かべられているはずだ。真島は心までは売らないつもりでも、言うしかなかった。

 「やらせて、もらいます」

 声が枯れていた。
 兄弟と彼女を守るために、自分の組が、『真島組』が必要なのだ。
 以前、嶋野からでた言葉のようだった。


 『ただのし上がりたいだけやったら、目先のことだけ考えとったらええ』

 『せやけど、てっぺん獲る気なんやったら、『勝ち方』を考えなアカン。三日天下やない、ホンマの天下の獲り方をなぁ』



 真島の勝利は、自身の欲望ではない。
 陳腐な女や金といった男の夢ではなく。
 幸せにしたい人のために、それが自分自身の幸福であるからこそ、望むものであった。 

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