聖なる夜へ切り替わろうとする頃、ジングルベルソングが眠らない街中に響き渡っている。
打って変わり静寂のなか、涼は目を醒ました。病室は薄暗く、あの穴倉のなかでずっと夢を見ていたのだろうと思うくらいには寂しい目覚めだった。窓の外は雪が降っていて、寒そうだとどこか遠くに思った。目が霞み、右手を持ち上げると点滴の管が刺さっている。
「あ…、ぁ」
生きている。
顔に触れようとすると酸素マスクのプラスチックの硬さが指作に触れる。
自分はまだ生きていて、生かされてしまったのだと気づいたとき、深い絶望が胸の奥底から湧き上がった。その夜の海のように深く黒い瞳が潤み、冷たい頬を熱く濡らす。この孤独な世界で死にきれず、この自分が一体何をもたらすのだろう。
「っ…う、うぅ……はぁ」
死を覚悟したそのときの自分を助けた彼の、必死になる姿を思い浮かべて、恐怖よりも憎らしく思った。彼にはわかるまい、彼には正義と思うことがどれだけ苦痛をもたらすのか。
自分が得難いものを彼にはあって、満たされている者が施す優しさが、どれだけの凶器であるか。
涼が目覚めたという連絡は日付が変わって一時間が経過した頃、祖母からかかってきた。
この真夜中で今から行くにも自分の身では大変だといい、真島だけでも行ってほしいが面会謝絶はもちろんのこと、家族ではないため門前払いされてしまうだろうとの事だった。翌朝に二人で行こうという、約束の電話となったが、真島は落ち着いていられなかった。
聖なる夜の贈りものに違いないと、彼は思った。
結局、一睡もできず朝になった。
厳密には明け方になり空が白み始めた頃、すこしの微睡みに身を委ねたがセットしたタイマーに起こされた。
(ねむた…)
歯を磨き、顔を洗い、水分を補給する。
そしてもう何度もリフレインした、『涼ちゃんが、起きたの』と受話器の向こうで、涙声に震える祖母の声音でぐんと血が体中にめぐる。
(涼……)
馴染んだ彼女の名前が胸に暖かくじわりと染み込んでいく。
人をこのように思い慕うことは生まれてはじめてのことかもしれない。
午前十一時半。手土産を持った真島は祖母と待合室で合流し病室へ赴く。
病室の前には数名の主治医と看護師、警察関係者、そして支援団体の代表者が熱心に話し込んでいる。祖母が訪れたことを確認するとみな頭を下げた。
昨夜の十二時過ぎの深夜巡回の際に目覚めていることを確認したこと、脳波測定と精密検査を先ほど終わらせたこと、会話は可能だが記憶に一部乱れがあるためあまり刺激しないようにと説明される。
一通りの説明が終わったとき、支援団体代表の神岡が真島に向けて「病室へは入らないでください」と注意した。
祖母から、神岡は中学の頃に涼と仲の良かった男子だったという事情を聞いていた。その彼がこの仕事に就いたという事は、彼女との出会いが彼の人生を変え、またそれは少年の心に淡い春をもたらしたのだろう。
「なんもせえへん」
「あなたは、部外者です。……いくら助けたからといって、これ以上の立ち入りは許されない」
神岡は遊びっ気のない、真面目な青年だった。みるからに優しそうで、十一年前の真島なら彼女にふさわしい『優男』だと思っただろう。
彼女を幸せにするなら、ふつうはこういう男がお似合いだと思う。彼女が、『普通の被害者』であれば迷わず身を引いた。金輪際この世界へ踏み込ませないために、潔く諦めただろう。
「……ヤクザが、怖いか?」
「!…っ、それは」
「それが普通や。……けど、あんたにあの子の涙、飲み干せるんか?」
「えっ」
青年は目を見開き、真島をみた。
戸惑いと、少しの不安。けれど彼女への思慕は残っている。人生を賭けて彼なりに、探してきただろう。
その年月を比較すれば、真島は浅い。
「……あなたも、涼さんが…」
真島にも自分と同じ気持ちを持つ者と悟ったのだろう。神岡は少し考えて「わかりました」と頷いた。
「……決めるのは、涼さんです」
「…お前は、ええ男やで」
胸が痛むほどの相手だ。彼の肩に軽く触れる。青年は病室への道を開けた。
真島は警察のチェックを受け、病室へ入る。ドアは閉じられ、この病室には三人だけだ。先に入った祖母がいつものように、『おはよう、涼ちゃん』と声をかけた。
手前のカーテン越しに真島はしばらく出るのをためらった。青年へああは言ったものの、自分の存在自体が彼女を刺激する可能性は大いにある。
『おばあちゃん』と彼女の和らいだ声音が聞こえて、心が高鳴った。
しばらくして、すすり泣く声が静寂の中に響き渡り、真島は壁に凭れかかって待つことにした。
落ち着いたころ、祖母が涼に少し説明をしてから真島を呼んだ。
カーテンを避けてゆっくりと涼の前へと出る。
彼女は枕を背もたれにして、ぬいぐるみを抱いて座っていた。
何度も想像をした景色がそこにある。黒絹のようにしなやかな髪が肩にかかって、血色はこの間よりもよい。目元は今しがたの涙でほんのり赤みを帯びているも、その黒蝶真珠のような二つ瞳は落ち着いて真島を見据えていた。
「…真島、吾朗」
詩をそらんじるように。一音一音、確かめるように呟かれた自身の名前に、少しずつ実感を得ていく。
荒川涼として再会したのは、まさに飛行機事故以来はじめてとなる。
手に持っていた袋から黄色い果実をとりだす。
「おはよう、涼ちゃん。――バナナ買うてきたで」
自分は、上手に笑えているだろうか。
彼女の表情に憎しみと驚きとを宿し、それから何かを諦め、納得したかのような……おだやかなものへと移り変わる。他人には計り知れない、ふたりだけにしかわからない、奇妙で、いとおしい関係がここにある。
窓の外には雪が降り積もっている。しんしんと。これからも。
ふたりは、いま、はじまったばかり。
1992年 12月25日
『蠅の王と穴倉』 完