第一章 彼の残り香@




 第一章 『彼の残り香』


 潮の香りがする。
 足裏にはやわらかい砂の感触。穏やかな潮の満ち引き。目の前に行ったり来たりするものが黒い海だとわかると、『あの島』にいると理解する。
 『あの島』はすべての始まりだった。

 ふと空を見上げると、そこも均一にペンキで塗りつぶしたかのように暗く、いずれ自分の上に降ってきて押しつぶしてしまうのではないかと思えるほど、重い闇をしている。
 体はひとりでに立ち上がる。八角形の格子柄が複雑にまじりあった模様の、性差を覆い隠すように仕立てられた男物の布の面積の大きい服を纏っている。髪は短く切られ、首から上、手と足以外の肌の露出はなく一見すると少年にも見間違えるだろう。『彼』はしずかな砂浜を歩いて、そこの端から入り込んだ密林の奥にある白い建物へとふらりふらりと行く。

 『おう、おかえり、小猫』

 『小猫』と帰宅した『彼』をそう呼ぶ男は黒光りする銃の手入れをしていた。建物の奥の小さな部屋で『彼』は寝泊まりをし、彼らに『日本語』を教えていた。兄の王汀州(オウ・テイシュウ)の上達速度ははやく、発話ではほとんど問題ない精度を誇っていた。一方、弟の王泰然(オウ・タイラン)は耳から覚えるのが苦手らしく、代わりに書き物のほうが兄よりも上手であった。彼ら兄弟は『彼』を『保護』した。

 『十日後、島を出る』
 『どこへ、いくの?』
 『俺たちの、アジト』
 『でも…』

 この島へきて半月が経過した。いつも使うノートの紙の端に書いた『正』が三個を超えていた。
 『彼』がまごまごとしだすと、廊下を通じて獣のような唸り声が伝わった。『彼』はその音が嫌いだった。その音をきくと恐ろしくなるのだ。兄はそっと『彼』の耳をふさいだ。そうして、『様子をみてくる』といって部屋をでていく。寡黙な弟のほうが肩をとんとんと叩いて『彼』を椅子に座らせた。革張りの猫脚のソファに腰を下ろして、しばらくしていると弟がお茶を淹れてくれる。中国茶だという。
 『彼』はいつもどおりにそれに口をつける。気分が自然と楽になり、恐怖を忘れていく。
 赤いロウソクの上で火が揺られている。

 『王吟』

 そう呼ばれると、瞼が持ち上がる。
 部屋の入口にたつ王汀州。その黒衣は目立たないが血を吸って変色している。立ち込める生臭いにおいに『彼』は眉根を寄せる。王汀州の右手にまで垂れ下がった血液は獣のものだった。
 険しい顔つきで王泰然に中国語で命令する。本棚の裏に隠されていた額縁に収められている羊皮紙を取り出すと、それを広い机の上にひろげた。濃墨で書かれた漢字たちはどうも人名だった。人名のうしろには茶色い拇印がついている。中心に『藍華蓮』と並び、その隣に藍色の龍と蓮の紋様が描かれて、すべての人名がその『藍華蓮』を取り囲むように並んでいる。

 王泰然が墨を用意し筆を『王吟』の手に持たせる。
 羊皮紙の空いたスペースを指で叩いて、『書け』と無言の指示をだした。鋭く尖った四つの視線が少年を包む。
 赤いロウソクの上で踊っていた火はとっくに消えていた。




  ◇ ◇ ◇


 雪のあとはみぞれになり、雨に変わった。
 冬の銀色の光と殺風景な黒い線の木が窓越しに広がる。特別個室病棟でも景色のグレードアップはない。

 外傷もなく、脳波も異常なし。本来であれば退院はとっくに可能のはずだが荒川涼にはできなかった。1992年11月27日に起こった『ムーンスターブリッジ衝突炎上事故』の被害者及び、1981年7月7日の夜中に起こった『日の丸航機HM774便着水事故』にて行方不明者として扱われていた。この二件の『事故』の最重要参考人である。前者の事故は『事故』として処理されたが、実際は中国系マフィアが絡んだ国際問題に発展しかねない緊張感の高い事件であるために日本国内では報道管制が敷かれている。

 警視庁は被害者である荒川涼の事故後の昏睡状態から意識の回復を待ち事情聴取の機会を得ようとしていた。事件から一ヶ月を迎えようとした同年12月25日、彼女は昏睡状態から回復。さらに半月が経過し1993年へと変わった。


 1993年 1月


 東都大病院、特別個室。

 意識回復後、個室から特別個室へと移った涼は退屈で暇を持て余していた。
 最初の数日こそホテルのようなラグジュアリー感あふれるちょっと贅沢気分を味わったが、部屋から出られない不自由さから天井の花模様の数を数えだす始末である。部屋に設えられているテレビは映らない。一度看護師に尋ねたら『ごめんなさい、先生から止められているんです』と断られた。どうやら涼が情報を得ることを禁じているようだった。それはテレビに十一月の『事故』の報道が流れて心理的負荷をかけないようにするという配慮だと受け取った。事実上、涼は隔離されていた。

 涼が唯一楽しみにできるのは食事くらいなものだが、胃袋が小さいせいか出される病人食も半分食べられればいい方である。あとは祖母が持ってきた、昔クリスマスに貰ったプレゼントのぬいぐるみを抱いてうつらうつらと船をこぐ。退屈で怠惰な病院生活を送っていた。その退屈を紛らわせるかのように、彼がやってくる。そう、今日ももうすぐ来るだろう。

 病室の前は特別個室のルームだけあって応接室がある。応接室のさらに外が病棟の廊下へ出る構造となっているが、涼ひとりでは出られない。その応接室前に一人警官が警護にあたっており、彼が来ると二、三言話を交わすのか、にわかに騒がしくなるのだ。彼は今日も祖母を伴ってやってきた。

 「おはよう、涼ちゃん」

 十二月二十五日、涼が目覚めて最初にやってきたときと同じように、彼は挨拶した。
 背が高く引き締まった肉体の上に蛇柄のジャケットを羽織り、切り揃えられた黒髪と端正な顔立ちの中、左眼を眼帯で覆っている。『嶋野の狂犬』と呼ばれ、その界隈で知らぬ者はいない有名人である。あの『ムーンスターブリッジ』の事件で涼は彼に助けられたのだ。神を信じていた女には『死』を贈りものにくださったのだと思っていたが、残念なことに生きていた。そのせいで少なからず、憎しみを抱いていたが彼がある『証明』してしまったことで涼の心中はより複雑になってしまった。二十五日に彼は、手土産としてバナナを持ってきた。病人見舞いの果実、聖夜のプレゼント、見る人それぞれそう解釈するだろう。
 二人の間ではそれは決定的な『証明』だった。

 バナナは事故直前に彼が、彼女へ与えた果物だったのである。
 彼女にとって彼は再会を願っていた初恋の人であり、幾重にも再会を果たしていた相手であった。
 関東最大の暴力団組織、東城会会派の嶋野組に属する、本職のヤクザ者。――真島吾朗、涼の命を救った男。それが彼の名前だった。

 「お昼、食うたか?」
 「………ええ」
 「ここの病院食まあまあな味やろ」

 真島の声は明るく、涼がしゃべらなくても数倍の量を話すので楽なところがあった。祖母が涼の着替えを売店で買ってきてくれたのでそれをクローゼットの中へ収納する。真島は病室に備え付けられている椅子に祖母を座らせて「パイプ椅子よりかずっとええなぁ」などと調子よく喋っている。「そうねえ」と相づちをうつ祖母のほうがすっかり真島と打ち解けあっていて、ちょっとした疎外感を覚えないわけでもない。

 そんな元気な真島をちらりと盗み見ていると気づいたことがあった。

 (前、閉めてる……)

 ヘビ柄のジャケットの下は刺青が彫られていて黒と赤の華やかな色をしていた気がする。事件前に神室町で働いていた焼肉屋『韓来』でお客様として訪れた際には紋々を隠していなかった。ジャケットの隙間からは花の柄が覗いていた。あれはたしか、椿だった。椿ともうひとつ描かれているものがあったが忘れてしまった。『穴倉』でも彼のを見たことがあるが、暗がりであったことと、あの世界を思い出すと嫌な思い出が芋づる式に出てきてしまうので思い出したくなかった。

 「涼ちゃん、三時になったらケーキ食おうや」
 「えっ」
 「『えっ』てなんやねん。美味いて評判の店のやつ買うてきたんやで」

 三時といわれ、時計をみるとあともう少しだった。
 奥の簡易キッチンの隣にある冷蔵庫にケーキの入った箱を入れて戻ってきた真島が「せや」と手を叩いた。

 「ナイフ無いわ。ばあちゃん、ちょっと行ってくるで」
 「ふふ、いってらっしゃい」
 「……」

 どうも単体かつ種類豊富に買ってきたわけではないらしく、ワンホールタイプなのだろう。
 三人で食べ切れるだろうか、と不安になっていると真島がクローゼットの前でぼんやりとしている涼に近づいてきた。近くに立つと余計に体を大きく感じる。細身とはいっても、女の体からすれば立派に男の体をしているので真島が目の前に立つと壁になる。とくに肩幅と背中が広いので涼の目線では背伸びをすれば向こうっかわが見渡せるといった具合だった。

 「涼ちゃんは、ばあちゃんと話でもして待っといてくれや」
 「えと……はい」

 彼には慣れていないためどうしてもぎこちなくなる。それを真島が気づいていないはずがないのだが、彼はおくびにも態度に出さず、むしろ気配が優しい。事件前、真島は『ラン』という偽名の涼を探していた。それが嶋野組総出で捜索するという大事になり、原因が『穴倉』にいた頃の『王吟』を恨んでいるからだと思っていた。薄々と彼の態度がそうではないと思わせるところがある。けれど、どうして真島が自分を追いかけてきて、さらに優しくするのか涼には理解できなかった。

 真島が病室を出ていく背を見送り、祖母の座る真正面の椅子に腰を落ち着かせる。
 祖母は涼をみると「ふふ」と柔らかく笑った。「なあに?」と尋ねると、「なんでもないわ」と言う。祖母には秘密主義なところがあって、笑いだしてもなかなか教えてくれず、自分だけで楽しんでいる節がある。

 「おばあちゃん、真島さんと仲いいね…?」
 「なあに、ヤキモチやいてるの?」

 ペットボトルのお茶を飲みながら祖母はからかうように言った。ヤキモチというのはよくわからない。
 涼が目を覚ます前に会う機会があっただろうから、仲良くなったのだろうという想像はできるが、彼がヤのつく自営業者であるのはド素人でもわかるはずだ。

 「そんなんじゃ…ないけど。……あの人、ヤクザな人だよ?」
 「涼ちゃんったら。助けていただいた人にそんなことを思ってるの?」

 普通なら感謝したほうがいいのだろう。涼は死にたかったからこそ、素直に喜べないのだ。けれど祖母が、涼が生きていることを一番喜んでいる姿を見るとやはり自分は不孝者だと思うし申し訳なくなる。だからせめて、祖母がこの世から旅立つその時までは大事に生きようと思う。

 付け加えて、「あたしは素敵な人だと思うわ」と祖母は言う。
 祖母は面食いだからそんなことが言えるのではないだろうか。そういえば、昔。中学生の最初の文化祭のときにやってきた祖母が他クラスの劇をみて『あの子、今は垢抜けないけど、将来はハンサムになるわ!』などと品評していたことがあった。祖父が華やかな世界の仕事をしていたため目が肥えているなぁ。くらいに思ったものである。
 
 (でも、真島さん。ヤクザしてなかったらたぶん芸能界にいそう、だし……?)

 謳って踊れるならば、アイドルだって可能だ。運動神経はいいだろうし歌も…と考えていると、ちょうどそこに鼻歌を歌いながら真島が帰ってきた。

 (歌も、上手だし…?)

 そのとき、祖母が堰を切ったように笑い出した。

 「あは、うふふ。涼ちゃんったら…!」
 「へ…?」
 「なんや、なんや。二人でおもろそうな話しとるやないか〜、混ぜてえや」

 涼にはまったく理解が追いつかない。祖母は笑い上戸だからだろうか。
 学校に通っていたときも、しばしばこういうことが起こった。涼自身はそれを『みんなの中で浮いているんだな』と思っていた。祖母はぷるぷると肩を震わせて笑っている。
 なんだか恥ずかしい。視線を彷徨わせ、真島のほうを見ると彼も少々様子がおかしい。堪えていたがしまいには「アカンわ」と言って笑い出す始末で、ついに涼は「なんでよう」と口を尖らせた。

 「涼ちゃん、考え事してるときね…お天気みたいにコロコロお顔が変わるんですもの」
 「そ、そう…?」

 そういうことはもっと早く言ってほしかったと思う。おそらく、嘘をついてもバレていたのだと思うとやるせない。
 祖母いわく、考えている最中に百面相をしているらしい。それはつまり単純でわかりやすいということだ。子供でもポーカーフェイスはできるのに表情を自制できないことが問題だった。もし吟だったら、上手くできたはずだ。されど、思う。彼に表情はあったのだろうか。

 「涼ちゃん」と真島が呼ぶ。今日持ってきた荷物の中から、そこそこ大きい袋を取り出して涼の前へと差し出した。

 「なんですか?」
 「開けてみ」

 言われるがまま袋の紐を解いて、すぼまった入り口を引き伸ばして中へ手を差し入れてみると、ふわふわと柔らかい起毛の感触がした。取り出してみると、小鳥をモチーフにしたぬいぐるみだった。それは祖母が持ってきた昔もらったクリスマスプレゼントのぬいぐるみに、色が違うだけでほとんどよく似ていた。

 「こ、これ…!」

 思わず真島を凝視する。彼は「ヒヒッ」と独特な笑い方をした。祖母が「見つかったのね!」と手を叩いて喜んだのをみて、祖母と真島を交互に見る。このぬいぐるみの鳥には兄弟がいるのだ。
 当時クリスマスプレゼントとして発売されていた際、二羽をセットにして買ってもらう商略があったのだろう。実際に涼へ買ってもらえたのは片方だけだった。はじめてのクリスマスプレゼントで喜んだ覚えがある。浮かれて、廊下で兄とばったりぶつかって泣いた記憶もある。ひどく、懐かしい。
 しかし、もう年は明けている。クリスマスはとっくに終わっている。

 「ありがとうございます…! でも、クリスマスはもう終わって…」
 「なんや、気づいてへんみたいやのぅ」
 「あらあら」

 ふたりは面白そうにしているがちっともわからない。
 
 (快気祝い…? でも快気祝いって完治した人を祝うことなんじゃ…? 病気じゃないし…)

 悶々と考えていると知らずしらずのうちにまた百面相が始まっていたのか、真島が唇をきゅっと噛んだ。笑いをこらえているのがわかって、涼はくるりと明後日の方向に体を向ける。そのとき病室のドアにノックが数回。「失礼します」という掛け声とともに看護師が入ってきた。今日の検診は終わったはずだと振り返ると、看護師はトレイに皿と銀食器類を載せていた。
 「持ってくるわ」といって真島は奥のほうにある冷蔵庫からケーキを持ってきた。そのときになってようやく涼は今日がなんの日だったかを思い出した。

 (……はずかしい…)

 椅子の上で足を揃えぬいぐるみを抱きかかえているのが精一杯であった。
 一月十日は、涼の誕生日だった。

 「先生、火ィ使うたらアカンのか?」
 「私は看護師です。……火はちょっと…、火気厳禁ですので」
 「しゃあないのう」

 ロウソクを立てたかったのだろう。真島はふうと残念そうにため息をつきながら、付属品のたくさんあるロウソクをケースに戻した。
 ちらりとぬいぐるみの隙間から盗み見ると、看護師が大粒のいちごの載ったワンホールケーキをナイフで切り分けていた。生クリームの甘い匂いが鼻をくすぐる。
 病院食は美味しいがケーキが出たことはない。少食だが甘いものならば食事よりも、もう少し食べられそうだ。

 (おいしそう…)

 涼がやや羨ましそうに見ていると、テーブルの脇で腰をかがめている真島と視線が合った。

 「涼ちゃん、いちご何個食べるん?」
 「……! えと…」
 「いっぱい載ったやつにしたさかい。十くらいにするか?」
 
 ケーキを選んだのは真島らしい。
 両手をぱっと開いて十をジェスチャーして、それから「今みっつ、あるわ」とすでに皿に盛られているケーキを指差した。まだトレーに残っている部分から取ろうとしているらしく。どうして彼は涼がいちごをたくさん食べるだろうと見越しているのかが理解できなかったが、祖母の顔をみるとやっぱり「うふふ」と笑っているので、真島に入れ知恵をしているのは祖母で正しいだろう。
 
 (なんだか、真島さんのほうが……私のこと、よくしってる気が…)

 なぜ、とか、どうして。など疑問符が浮かぶ。
 不快というよりは、やはり羞恥のほうが勝った。……そして、すこし嬉しいかもしれないなどと思うのだ。
 涼はちっとも、真島のことを知らないのにも関わらず。

 (だって、まだ……名前しか知らないもの)  

 涼が知るのは、『真島吾朗』という名前だけだ。その名前と、彼の肩書きと喧嘩が強いということだけで、本当にパーソナルな部分を知らない。そのパーソナルな世界を知るにはもう定員が満員なことも知っている。彼には二人の妻がいて一人の子供がいるのだ。ひとりめとは別れたと思うけれど、彼を知る人間がたくさんいるのだと思うと、どうしてだか鼻の奥がわさびを食べたときのようにツーンとするのだ。

 涼がうんともすんとも言わないため、真島は用意された銀食器類の中から小さめのフォークを摘むように持ち、トレーに残っているケーキの上から瑞々しく赤い苺を弾くように涼の小皿へひょいひょいと移し替えた。
 
 「ぬいぐるみは、あっち。置いてきいや。真っ白けにしてええならそれで構わへん」

 緩慢な動きで涼は椅子から降りる。ベッドの枕の上の方に昔もらったぬいぐるみの隣に並べると、本来そうあるべきだった二羽の鳥のぬいぐるみが完成した。実は元々あるほうのぬいぐるみに名前をつけてある。名前を『ピッピ』という。新しく揃った方は『ポッポ』にしようか、しかし『ポッポ』は全国展開しているコンビニの名前だから少し嫌だな、と考えながら元の椅子へと戻ると、白い紙コップに紅茶のティーバッグが入っていて、そこにいつの間に沸かせたのか熱いお湯がヤカンから注がれる。

 「それじゃあ、いただきましょうか」

 一通り準備が整い、祖母が号令をかける。涼はいよいよ食べられると思いフォークを手に持ったが「ちょい待ち」と真島に止められる。
 まだなにかあるのかと思っていると真島が咳払いをした。そして歌い出した。ハッピーバースデートゥーユーを。世界一歌われているであろう、幸せな日の歌だ。彼が歌うとくすりときてしまうはずなのに、そればかりはどうしても胸に沁みた。
 もう一生誰かに自分が生まれた日の祝福など、いただけないと思っていた。涼自身ですらその日が特別な日であることを忘れていた。彼女の激動の十一年が、特別な日をなんでもない普通の日に変えてしまったのだ。

 「ありがとう、ございます」

 真島が歌い終わり、一拍間をおいて涼は感謝の言葉を述べた。その声はわずかに震えていた。
 涙がこみ上げてきそうな気配に誤魔化そうとして顔をあげると真島とまた目が逢った。親愛の籠もったまなざし。ひとりの人として人間らしい情がコントラストのきいた黒い瞳に宿っている。刃物のような鋭さが失せたそのまろやかな視線に胸の奥が疼いた。その疼きは身に覚えがあって、『はじめて彼に会った日』の情景が蘇った。
 長くその目を見ているとせっかく我慢している涙が溢れてしまいそうで、手元のケーキへさっと視線を落とす。

 「食べよか」

 真島にやさしく声をかけられて、涼は左右の手のひらを合わせる。かすかに彼が笑ったような気がした。
 全員で合掌をして「いただきます」と声を揃える。こんなことも随分久しいように感じた。フォークでいちごをまず最初に取り掛かる。クリームのついたそれをパクリと一口。瑞々しく甘く酸っぱい。日本の苺は美味しい。そこへ生クリームのバニラエッセンスとラム酒の香りが追ってくる。「おいしい」という言葉が自然にでた。
 
 「ほんと! おいしい!」
 「ほんまや。評判はほんまやったんやのう」
 「どちらにあるのかしら、そのお店」
 「本店は埼玉方面にあるんや。二号店がそのうち神室町にでもできるいうとったわ」

 洋菓子といえばどちらかといえば真っ先に横浜を思い浮かべるしその優位性は確かであるので、埼玉ときいて祖母は「まあ」と感嘆を漏らした。「真島さんったらわざわざ埼玉まで…」と呟いたことで涼のパクパクといちごを頬張るスピードがわずかに遅くなった。わかりやすい態度に「遠慮せんで食べ」と促されるも事情を知ってそのとおりにできるわけはない。ぬいぐるみといい、このケーキといいこの気遣いの塊に傍若無人に振る舞えるだろうか。

 「ほれ、ほいっ」
 「あ、ちょ…ちょっと…!」

 涼の皿へテンポよく、コロコロンと真島の皿にあったいちごが転がり込んでくる。真島を見上げると「ヒヒ」と白い歯をみせて笑った。

 「好きなもん食うて寝たら、元気になるやろう思たんや」
 「……わたしは、元気ですよ…? どこも怪我してないし、ちょっと退屈なだけで…」
 「退屈は毒やで」

 真島はケーキを一口食べると紅茶を飲んだ。
 新たに二つに増えたいちごをかじる。不思議ともらったものという気持ちがそうさせるのか、自分の皿にあるいちごとは少々味が違うように感じた。
 
 「今度はなんかおもろいもん持ってくるわ」
 「そんな、もう……」

 「いいのに」と続けようとして、「勝手にやってることやさかい、世話焼かせてくれや」という真島の言葉に呑まれる。

 (このひとは、どうして、こんなことをするんだろう…)
 
 そう言われてしまえば拒絶する理由はなくなる。真島吾朗は『命の恩人』だから、救われたあとの命の使い方として当然だと思うのだ。涼にはとっくにこの世界で生きる理由と呼ばれるものは消えていたのだから。


  ◇ ◇ ◇


 祖母と真島が帰路につき、また静かな病室になった。
 まだほんのりとケーキの甘い香りが残っている。いずれ消えていくものだと思うと寂しくなった。室内をふらふら意味もなく歩くと、ドアの外で話し声がした。看護師ではない。警備担当の警察官であろう。普通の警備員ではないのはおそらく、真島吾朗が頻繁に訪れるからだろう。
 盗み聞きをするつもりではなかったが、自然とその言葉が耳に入った。

 「あいつどうだった?」
 「さっき帰りました。今日は誕生日だとかで、ケーキ持ってきましたよ。毒物なしです、一緒に食べてましたし」
 「エレベーターで入れ違いだったよ、妙にご機嫌で」
 「素、なんですかねえ。四課の方に連携繋いで聞いたんですけど、組じゃなかなか目立つヤツだって。そのうち出世するだろうからマークしてるって言ってました」

 時計をみるとゴールデンタイム。交替の時刻だからこそ彼らは連携を取っているのだろう。病室の前で話すことではない気がしたが、退屈しのぎにドアを背に凭れてもう少し聞いてみることにした。それは涼自身の真島吾朗への興味とは別に、正確な情報を知りたいという意思のあらわれだった。
 交替で今から入る男のほうが「ああ、それなら聞いたよ」といった。

 「近々、組を持つらしい。前々から持ち上がってた話で、このタイミングでやるってなると……強力なカードを手中に収めたいのかねえ?」
 「どういうことですか、それ」
 「んん。…なあほら、今回の事件はトカゲの尻尾切りだよ。虎の威を借る狐じゃねえが、ガイシャはあっちに効く。ユスれるだろ? 拘置所で例の男一言もしゃべらないし、まず普段出てこねえヤツが女ひとり追っかけるってのもおかしい。……だから俺たちも張り付いてなきゃいけない。強力なカードを真島越しに握ってなきゃいけない」

 つまり涼には裏社会の政治的駆け引きの切り札としての役割が残っているということだった。
 先にいた警察官も「なるほど」と返事した。

 「あの男、馬鹿じゃないですね」
 「そうだよ。だから、大物なんだよ」
 
 大物。
 だとすれば、涼へ対する気遣いは、偽りだというのだろうか。将来を見据えれば、ぬいぐるみもケーキも安いものだ。いつかその利益を涼が払うことになる。

 (だから…助けたんだ…、あんなに、必死に)

 初冬の冷たい風が吹きつける橋梁の上から、一緒に河へとおちた。
 長い腕が伸ばされた。大きな手、指先が右手の甲に触れた。指先の熱を今も覚えている。
 涼の人生のなかで、必死になって助けてくれる男は兄だけじゃない、とすこし、ほんの少しだけ浮ついた気持ちを抱いたのだ。

 (いっそ……目覚めなければ)

 こんなに悲しい思いをしなくて済んだ。
 今日だって、浮かれた。
 彼を優しいと思ったのだ。初めて恋をしった日の疼きを思い出した。
 ぬいぐるみも買いにいって、好きな食べ物も知っていて。彼は、懐柔しようとしているのだ。

 もう、いっそ。

 (死んでしまえたらいいのに…!)

 部屋の窓へと駆け寄る。窓はロックが二重に掛けられていて簡単に外せないようになっている。給湯室には刃物がない。花瓶も食器も、カラトリーもハサミも、ペンも!
 鋭利なものは部屋にはない。ここは牢獄。生かされ続ける、牢獄なのだ。ぐるぐると視界が回転する。胃の底から胸へせり上がってくる感触に備え付けのトイレに入った。こんなに、虚しいことがあるだろうか。
 
 「うっ…うう! ……ぇぐ、うっ」

 彼の優しさが水に沈み込んでいく。
 涙がぼろぼろと零れて便器のフチを濡らした。せっかく買ってきてもらった食べ物を無駄にしてしまった。
 たくさん食べただけ、吐き出される。たくさんの、優しさを、…これからも受け取れるだろうか。
 真島は次も訪れるだろう。おもしろいものを持ってくるといっていた。涼にそれが受け取れるだろうか。難なく、無知を装い、子どものままでいられるだろうか。
 

 (でも、命の恩人…だから)
 
 拒んでは、いけないのだ。
 拒んでは、いけないのだ。


 口を濯いで歯を磨く。鏡に自分自身が映り込む。この鏡を叩き割れば、なんてことを考える。歯ブラシを喉につっこめば、と。けれどやっぱり死ねないのだ。どうしても祖母の顔が浮かんでしまう。死にたいと思うけれど、楽しそうに笑う祖母を思い出すと、だめだった。

 ベッドの上によじ登ると体育座りをして、真島からもらった新しいぬいぐるみを抱き寄せる。
 新品特有の人工物のにおいがあったが、古いほうのぬいぐるみに比べて起毛のふかふかな状態は遥かに勝っている。ぬいぐるみを入れていた袋がまだベッドにテーブルの上に残っていたので、折りたたもうと手を伸ばす。カサと音を立てた。袋からは、なんともいい香りがした。
 柑橘系のすっきりとする清潔感。やや甘みとムスクの香りがする。香水だろうか。だとしたらこれは、真島吾朗の香りだろう。ぬいぐるみの袋を抱えている間に彼の香りが移ったと考えるのが普通だった。

 (いい、……におい)

 すう、とその香りを吸う。
 柑橘系の香りには興奮を鎮静化させる効果があるのか、ともかく涼の希死念慮を、彼の残り香が次第に落ち着かせていった。



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