第一章 彼の残り香B




 1993年 1月10日

 
 朝九時に真島は高木の運転する車でぬいぐるみを取り扱うメーカーがあるという埼玉県へと向かった。
 一時間足らずで到着し、昨日百貨店の女性従業員が言っていたように窓口で名前を伝えるとすぐさま『ご用意いたします』と受付嬢が答えた。内線で受付嬢が電話をしている。

 しばし待っていると、そこへ見かけ定年間際の男性社員がエレベーターで降りてきて手にはちょうどボールサイズの袋が抱えられていた。
 
 「あなたが、真島さん…? ですね?」
 「そうです」

 好々爺とも見て取れるも厳格さを備えた職人気質そうな男だ。真島も関西弁を忘れるほどだった。
 首から下げられている社員証には花田という名前が入っていた。

 「私は花田といいます。このぬいぐるみを手掛けた元デザイナーです。今は新人の教育担当者をやっておりますが。いやはや、昨日電話がかかってきて驚いたんです。二十年前の仕事を覚えてくれる人がいたのかと。この作品は私のはじめてヒットをだした最初のものでね。感慨深くて」
 「ほんまに、タダでよろしいんですか?」
 「ええ。いいんです。市場にはもう出しておりません。……あの頃は売上やヒットをだせと躍起になっておりましたが、今は心に残るものがあれば良いと思うのです。…あのう、差し支えなければこれをご所望の理由についてお伺いしたいのですが」
 「若い女の子です。ちょうど、発売された年にはじめて貰ったクリスマスプレゼントで、片方の青いのが古くて。……その子の誕生日が今日なんです」

 それを伝えると、花田は目を大きく見開いてそれから目尻のシワがくっきりとわかるほどに微笑んだ。「よかった」と自然に出た声は優しく震えていた。

 「これは二色あるでしょう? 兄弟の鳥なんです。青とオレンジ。なんて、『どうみても子供ウケしないんじゃないか!』 って言われました。ブルーはまだしもピンク色のほうが女の子に向いてるとかね。だけど当時じゃありえないくらいヒット出せたんです。不思議ですよねえ。……真島さん、どうかこの最後の一羽を届けて差し上げてください」
 「最後…? いや、でも…ええんか? あんたの作品やろ?」
 「いえいえ。いいんです。『心に残る仕事をする』、新人教育に使ってる言葉です。その言葉を体現できるほどの大人になっていないといけないんです。そのお話を頂戴できただけでも、果報者なんですよ」

 花田は手に抱いていた袋を真島の手へ持たせた。ずっしりと重みがあり、それはただの質量ではなくこの花田の気持ちも重ねられているような気がした。涼の顔が浮かんだ。ベッドの上で色あせた青い鳥と鮮やかなオレンジの鳥を優しい手付きで撫でる彼女の静かな時間を。真島はゆっくりと頷いた。

 「承ったで」
 「どうも、ありがとう。…本日はわざわざご足労いただきまして、誠にありがとうございました」

 花田は深々と頭をさげた。
 会社から外へ出る。花田に見送られて真島は駐車場へ急いだ。




 時刻は十時を超えて少しだがここから東京へ戻ると十一時だ。ケーキも買いに行かなくてはならない。
 車に乗り込むと高木が「兄貴、おかえりなさい!」と興味津々に袋を見た。

 「これは涼ちゃんのモンや」
 「いいじゃないっすかぁ! ちょっとだけ………ん? いま、涼ちゃんって言いました?」
 「ええからええから、早う車出せや!」

 高木を肘でせっつくと「えぇ〜! 教えて下さいよぉ!」とはしゃいでいる。
 あの事件の騒動で高木ら舎弟たちは『ラン』の名前の女を追わせていたので、涼という名前は知らないのだ。事件も報道管制が敷かれているので彼女の名前が一般に出回ることはない。
 
 「そんなことより、お前なんかケーキ屋知らんか?」
 「ケーキ屋、っすかぁ?」
 「キャバクラ通っとるんやろ。…女の子に人気な店の一つや二つあるはずや」
 「兄貴のその『涼ちゃん』がどんな子か教えてくれたら、言います!」

 なんて現金な奴なのか。涼について言えることは少ない。自らその戒律を破るのはご法度だ。
 高木はキーを回さずじっと真島をにやにやと見ている。普通ならとっくに後頭部をシバいている。だが、こうして車を出してくれたことに感謝しなくてはならない。

 「……ごっつい女やで」
 「ご、ごっついィ…!? 身長デカイんですかぁ?!」
 「どうやろなぁ? …ほら、さっさと言えや、ケーキ。二時前には約束しとんのや」

 涼は極道者の血脈を持っている。それにあの口八丁手八丁な祖母の遺伝子を受け継いでいるかもしれないのだ。…すくなくともあの事故から生き延び続け、過酷な世界を脱しようと逃げた。本当に臆病者であれば、とっくに死んでいるのだ。今回目覚めるに至ったのも、奇跡に等しい。昏睡状態は実質的には植物状態だ。彼女は生きているだけで、奇跡そのもので、真島はすでにもう何度も神への賛辞を尽くしている。それに、彼女の近くにいると金では買えない尊いものを近くに感じられる気がした。

 それは昨日の女性従業員も、今日の先ほどの花田もそうだ。世界の優しさと無縁の場所にいた真島にそれを教えようとしてくれている。だから、そばにいてくれるだけでいいと願うのだ。

 
 高木は車を走らせ、国道沿いから少し脇道に逸れたところにある、絵本の世界に出てきそうな外観をした店の駐車場へ停車させた。

 「ここっす。なんでも果物がすっごい美味いらしくて。山梨と栃木のほうからいいヤツ仕入れてるとかなんとか」
 「それは期待値高いのう。降りるわ。………これは、一緒に持ってくで」

 高木がまだ袋の中身を諦めていない様子だったので、ぬいぐるみの入った袋ごと抱えて車を降りた。店に入る前からすでに甘いケーキの匂いが広がっていて、真島の腹の虫が鳴った。
 入店すると「いらっしゃいませ〜!」と明るい女性の声が出迎えた。店内は広々としており、イートインスペースもあった。何人かの子連れの客が入っている。ガラスの向こうにはたくさんの種類の色彩豊かで創作性の高いケーキやプリン、シュークリームなどが陳列されている。キャバクラの女たちが噂するのも頷ける。
 
 (ぬいぐるみはタダやったし……高いモンでええやろ)
 
 果物は間違いなく値段に比例する。とくに苺にかけては、近年ブランド化が進み各産地で競争が激化しそうなムードに包まれている。真島はまたもや涼を思い浮かべる。あの焼肉店で邂逅したときにはまだしっかりした体つきをしていると思っていたが、寝たきりから起き上がりすっかりと痩せてしまったのだ。少食なことも災いして食べても太る気配はない。こんな調子では退院の許可もなかなか下りないだろう。体力をつけさせ、リハビリをして社会に戻れるようになることが最も望ましい。

 「姉ちゃん、この苺いっぱいのった一番おっきいやつ頼むわ。……あ! 誕生日やさかい、ロウソクつけてや」
 「ありがとうございます〜!」

 たとえ今日中に食べきれなくてもまた明日食べればいいだろう。
 箱に入れてもらいお会計を済ませた。手に提げて車へ戻るとハンドルに凭れて背中を丸めて待機していた高木が「あぁ〜め〜っちゃいい匂いしますねえ!」と大声で叫んだ。
 「うっさいわボケ」と喝を入れて車のドアを閉める。

 「ほれ」
 「なんっすか、兄貴…これ……シュークリームじゃないっすか! え、貰っていいんすか!?」
 「ガソリン代とお前への謝礼代わりや」

 高木は「今度キャバクラで話のネタになる」といって妙な喜び方をした。
 帰路の途中短い交通渋滞にひっかかり、結局のところ真島は病院の待ち合わせ時刻をオーバーした。



 

  ◆ ◆ ◆




 特別病棟、六階。


 涼の誕生日は無事に祝うことができた。

 口数も真島に対する挙動はぎこちないものだが、彼女は言葉で話さない代わりに表情がコロコロと変わる。同席していた祖母が『天気みたい』と言ったがそのとおりだと思う。
 ケーキもよく食べてくれた。好物というのは本当だったようで、次は本命のいちご大福でも差し入れようかと考える。心の底から沸きあがる喜び、愉快さというものだろうか、思っている以上に拒まれていないと思えたことへの充足感が病室から出てエレベータに乗るまでの足取りを軽くさせた。

 「よかったわねえ。真島さん」
 「ああ、せやな」
 「オレンジ色のぬいぐるみ、どうやって見つけてきたの?」
 「……奇縁っちゅう、やつかのう」

 扉が開く。エレベータの中は看護師を含めて監視の警察官が交替で乗っていた。真島のことに気づいたので、わずかに言葉を選ぶ。
 警察官は探るような目を真島に向け、なにを発することもなくその脇を通り過ぎていく。楽しかったムードに水を差し、しばし祖母との会話が途切れた。
 エレベーターに乗りこみ、四階に下った時「あたしからも、お礼言わせてね」と祖母が落ち着いた声でいった。

 「そんなん、かまへん」
 「ほんとうは、十一年分の贈りものを差し上げたいけれど、ほんとうに欲しいのはきっと物じゃないと思うの」

 それは確かにそうだ。彼女に必要なのは物ではなく、心の空洞を、喪った空白を埋めていくことなのだ。
 真島はただ笑顔にすることしか思いつかない。どうすれば彼女を笑顔にできるだろう、喜んでくれるだろう。



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