第二章 まどろみのフィアンセ@

 二章 『まどろみのフィアンセ』
 

 星が降ってくる。
 透明な夜の空には、大きな魚影が泳いでいて、それが頭上を飛んでいく。
 届くだろうかと思って手をのばすと、体が真っ逆さまにおちていく。暗い海の底へ。
 暗く、孤独な海の底へとおちていく最中、彼の名を呼んだ。

 「      」





 1993年 1月 中旬


 テーブルの上に載せられた朝食は学校給食を思い出させた。
 食パンにイチゴジャム、コーン入りサラダ、牛乳に半分に切られたバナナ。
 それらをただ眺めてベッドの上に座っていると、看護師がノックをして入ってきた。薄暗い病室のカーテンをサッと開くと、冬の突き刺さる陽光が射した。

 「涼さん、おはようございます〜今日は食べれそう? あらら、全然食べてない」
 「……ごめんなさい」
 「食べないと、昨日みたいにまた点滴流しちゃうけどそれも辛いでしょう?」
 
 誕生日以降すっかり食べ物を受け付けなくなった涼は、「お腹が痛い」や「食欲がない」といって食べることを拒んでいた。食べると吐いた時の感覚が戻ってきて気持ちが悪くなる。看護師は『好きなものなら食べられるの?』と尋ねたが、今はそれも食べきれるかどうかの自信がない。しかし主治医も食事を摂り体力をつけないと退院も難しいといって、ついにはひとり専門医が増えた。女性の精神科医だった。事件の事情聴取の予定は大幅に遅れていることを懸念しているようだった。

 「ね、ほら。バナナ半分だけでいいから、食べてみようよ」

 看護師は優しく言って、バナナだけを残して配膳を下げた。真っ白いテーブルには黄色いのが一つ。その黄色が彼の着ているジャケットの色を連想させた。今日も神室町のどこかを肩で風を切りながら歩いているのだろうか。涼はこてんとテーブルに頭をのせた。ぼんやりとバナナの切断面の果肉を見つめた。


  ◇ ◇ ◇


 午後。行方不明者遺族及び被害者支援のNPO法人会長である神岡幸太郎がやってきた。
 彼とは二度目の顔合わせとなるが二人きりで話すのは初めてだった。
 
 「涼さんお元気ですか?」
 「神岡…、くん」
 「あぁ、いや。お恥ずかしい。この前はちゃんとした場でしたので。……覚えてくれててよかった」

 神岡幸太郎。
 涼が中等部の頃に告白を貰ったものの、『お友達になりましょう』と返事をした少年だった。あの頃よりもずっと身長が伸び、声も低くなり、記憶に残る少年は大人になっていた。部屋の中にあるちょっといい椅子をベッドの傍らに持ってきて神岡はそこに静かに座った。

 「今日はまず今後のことをお話していきたいと思って」
 「……退院のこと?」
 「それもそうです。けれど、退院がゴールじゃないんだ。そのあとの、生活のこと、涼さんがやっていきたいこととか」
 「やって…いきたいこと」

 簡単に言えば人生設計の話だった。
 中学生の頃から彼女の時は止まっている。義務教育は未完了であることや、今後社会人として生きていく場合の生計を立てるにも社会復帰は大きな課題として残っている。やっていきたいことといっても、涼にはなかった。それは中学生の頃も同じで、周囲の子が熱中していたことを禁止されていた家庭ゆえの弊害だった。
 その原因は主に母親だった。涼にキリスト教の洗礼名を与えたのも、日曜日にミサに連れて行ったのも母親だった。その後の人生において涼が死を選ばないでいられたのは宗教の力である。中学一年生までは親のいいなり、その後は犯罪組織のいいなりの人生から立ち上がっていくにはハードルが高かった。

 (でももう、神さまはいない)

 けれど神を信じている。いざとなったとき、責任を逃れたいと思って、神のせいにしてしまう。自分一人で立っていかないといけないのに。
 涼の重い沈黙を受け止めた神岡が「大丈夫です。支援を行っていきますよ」と励ました。

 「神岡くんは…あの頃、……中学一年生のときは将来何になりたかった?」
 「ぼく…? あはは、うーん。神学校だったでしょう、実は僕の父は聖公会の人で」

 聖公会というのはアングリカン・チャーチといい一般的にはイングランド国教会を指す。イギリスにあるキリスト教の分派である。
 ニュアンスとしてはカトリックとプロテスタントの中間くらいに位置する。涼の母は敬虔なカトリック信者であったため厳しかった。

 「最初は父と同じ聖職者がいいんじゃないかって思ってたけど、あの頃ちょうどテレビで漫才とかが流行ってて、クラスでこっそり練習して。…涼さんはクラス違ったから見てないはずだけど、結構ウケてたんだよね。だから漫才師にでもなろうかなってちょっと思ったこともあるよ」
 「い、意外…」
 「カッコつけてたと思う。……恥ずかしい話、君に告白したことあったよね。だいぶかしこまっちゃってて。本当のぼくは結構ひょうきん者だよ」
 「……」

 人には側面がたくさんある、と思う反面、涼には表と裏がない気がした。言葉通りに受け取ってしまう。クラスメイトには笑われている気がしていたのだ。

 「涼さんは、他の女の子と違うなって思ったのは、ほんとうに神さまを信じている人だなって。すごいなって思ったのがきっかけ。講堂でお祈りの時間とか」
 「え?」
 「馬鹿にしてるわけじゃないよ。ぼくは小さい頃から父が信じてる姿をみてきたから。わかる。子供は色んな興味に惹かれて、口では神さまを信じてるっていうけど、信じてない子のほうが多かったから」

 ぼくもその一人だった、と神岡はいう。つまり彼は涼に憧れを抱いていたのだ。聖職者の道を志ながら次第に楽しい興味に移ろいでいく葛藤もあっただろう。その自分と対照的に、熱心に十字架に祈る涼を見ていたのだろう。涼にしてみれば、意志が弱くて自分を持てない子供のしていたことだ。

 「今の仕事は……その」
 「うん…。ちょっとショックだったんだ。涼さんが事故に遭ったこと。……大丈夫?」
 「うん」
 「…いつも元気なやつも、女子もみんな泣いてて。マスコミもきてね。……戻ってくるって信じて、教室の席も三年生が終わるまでちゃんとあったんだ」

 自分が集団のなかでどのような存在かなど気にしたことがなかった。涼を想って泣いたというよりは、事故自体が衝撃的でそれに泣いていた子もいるだろう。だからそれが少し申し訳ないとすら思う。もし今生きていると流布されたら大騒ぎになるだろう。

 「卒業式の答辞で、涼ちゃんの友達が読んだんだ、生徒会長になってね。……名前おぼえてる? たしか、えぇと…ミヨコだったかな。僕らは接点なかったから、成人式のあとの同窓会で、はじめて話したんだ。『涼ちゃんとは、喫茶店にお出かけしたことがある』ってさ」
 「……ええ」

 あのとき、涼は友達といっても、同情して付き合ってくれているだけなのだと思っていた。そう思っていたのは涼だけだった。『ミヨコ』とは真島吾朗と最初に出会った日、一緒に遊びに出かけて喫茶店でケーキとパフェをシェアした間柄だった。自然と目の奥が熱くなった。
 常に自信がなかったのだ。『ミヨコ』という名前すらちゃんと呼べていたかどうかわからない。『ミヨコ』は一度たりとも、涼を笑ったりなんかしなかった。世間知らずでも、馬鹿にしたりしなかった。

 (いちばん、信じていなかったのは……わたしのほうだ)

 信ずるべきは神さまよりも、周りの人だったのだ。
 どうせ、と諦めて決めつける。涼の悪い癖だった。

 「ごめんね、辛いこと話したね」
 「いい、んです…っ」

 神岡はテーブルの上に置かれたティッシュを数枚とって涼の涙を拭った。
 落ち着くまでしばらく待って、「ミヨコ…ちゃんなんだけどさ」と切り出した。

 「同窓会のときに言ってたんだけど、結婚して、今は苗字変わってるんだ。もし会いたいなら連絡とってみるけど……、今すぐじゃなくても、いずれ」
 「! はい……」

 涼の心中にある疑心がすこし氷解していく。
 「今後の目標だね」と神岡は笑った。

 
 嗚咽が止まるまで神岡は微動だにしなかった。落ち着いてきた頃、「その枕のとこにある、ぬいぐるみ…懐かしいね」と沈黙を破った。涼ははっとしてそれを見た。『神岡くんも?』という声は出さずとも伝わったようで彼は頷いた。

 「あの頃のクリスマスプレゼント、どこの家も一緒だったんじゃないかな? ぼくはそこにあるオレンジ色のを持ってたよ。名前はピー助ってつけてた。でも、そっちのは随分真新しいね? となりの青色のよりきれい」
 「これは……この間の誕生日に…」
 「そうなんだ。ぼくは花束持ってきたんだけど、看護師さんにダメだって言われてね。花くらいいいと思ったんだけどさ…」

 神岡は屈託なく笑う。二羽揃った兄弟の小鳥。片割れを連れてきたのは、真島吾朗だ。
 花は、まずこの部屋に花瓶が置かれていないことや、花瓶が危険物になりうると考えられているのだろう。ぬいぐるみはどうやっても道具には足らない。

 「真島さん…からだよね?」
 「え?」
 「オレンジの、小鳥くん」

 涼は狼狽えながらなんとか返事をした。真島のことは涼自身でもよくわからなくなっていた。気持ちがぐちゃぐちゃになってしまう。ずっと『自分だけが知っている人』だったのが急に、涼の名前を呼び始め、やさしい瞳を向け、けれど目的は彼の生業のためであることに、喜んでいるのに、深く傷ついている。いっそ死ねたらいいのに、そうもできない。膠着状態に疲れている。

 「ぼくも片方しか買ってもらえなくて。一度探したことがあるんだ、お小遣いためて。でも貰ってから随分経ってたこともあるし、青色はどうも人気の色だったみたいで、在庫がないって言われちゃった。おもちゃ屋さんもデパートの子供フロアにも連れてってもらって探したけどなかったよ」
 「………」
 「最初の発売から二十年近く経っててその綺麗な状態ってレアだと思うし、まずそれを贈ろうって思うのが、センスいいっていうか。負けましたって感じ」
 
 判断力の鈍った涼は今更ながら、それはそうだと思った。よく考えてみたら、今も同じ商品が残っているなんてありえないのだ。中古なら探せばあるかもしれないが新品だ。プレミアム価格がつけられていてもおかしくない。それを、お金があればなんでも解決できるものだと思ったことに恥ずかしくなった。
 真島は一度もそういった金銭的な話をしなかった。高いだとか安いだとか、いくらで買ったとか。気を遣わせなかった。――貰った時の喜びは、彼に報えただろうか。

 (また…まただ)

 視界が、視野が狭いのだ。
 涼は怖かった。軸のない自分、自信のない自分、盲目的になってしまう自分、まだ暗闇を暗い海を泳いでいる感覚に生きている。自分が正しいと思えない感覚が恐ろしい。いつでも消えてしまいそうで、なぜ周りにいる人々は自信に満ちているのか、それもわからない、なにもわからなくなるのだ。

 精神科医の医師は「大丈夫ですよ、落ち着いて」と言った。涼にはそれもよくわからない。落ち着いているつもりなのに、落ち着いていないように見えるのか。『自分はおかしい』と言われているようなものだった。乗り物酔いのようにグラグラと揺れているのだ。

 元々の性格なのか、この十一年で変わってしまったのか、それとも…。

 「涼さん、大丈夫? 顔色わるいよ。……そうだ、ちゃんと水分摂ってる?」
 「……」
 「看護師さん、呼んでくるね」
 「だ…だいじょうぶ。…ちょっと考え事をしてただけ」

 神岡は「そう…?」というけれどその顔は少し疑っている。



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