第二章 まどろみのフィアンセA

 東都大病院・一階 ロビー


 「よお、ばあちゃん……待たせたわ」
 「真島さん」

 一月の中旬。嶋野組内の新年行事があらかた終わった真島は病院に訪れた。涼の祖母は週に三日お見舞いに来ているが、足を悪くしているのでそれ以上増やすことは難しい。真島も多忙の身の上なため極力その限られた日数に行けるようにしている。昨晩祖母へ『明日は一緒に行けそうだ』と事前の連絡を入れた。病院へ行く際は事前の連絡をいれることが通例になってきていた。

 「電話で聞いたけど、涼ちゃん食べれへんのやて?」
 「ええ、事情はわからないんだけれど。……ケーキあんなに美味しく食べてたのにねえ」
 「医者はなんて?」
 「……主治医は専門外だから、精神科の先生を呼んでくださって。ここ何日か診ていただいたわ。実はきょうはそのお話もあるの」
 
 祖母はほうと息をついた。その様子では祖母にも打ち明けられないほどの理由があるのだろう。
 真島は「行こか」といって祖母をエレベーター前まで促した。歩きながら蛇柄のジャケットの前ボタンを留める。それをみた祖母が「閉めちゃうの?」と尋ねた。

 「ん〜? ちゃうねん、スミ見えとると看護師に怒られたんや。ほかの患者さんがびっくりしてまうんやと」
 「あらあら、うふふ」
 「白衣の天使いうけど、あんなん嘘やわ。ごっつ怖い顔して…オニやわ、ツノ隠しとるで」

 右手の人差指を側頭部から生やす。『鬼』のマネをすると祖母は笑みを深くした。エレベーターが一階へ降りてくる。人が降りて、そこへ真島たちを含め待っていた四人が乗る。六階のボタンを押し祖母とともに奥の方へ下がる。扉が閉まり、上部にある数字のランプが階層を超えるごとにチカチカと移り変わっていくのを見上げていると「その袋にはなにが入っているのかしら」と、真島が持ってきたものを興味津々に見つめている。

 「食べれへん言うから、それ以外のもんにしたんや。……退屈でしゃあないやろ?」
 「ほんとうに、ありがとうねぇ」

 祖母はシワを深くして少女のようにはにかんだ。誕生日の日、ぬいぐるみを貰ったときの涼の喜んだ顔に似ている。血縁者なのだから彼女が祖母に似ているのだろうが、真島は頬を緩めた。六階に到着し、ナースステーションに立ち寄る。看護師たちとは顔なじみであった。ポケットからライターと煙草の箱を取り出してカウンターに提出した。

 「おばあさまこんにちは。真島さんも。……えぇと、今日は早見先生からお話があるというのは?」
 「ええ。聞いています」
 「わかりました。先生今の時間はちょうど休憩なのでお呼びしますね。二番の応接室でお待ち下さい」

 早見というのが先程祖母の言った精神科医の医師だろう。祖母が医師からの説明を受ける間、真島は待ちぼうけとなるが致し方ない。すると祖母が「あのう」と切り出した。

 「真島さんも一緒にお話を聞いてもよろしいかしら?」
 「……は?」
 「おばあさま、…患者さんの詳しいお話は家族でないとお話できないんです」 

 祖母はううん、と唸り「やっぱりだめなのね」と零した。
 法律に従い、法律に認められた関係でなければ内情を共有できないことは至極当然である。祖母は残念そうに目を伏せた。真島を高く買ってくれているようだが、こればかりはどうしようもないのだ。

 「ええんや。俺はここで、おとなしゅうしてるさかい」
 「……ごめんなさいね」

 真島は待合室の椅子に座った。観葉植物に黒いブラウン管のテレビとちょっとした読み物がテーブルの上に置かれているだけの質素な半個室空間。昼下がりのつまらないワイドショーが始まり賑やかな笑い声をどこか遠くに眺めた。
 
 「……先生、荒川さんのおばあさんは二番の部屋にいらしてます」
 「わかりました」

 ふと耳に届いたのは女の声だったもので、仕切ってある壁から顔をひょいと覗かせると、白衣姿の長身の女だった。髪を後頭部でお団子に纏めて、黒いレギンスと白い健康サンダルが白衣の裾から見える。例の精神科医だろう。
 それからまたテレビの方を向いたが喉の乾きを覚えたので自販機へ行こうと席を立った。すると涼のいる病室の応接間のドアが開いて、神岡が出てきた。彼は真島を見つけると軽い会釈をした。

 「真島さん、こんにちは」

 「おう」と返事をする。自動販売機の前に立つと神岡が近寄ってきた。真島がお茶を買う隣で彼もまたそうした。
 ガコン。と落ちたお茶を拾い上げ、待合室の先程座った椅子に腰を下ろすとその向かい側に神岡は座る。どうやらなにか話したいことがあるようだ。手元のキャップを捻って一口飲んだ。

 「なんや? 話したいこと、あるんやろ?」
 「ええ、はい。……今後のことで、すこし」
 「涼の……話やな」
 「さきほど彼女と、今後どうしていくかという話をしたんです」

 神岡とは仄かに涼を懸けたライバル関係ともとれるが、今の表情はそういったものではなく彼の仕事の話だった。真島は背を壁に預けていたが、身を前傾に倒した。

 「私がまず、涼さんと同窓生であることはご存知、ですよね…?」
 「あぁ。知っとる。ばあちゃんから、聞いたで」
 「その通りです。……彼女には事故のあとに、学校や友人がどうなったかをお話しました。…ミヨコという女性の友人がいまして、彼女と会えるように社会復帰を目指そうと目標を決めたんです。……とはいっても、まず体の回復が先です。そのあとに、事故や事件の事情聴取が予定されていますから、きっと辛くなると思うんです」

 言葉を一旦切った神岡は手に持っていた熱いペットボトルのキャップを撚ると口に含んだ。
 つまり、社会復帰には相当の時間がかかる、という事が言いたいのだろうが、神岡がそれをなぜ真島に伝えようと思ったのかがイマイチ呑み込めない。

 「なあ、聞いておきたいんやけど。その話は、ばあちゃんにするのが先ちゃうか」
 「それはもちろんですが、……ベッドの上にあるオレンジのぬいぐるみ…あれ、真島さんが贈ったそうですね?」
 「……聞いたんか」
 「ええまあ…。実はあれ、同じの持ってたんですよ。だいぶ昔にもらったクリスマスプレゼントなのに、綺麗な状態であるからびっくりして。……用意するの大変だったでしょう。わざわざそこまでして贈り物を見つけてくる人、そういないですから、感心しちゃって。たぶん真島さんは大丈夫だって、思ってます」

 神岡は爽やかに微笑んだ。それから真剣な顔つきへと変わり、声も一段トーンが下がった。

 「真島さんのご職業が、危険だということくらいは理解しています。実際にあなたがどんなことを考えている人か、ぼくもまだわかっていません。ですから、約束していただきたい。……最後まで彼女を見捨てない事を」
 「……誓約書でも書かせるんか?」
 「そうしたいのは山々ですけど。……今は口約束です。……助けることだけが、人を救うことではないんです。助けたあと、そこからが本番なんです。助けるだけでは…助けた側の人間の自己満足の場合もある」

 支援団体の会長らしい格言だ。窮地を救われたあと、その人が幸せで居続けられるかまでは保証されにくい。
 神岡が言いたいのは、このように助けたあとに関わるのであれば、中途半端に関わるのではなく、最後まで果たせということだろう。最後というのが一体いつまでかは不透明だ。彼の視線は『もし中途半端ならさっさと退け』という意味にも捉えられる。真島には、とっくにその覚悟は定まっているので今更な気がしたが、それをひけらかしたことはない。

 「前もいっぺん言うたけどな、あの子の涙を飲み干すつもりやで。……助けに行ったんかて、生半可な気持ちちゃう。……ま、色眼鏡で見たいんやったら止めへんわ。しょせんヤクザ者や、正当化はせえへん」
 「真島さん」
 「嘘は、つかへん。嘘は、嫌いやからのう」

 真島の宣言を聞いた神岡は目を伏せた。ペットボトルを包み込むように指を組んで、しばし何かを考えているようだった。そうした後に「うん」と小さく頷いた。

 「わかりました。今後ともよろしくおねがいします。……ぼくは仕事に戻ります。涼さんにはこのあと、お会いになるんですよね?」
 「ああ」
 「わかりました。…それでは」

 最後に神岡はまた爽やかに笑い、向かい側の椅子から立ち上がった。





  ◆ ◆ ◆


 「おまちどおさま、真島さん」
 「おかえり、ばあちゃん」

 二番の応接室から祖母が出てきた。そのまま涼のいる病室へと向かう。
 応接間前の警官のボディチェックを、いつも同様に受けて入室する。

 「おはよう、涼ちゃん」

 涼はベッドから起床し、窓のそばに立ち、オレンジ色の鳥のぬいぐるみを抱えて外を眺めていた。真島が来たのを察していたのか、ちらりとこちらに顔を向けただけで何も言わなかった。真島は手に持っていた袋を椅子に立て掛けて、涼の隣にたった。窓のそとは相変わらず侘しい冬の景色を映している。眼下にはいつもの通り、裸の木が並んでいた。

 「下に見える並木、桜の木らしいで。春になったら咲くんや。こっからやと絶景やろな」
 「お花見なんて随分してないから、行ってみたいわあ」
 「お、ばあちゃんソレ楽しそうやな」

 涼に視線を戻すと、彼女はじっと真島を見つめていた。しかしこの前とは違い、喜怒哀楽が表れていない。黒蝶真珠のような不思議な色味を兼ね備えた瞳は、どこか虚空を見ている気がした。心ここにあらずとでもいうのだろうか。
 
 「どないしたん、元気ないで? 悪い夢でもみたんか?」
 「……あ」

 ぴくりと涼の薄い瞼が震えた。困惑の色に図星のようだった。そして、追い縋るような目をした。十一年前の七月にみた表情に、真島はなにか重大な何かを伝えようとしていると感じ取った。

 「涼……」
 「……お、……っ」

 気がつくと体がひとりでに動いていた。彼女を腕の中へ受け容れ、背中を擦った。涼の華奢な体は震えていた。十一月の芝浦の夜のように、またひとり寒さに堪えているみたいだった。

 「大丈夫や、…大丈夫。ここにおる」
 「……っ」

 窓を背にしばらくそうやって落ち着くのを待った。次第に腕の中に抱えていたぬいぐるみが抜けて、床へと落ちる。それを祖母が拾う。何も騒ぎ立てることなく、さもありなんとこの状況を受け入れている。
 不思議な静寂にノック音が響き渡って、「失礼しますよー」とこちらの有無を言う前に開かれたドアの向こう、点滴の準備をしてやってきた看護師がぎょっとして絶句していた。その看護師のうしろに一緒に着いてきていた、長身で黒のストッキングが白衣から覗く精神科医師の女も「えっ」という顔をしている。

 祖母はその様子を、ひとりお茶を飲みながら見守っていた。

 (えらい状況になってしもた……)

 肝心の涼は真島の胸元にこてんと頭を預けている。落ち着きを取り戻すと共に、次第にうつらうつらとしてきて寝入りそうだ。擦っていたのを、トントンとリズムをとるように変えると、呼吸が安定していった。寝息に変わったのを見計らってベッドへ横たえた。
 看護師へ目配せをすると、静かに点滴の作業へ入った。右腕に管が通され、彼女の『食事』が始まった。点滴筒へ薬液が溜まり、チューブを通って流れていく。

 「真島さん…ですね?」

 白衣の女医が静かに確認をとった。
 「お話があります。……おばあさまも申し訳ございませんが、もう一度お話がございます。二十分くらいで済みますので」というと部屋からの退出を促した。彼女から離れるのはそうしたくない気持ちがあったが、一目見て数十分程度では起きないだろうと願いつつ、女性医師の背後について部屋から出た。



 二番の応接室に通される。ソファが四角いテーブルを挟んで向かい合っている。祖母を先に座らせてから腰掛けると、女性医師は「私は精神科の早見といいます」と自己紹介をしながら向かい側のソファに座った。

 「おばあさまには二度目の自己紹介となりますが、荒川涼さんのカウンセリング、及び精神鑑定を一任されています」

 その言葉に、事件後の事情聴取へ一歩進んでいる状況であることを知る。真島が見る限り、ついさっきの異変の有り様では、公式の事情聴取には耐え難いと思う。真島自身それはわからない事ではない。『穴倉』から出てしばらくは、まともに生きた心地がしなかったのだから。彼女は、気丈に振る舞っているだけなのかもしれない。

 「率直に申し上げますと、心的外傷後ストレス障害でしょう。まだ検査が残っていますが、現段階で心神こう弱といえます。ご本人は無自覚のようですが、特定の夢をみるそうです。痛覚が鈍麻であったり敏感であったり、自己否定的です。……障害とついていますが治るものですので、もちろん快復します」

 治療には認知行動療法、薬物療法、対人関係療法がある。治療方法については今後の検査を終えてから決めていくと早見は言った。真島はふと自身を省みるが、あの頃の自分は極道社会に戻るために忙しくしていた。おまけに接客業や、役職者という立場のため、必然と人と社会との関係が構築されていったからこそ、まだタフにいられたのかもしれない。

 一方彼女は、保護され意識の回復以降、まだ一ヶ月も経過していない。四六時中娯楽もなく、あの病室だけの隔絶された世界にいるせいで、より自分と向き合う時間が多くなっている。身の上の安全のためとはいえ、彼女の精神をより蝕んでいる結果になっているのではないだろうか。
 真島は一つ、確認しておきたいことがあった。

 「センセ、事件の事情聴取で本人が『自供』を始めた場合、……犯罪を遂行していた場合のこと、聞いてもええですか」
 「現状、心神こう弱です。自分の行為や善悪を判然しにくい、また自分で行動をコントロールすることが著しく低下している状況のことをいいます。心神こう弱の状態では、刑の軽減となります」
 「……ふうん」

 涼は正直なところがあるため、おそらく警察の事情聴取で『全て』話すだろう。ただ一言『強要された』と言えばいいだけなのだが、性格を考えるとそうもいかない。真島がその『方法』を教えることは、彼女との距離を社会的に分断されてしまうため、してはならない悪手である。考える通りの結果になりそうだ。
 早見は「現状は、ですので」と含みのある言い方をした。

 「……心神こう弱よりももっと深刻やったら、推定無罪……か?」
 「そうです。心神喪失者、心神喪失であれば、罪には問われません。責任能力がありませんから。……もっとも、警察がいま被害者に求めているのは、組織犯罪の話についてですので、彼女本人には罪状はありません。ですが、訴えてくる者が現れた場合このようになるでしょう」
  
 真島は息をつく。中国系マフィア『藍華蓮』とその王汀州たち一味。とくに王汀州は涼を『小猫』…『シャンマオ』と呼んでいただけあり、ただの組織仲間と呼ぶには、いささか親しさがあった。報復として殺そうと銃を使ったため、彼女が生きているうちはまた狙ってくる事も、ないと言いきれない。王汀州に関しては、趣向を凝らした嬲り方を好むので、殺人をでっち上げ、揺すってくるかもしれない。なにせ、まだ残党はいるのだから。

 彼女を護る最初の防波堤は警察ではできない。その露払いのために真島は組を立ち上げたのだ。
 警察が焦るのも無理はない。彼女の聴取の時期が延びればそれだけ、向こうに猶予を与えることになる。

 「……ところでセンセ、この話、ばあちゃんだけにしとったのに、なんでまた……」

 今日だけで二度目である。神岡も結局の所、真島の関与を認めた。それと同様のことが、本日二回目なのである。
 早見は目を丸くして、祖母の方をみた。真島はそのとき嫌な予感がした。

 「真島さんは、婚約者と…おばあさまから伺っております」
 「は? ……こ、婚約者ァ?!」
 「うふふ」

 隣に座る祖母はしてやったりと、笑っている。先程の説明の時、早見に話を通したのだろう。婚約者の証明を求められたらどうするのだろうと考えたが、祖母が承認しているため法的な追求は避けられそうだが。まったくもって、侮れがたし。

 そういえば今日ナースステーションでごねていたが、看護師にしょうがないと言われたが懲りていなかったようだ。しかし今更弁明しようとしたところで、病室での抱擁は早見も目撃してしまっている。かえって心証を悪くする事に繋がりかねないので、『婚約者(仮)』という設定を今日から装わなければいけない。真島は不本意ではないが、涼本人にしてみれば不本意だろう。


 「……ばあちゃん、ほんまゴツいやっちゃな」
 「そうでしょう? なんたって、元極道の妻だもの」
 「ソレ、あんまし病院のなかで言わんほうがええで」

 二番の部屋から出て、待合室で一旦話をすることになった。言い出しっぺは祖母なため、真島はまったくのノープランで第三者に追求された時の口裏合わせが必要だった。きょろきょろと真島が挙動不審になるのは無理もない。

 「まず、『涼ちゃん』とは会うてそんな時間経ってないんやで……? 恋人ならまだしも、婚約者て。……病院関係者は騙せても、サツは騙せへん」
 「そうかしら? 実はむかーしに会っててそこで恋に落ちちゃってた、なんてどう?」
 「はあ……そない…、映画みたいな話…」

 昔に会っていたというのは、あながち間違いではないのだが。
 そうなると、次は涼自身が、暴力団との関与が明確に疑われてしまうではないか。挙げ句、真島の立場を危うくしかねない。…真島はため息をつきながら顔を覆う。待合室の椅子に尻餅をつくように座った。

 (なんやねん、この設定は……どないすんねん…)

 「映画俳優の妻としてそこは抜かりないわ!」
 「あんなあ…」
 「よくあるじゃない、『将来あなたのお嫁さんになるわ!』って」
 「………」

 真島は胡乱な目つきで祖母をみた。
 ベタすぎる。ベタすぎるが、これ以外に思い浮かばない。事実、十二歳の頃の彼女に会っているのだ。彼女が自分をどう思っているかは別として。…それにしても何も知らない祖母がここまで事実に沿う形で思い切るとは思わなかった。

 「涼ちゃんにはなんて説明するんや……」
 「説明なんていいのよ。嫌いだったらとっくに面会謝絶してるもの」
 「いやぁ……」

 涼はかなり、繊細な心を持っている。このひとは早見の説明をちゃんと聞いていただろうか。
 はあ。と、真島はもう一度大きなため息をつく。この豪胆な性格の持ち主。彼女の夫はさぞかし尻に敷かれていたことだろう。

 「……わかった。涼ちゃんとは、『小さい頃に会うて、そこで結婚の約束をしてた』でええな?」
 「ええ。ばっちりよ」

 たしかに、これなら賃貸契約の名義を担保にせずとも婚約証明が可能かもしれない。警察も探りようがない。涼を騙すことになるのは胸が痛むし真島の性分とは違うが、それをしなければ今後彼女との接触すら危うくなるので、致し方なくなったのだ。結婚詐欺ならぬ婚約詐欺。祖母は自分の孫をこのヤクザ者に任せていいのだろうか、と思わなくもない。それに真島はこの祖母の夫のように俳優ではなくド素人だ。演技というのは嘘に通じる。その不安が伝わったのか祖母は「大丈夫よ」と励ます。

 「今まで通りでいいから」



 確認のあと、二人は病室に戻った。
 涼はベッドの上ですやすやと寝息を立てて眠っている。
 顔にかかった一筋の長い髪を掬うように除けてやり、脇にある椅子に立て掛けていた袋を退けるとそこに座った。祖母が袋の中には何が入っているのかと再び聞いてきたので、もういいかとそれを取り出した。

 「あら、絵本?」
 「ベタやろ?」
 「いいチョイスだと思うわ」

 活字本はあとから、第三者に難癖をつけられそうなので絵本にした。有害図書にはあたらないはずだ。絵本が二冊。有名なフランスの星にまつわる小説の絵本。もう一つは仕掛け絵本だ。本のページをめくると飛び出してくる仕掛けがある。まるで小さな子供に贈るような贈り物だと舎弟に揶揄されたが、それは偏見だ。大人でも唸る哲学的な世界がそこには満ちている。

 「真島さんて、見てくれ以上のときがあるわよね」
 「それはお互い様やろ」
 「あらまあ!」

 他愛のない雑談に興じていると、点滴の管がふっと揺れた。涼が薄目で天井を見上げていた。「おはよう」と一声かけると色白の腕がシーツの上を這い、なにかを探している。真島はレザーの手袋を外して彼女の手を握った。それに満足したのか、かすかな微笑みを浮かべ、まどろみの中を浮草のように漂っている。

 「気持ち悪いとこ、ないか?」

 優しい問いかけに、顔が小さく横にふるふると揺れる。
 ぼんやりとしているが、涼の視線はしっかりと真島のほうに向いている。

 「……おばあ、ちゃん」
 「どうしたの、涼ちゃん」
 「ふたり、にして」

 たどたどしく、舌っ足らずに彼女は真島と二人にしてほしいと申し出た。祖母は笑みを深くして、「わかったわ」と頷いて、部屋から出ていった。
 こうして二人きりになるのはあの夜以来で、初めてのことだった。まともな対話となれば、十一年ぶりになるかもしれない。ただの『涼』として。

 「まじまさん、は……どうして、たすけたんですか」
 「……」
 「……わ、わたしは…しにたかった。生きていたって、なにも……なにも、ないから…」

 真島の脳裏には、今日の神岡の言葉が蘇った。『助けたあと、そこからが本番なんです』と。涼は『なぜ死なせてくれなかったのか』と、真島の行動に対して、反する心の衝動を口にした。文字通り彼女には、なにもないのだろう。この日本社会に復帰するには、長大な障壁がそびえ立ち、周囲は変わり果て、自分は竜宮城に行っていた浦島太郎のようになっている。

 普通なら『そんなことを言うもんじゃない』とか、『大切な人が待っていた』などと彼女の外側にある事柄を結びつけて、『死にたい』という気持ちを否定するだろう。
 しかしその否定は彼女を幸せにしない。それを言う人間による、気持ちの押し付けでしかないからだ。

 真島は、自身がエゴで助けたことを言い繕うことはしない。
 自分の意志で、自分に責任を持っている。

 「生きててほしかった」
 「……」
 「助けたいと思ったから、助けた」
 「……そんな…じゃあ、どうしたら」

 涼の目が泳ぐ。神岡の話では『ミヨコ』という友人に会いに行く目標を作ったときいたが、それはあくまで彼女の外側の目標なのだろう。彼女自身に生きる目的はなく、死のベクトルに向いている。

 「何もなくても、ええ」
 「……え」
 「なにもなくても、ええんや。……生きとる理由なんて、あってもなくても」

 彼女はとても難しい顔をしている。それは死ぬ理由を探しているように見えた。

 「俺は、涼ちゃんと、生きたいって…思ってんねんで」
 
 涼は何かを言いかけたが、閉口した。その表情はなんだかよくわからない、と言っている。真島はどうしたものかと考える。この言葉に適切で、シンプルで、率直に伝わる言葉をなんと言えばいいのか。それを探った。深く、深く、探したが、見つかったのはこの二文字だけだった。

 「……好き、や」
 
 そうだ。これが正解だ。
 よく考えれば、ありふれた簡単な言葉なのに、それにたどり着くまでに時間がかかった。灯台下暗しとでもいうのだろうか。
 あまりに可笑しいので、おもわず破顔してしまう。

 「そう。好きや。……好きやから、一緒に生きたい」

 涼の瞳、その独特な色彩を持つ瞳孔は開き、見たこともない不思議な光が宿っている。血色のない頬が色づきを取り戻し、赤みがどんどん増していく。「よ、よくわからない」と彼女はいうけれど、拒んでいる様子はない。つまり、『好き』という感情を彼女は理解できている。

 「嫌いでもなんでもええ。…けど、俺が涼ちゃんの隣におるんは、好きやからや」
 「ま、まじまさん…」

 病室にノックがされる。祖母が申し訳無さそうに扉から顔を出して「ごめんなさい、警察の方が……」と侘びた。祖母は例のワードを持ち出しただろうが、警察としては長く二人きりにすることは看過できないのだろう。

 「なぁーんもしとらんわ」

 ぶっきらぼうな台詞は、外にいる警察官へ投げた。
 涼の顔が赤くなっただけだ。握っている手のひらの熱もぐんと高くなっている気がする。
 手の握り方を、指の間を埋めるものへ変えると、彼女もためらいながら、握り返したのだった。



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