三章 『兆し』
◇ ◇ ◇
夢でもみているのではないかと思う。
飛行機が海水へ着水したとき、浸水したフロアに、体も沈み込み、靴も靴の中もその足も膝も水浸しになり、冷たくなっていく感触に囚われる恐さを、時折思い出すのだ。
『足が』と、水に取られて動けなくなった身を、彼は抱きしめた。
何度も背中を擦って、自分だけが『異常』であることを押し付けず切り捨てず、彼はここにいると言ってくれた。
誕生日にもらった、あの贈りものの袋から薫った、シトラスとやや甘いムスクは彼の腕の中でも同じように薫り、心を緩やかなものへと鎮めていった。一定のリズムで促される眠りの世界へ、とろとろと瞼が下りていく。それは長らく手にしていなかった、『安心』のある『睡眠』だった。
いつも訪れるのは極限までの疲労と、失神に近い浅い眠り。このような穏やかな眠りを、彼からもたらされることになるとは、思いも寄らなかった。目を醒ますと、夢が続いている気がして、触れられればいいのにと思っていると、彼のほんのり温かみのある素手が右手に重なって、やっぱりこれは夢だと思った。
夢ならば、少しくらいわがままを言ってもいいだろう、と彼とふたりになることを望んだ。夢は願望を映しているに過ぎない。欲求ともいう。かねてから心の底で積もっていた疑念をぶつけてみても、彼は不愉快だと眉をひそめることも、否定することもしなかった。そうして言ったのだ。彼が私を助けたのは、『生きていてほしい』という純然なる理由で、彼はそれを彼自身の言葉として紡いだ。
誰がとか、なんのため、世のため、倫理のためという、『世界が誰かがそうなしなくてはいけない』という理由をつけずに、彼は彼自身が助けたことに責任を持っているようだった。涼はそれを望んでいたはずが、いざ言われてしまえば混乱した。それはつまり、『彼のため』に『生きなくてはいけなくなる』という事への怖気だった。
それでも、彼は言うのだ、『なにもなくても、構わない』と。価値がなくても、生きるに値する正当な理由も目的も。
『俺は涼ちゃんと、生きたいって…思ってんねんで』と、彼は言ったのだ。
さらに『好き』だとも。一度は好意を抱き、望んだ相手から、好意を明確に示しを受けるということは、それこそいよいよ死んでしまう直前にみる、走馬灯かなにかだと思うだろう。都合がよく甘い言葉はまさしく夢でなければ、ありえない。
(そう、……思っていたのに)
どうやら自分はまだ生きていて、おまけに夢は夢ではなかった。ということに、涼はくらくらと目眩がした。
なぜ、どうして。好意を抱かれる理由を涼には理解できなかった。半ば告白のような物言いに、中学生の頃に一度受けたものよりも明らかに動揺していて、心に燻りながらも、これ以上燃えることのないところに、油と火を撒かれるような衝撃があった。
なぜなら諦めていたからだ。彼にとっての自分は庇護すべき、かわいそうな子供だという自覚があった。なによりも、彼には優先するべき家庭があるにもかかわらず、どうして構いたがるのか。もやもやと自己憐憫と、けれど少しの嬉しさに、夕食のデザートのカットされたリンゴをかじった。
1993年 2月
真島からは絵本を二冊もらった。
昔、星にまつわる絵本のほうの小説を、兄に寝る前にしばしば読んでもらっていたことを思い出した。
偶然だと思うけれど嬉しい、ちょっとしたハプニングだった。やることも何もない、暇で退屈な長い一日を絵本を何度も繰り返し、じっくりと読み込んだので、もう諳んじることもできるほどになった。少しずつではあるが、食事にも手をつけられるようになって、カウンセリングに訪れる早見医師からは「真島さんの効果ですかね…」と、やや困惑気味に言っていて、ちんぷんかんである。
祖母も真島を気に入っていることは、火を見るより明らかなのだが、まさか医者まで彼を可しとするのはやや不気味なところであった。
そんな真島は、絵本をくれてからというもの、見舞いに訪れていない。それだけで、些かもやもやが増す。好意があると伝えておきながら、カレンダーの数字は一枚捲られてから既に三日が過ぎた。早見医師からは「考えすぎですよ」といわれたが、こんなにも暇で何も考えていないでいると、本当に馬鹿になってしまうのだ。
そんな折、神岡がやってきて教材をテーブルに広げた。
「真島さんが持ってくるものよりは、かわいげがないけど、どう?」
といって、中学一年生の国語や理科、数学の教科書を涼に見せた。鉛筆と消しゴムの使用が認められて、その時分に授業でやるには退屈な勉強が、これしかないとなるとこんなにもおもしろいのかと気付かされる。
涼の食いつきがよかったことで、中学から高校の教科書が、これもあれもと一気に押し寄せた。読み耽り、問題を解いているだけで、自分へ向ける関心が薄れて気が楽になった。頭が疲れることで寝付きもよくなり、自然と規則正しい生活サイクルに戻りつつある頃、部屋の外を歩いてもいいという許可が下りたのだった。
病室の外に出られるようになったといっても、行ける場所は待合室しかない。待合室には将棋や囲碁、オセロなどの暇つぶしの盤上ゲームがあるくらいで、新聞や雑誌は置いてない。理由はおおよそ察しがつく。外の情報に触れさせないための配慮だった。
祖母が見舞いに来ると、ゲームの相手になってくれた。ただ、ゲームとはいえ本気を出してイカサマも上等。あの手この手で勝ちを取りに来る祖母に、負けてばかりだったが楽しかった。
「……涼ちゃんは、わかりやすいから」
なんて、無意識に隙を教えてしまうそうだ。
きっと真島のほうが、もう少し加減というものをしてくれるだろうか、どうだろうか。やはり彼は勝負事に関して妥協をしないのだろうか、涼はそう考えてから、はた、と気づく。自然と真島のことを気にしている。彼ならどんな風にこの次の一手を打つだろうと、無意識に気にしていることに気づいた。
(真島さん……)
そしてもう一つの事にも気づく。今までならば、『彼』といえば、『王吟』のことだった。
心のなかで、軸として存在していたのは、『王吟』で、長らくそれを頼りに生きてきた。その場所がいつの間にか、真島に変わっていたのだ。それは小さな変化だったけれど、涼にはとてつもなく大きな革命だった。恐ろしいことのはずなのに、ひどく安心している。
(だって、もう彼はいない)
依存する相手が真島にシフトした。心の針がそう示している。
(どうして……最近来ないんだろう)
忙しいのだろう、という想像は容易だけれど、その裏を読もうとしてしまう。涼は頭を振った。早見も言っていた。考えすぎると。
涼もまた、自分は一度思い込んだら一直線になって、周りが見えなくなることを神岡との対話で思い知ったばかりではないか。悪い想像の靄を振り払う。悪い癖は直したほうがいい。そう戒めながら、オセロ盤の上の黒と白をじっと睨んでいると、祖母の声がかかった。
「どうしたの? 涼ちゃん。次、涼ちゃんの番よ」
「うん。……ね。おばあちゃん、……真島さんのことなんだけど……最近あんまり、来ないじゃない?」
「真島さん? そうねえ。……ふふ」
祖母は含みのある笑い方をした。なにか知っているみたいだった。
「知ってるの?」と尋ねると「もちろん」と頷いた。
「でも、涼ちゃんから、真島さんの話をしようなんて、めずらしい。……明日は雪かしら?」
「もう。茶化さないで」
「ごめんなさい。……真島さん、真島さんはねえ、組のご用で忙しいんですって。義理事。親分さんだから」
「お、……親、分さん……!?」
想像の斜め上の答えながら、すんなりと納得がいった。親分とは自分の組を持って、組長になったということだろう。ということは、忙しい合間を縫って面会に訪れていたのかもしれない。
「そうよ。涼ちゃんが心配するから、言わないでくれって頼まれたけど、なぁんにも知らないほうが不安よねぇ?」
「……おばあちゃん」
恥ずかしいけれど、真島の予測通りだった。そして彼が気遣いのできる人間であることを証明していた。自分はまだ、病院で生活を続けなければいけないのに、彼はいつのまにか前に進んでいる。自分はまだ、病院の外の空気さえも吸えないのに、だ。
涼の再びの沈黙に祖母は、「ちょっと焦ったでしょう」と心を見透かしたかのようなその一言を放った。
「え」
「頑張らなきゃって思ったわ、きっと。いいのよ、ゆっくりして。涼ちゃんは。きっとそう思うだろうから『黙っててくれ』って言ったんだわ、真島さん」
たしかにそうだ。けれど、かえって良かった。思慮深い真島の考えを知ることで、涼はお得意の悪い思考の循環に、るつぼにはまる事を防げた。同時に、胸をかき乱すほどの敵わなさを自覚する。
「……あぁ、うん……なんだかもう、……あは」
「どうしたの?」
まったく。脱力してしまう。これは敗けだ。
勝ち負けというよりは、自分自身の信じ込んでいた悪意のある世界が敗けた音がする。いいことや嬉しいことが起こっても、次にはなくなってしまう。そうしてきた人が離れていったり、消えたりする世界に生きてきた涼にとって、自己防衛のつもりだった。
認めざるを得ないほどに、周りにいる人はみんな優しい。その優しさに、気づかないふりをしていた。世界はもっとひどいと。あの地獄のような日々で、思い込んでいたのだ。
(良いことなんて、なにもないって、思ってた)
これからも、ずっと、自分はそうやって、なんとか生きてきたのだから、これからもそうあるべきだと。自分自身に呪いをかけていた。自分の呪いを信じるのではなくて、もっと自分を、自分を大切にする人を思いやるほうがいいのに。
真島が真にどんな人間かはまだわかっていないけれど、真島よりも、よく知らない第三者の、ちょっとした噂に惑わされるのはもっと情けない。今もこうしているだけで、『信じたら、期待するから、裏切られるんだよ』と、内側に潜む悪魔のような自分が囁くのだ。けれど、心はまだ信じたがっている。
「信じる。……信じることにしたの、真島さんを」
涼は自戒を込めて、強く念じるように口にした。