第三章 兆しA



 へっくし。

 設立したての真島組の事務所のあるビルの一階玄関前。今日の用事がほとんど終わって外に出た時、唐突にくしゃみがでた。
 嶋野組の組事や、新設したばかりの真島組での組事や盃事。忙殺されて気がつけば、二月に突入していた。滅多に風邪を引かない真島も、さすがにこうも忙しければ免疫力が弱って、冬の時期だから風邪でも引いたかと疑ってしまう。

 「大丈夫っすか、親父」
 「はー、腰に響くわ。……噂されとるんちゃう?」

 百八十後半の長身の体は、盛大なくしゃみをすると腰に来る。前かがみにしっかり体勢を取らないとうっかり腰をやるかもしれない。ぎっくり腰は年齢に関係ない。体をよくほぐしてあるので、縁がなさそうではある。――といえども、風邪以外にくしゃみとくれば、他人に噂されている時らしい。
 噂といえば、思い浮かぶ人間がいくらかいるが、今はなんとなく祖母あたりがしている気がした。

 
 先月以降面会には行けておらず、そろそろ行かなければと思っているのだが、どうにも毎日何かしらの用事が入って行けない日々が続いている。涼の近況は、祖母からの電話で知らせが来る。少しずつ、ご飯が食べられるようになった事。学校の教科書で勉強していること。月末のカウンセリングの結果で、改善が見られたこと。筆記用具の使用が可能になり、病室外のフロア内を歩けるようになったこと。真島が会いに行けていない間に、彼女は少しずつ快方への兆しを見せ始めていた。

 「親父、このあとはどうなさいます?」
 「今日の当番は、浅田と坂井やったな……」

 真島はふと、違和感を察知する。子分が「親父?」と首を傾げていて、まだそれに気づいていない。すると事務所の方が一気に騒がしくなった。ドタバタと内部で暴れまわっているそれが、一階へと下りてくる。真島は猪突猛進の勢いで一直線に走ってくる一人の男を、玄関で待ち構えた。白昼堂々と勇気のある行動だ。

 上階にいた子分のひとりが小窓を開けて、階下にいる真島へ「親父! そいつシメてください!」と大声をあげた。

 「ええ、度胸やのお……!」

 玄関の両開きのドアのガラスをも突き破る勢いで、飛び出してきた男をとっ捕まえる。「うぎゃあ」とヒキガエルが潰されたようにひしゃげた声。みぞおちに一発お見舞いし、足の甲を踏みつけ、ビルの壁に顔面をやすりのように擦り付ける。男はそれで地べたへ突っ伏して、腕に持っていた金庫を、コンクリートの道路上へと投げ放った。見てわかるように、金庫泥棒未遂のようだった。

 「木内、回収して上に持っていき」
 「へい!」

 その場にいた子分に、巻かれていたチェーンの切れた金庫を拾わせて、その場には金庫泥棒と真島だけになった。
 男はのろのろとしながらも、しぶとく立ち上がろうとしている。その胸ぐらを容赦なく掴み上げ、再び壁へと叩きつけるように立たせれば、顔を恐怖に染めた男に迫った。

 「オイ、自分何しとんのや? わかってんのか、あ?」
 「ひぎぃ」
 「組の金持って、トンズラしよう思うとった。百年早いわ。あ? 口訊けへんのか? なんや言うてみい!」
 「ひっ、ひぃぃぃ……!!」

 馬のいななきのような音しか出ない男。名を、準構成員の番藤といった。簡単に金庫泥棒をやりおおせるとは、随分と舐められたものだった。

 「俺の親父やったら、どないするかのう?」
 「……ひぎ!」

 急所である下顎を掴み、天へと突き上げる。番藤の体はみっともないほど震えている。はじめから、結末の想像がつくはずの悪事を働いたのだ。情けは必要ない。嶋野であれば、とっくに生易しい仕置では済んでいない。人間らしい営みには戻れなくなる。また、嶋野こそ金に最も執着心のある意地汚さを持っているぶん、終いにはバラされるだろう。

 残忍さを持ち合わせていない自覚もそこそこに、真島はせめてもの猶予を与えることにした。
 
 「一応訊いといたるわ。なんで、こないなことした」
 「っひ、う、うが……!」
 「ひひ、喋られへんのか? せや。……金は、命より重いっちゅうこと教えたるわ」

 番藤の首根っこを掴み、事務所のあるビル内へと引き返した。このビル自体の不動産を所有しているために、一階は若衆たちの生活圏だった。ちょうど昼時で、室内に入ると何人かがテレビを見ながら昼食をとっているところだった。

 「邪魔するでえ」

 何人かが、真島の突然の訪問に立ち上がる。異様な雰囲気に、誰一人声を上げなかった。糸の切れた人形のように、番藤がズルズルと引きずられてきたのだ。

 「こいつ、金もってトンズラしようとしたんや。ええか? よう見ときや」

 若衆たちは、ただ眺めているだけの時間を長く感じた。真島は番藤を、鼻血が吹き出すまで殴った。そのうちに顔が赤黒く腫れ上がり、歪な形になったとき、その手は止んだ。もうそろそろ終わると思わると思い、誰かが息をついた呼気に「まだや」と真島は言った。

 「えらい、汚ななってしもて。……キレイにしたらなアカンのう」

 真島はじっとりと周囲を見渡す。若衆たちは目を逸らしたいが、そうすれば次は自分が殴られると恐怖して、できなかった。血まみれになった顔、その血は床にも滴り落ち、鼻をつまみたくなるほどの鉄の臭いが、即席で食べられるカップ麺のかやくの、その独特なにおいにまじって、鼻に不快感をもたらした。

 誰もやりたがらないので真島は「しゃあないのう」とため息をついた。
 寒いその部屋の唯一の暖房の役割を果たしている石油ストーブ。上にあった薬缶に真島の長い手がぬっと伸びる。
 
 「寒いやろ? ついでに飲んだらええわ、温まるでェ?」

 ジョロロ、と熱湯が顔の上に振りかけられ、番藤は悲鳴を出すことも敵わず、手足を殺虫剤でのたうち回る虫のように踊らせた。
 熱湯は血の色の濃度を中和させ、薄い朱へと変えていく。

 「おい、お前ら。あとは処理しとけ。掃除や、掃除」
 「へ、へい…!」

 真島は、その場の若衆たちに適当に声をかけ、始末を任せた。
 舐められれば、組織は瓦解する。
 裏切り者には、相応の懲罰を。内部崩落ほどみっともないことはない。組織の長とは絶対的な存在でなければならないのだ。真島はただ『躾』をしただけだ。

 上階の事務所へ戻ると、当番の浅田と坂井、さきほど下から金庫を持って上がらせた木内がいた。引きちぎられたチェーンは、もう使い物にならなかった。抱えて運べる大きさなのが仇となったようだ。もっとも金庫の中には最初からなにも入っていないのだが。

 「親父。どないしましょう」
 「どないもこうもあらへん。サラピンのヤツ用意せなあかんやろ。木内、お前が買うてこいや。車は下で暇しとるやつがおる」
 「へい」

 木内に指示を出し、三人を見渡す。
 とんだ煩わしい雑事に、限られた面会時間が減ってしまうではないか。

 「今日はもう用ないな。ないな? ない、ない! よっしゃ、営業終了や。俺は病院いくさかい」
 「兄貴ィ!」

 子分たちを順番に指差し、確認を取る。
 営業終了の合図に割り込み、階段を駆け上がってくるのは、嶋野組と掛け持ちでいる舎弟の高木だった。もう何もないはずだと思っていただけに、「なんでやねん」と肩を落としてため息をつかずにはいられない。高木は事務所に入ってくるなり、「なんか騒がしいって聞きつけてきたんすけど?」と言った。遅い到着に「とっくに終わったわ」と真島はつぶやいた。

 「今から、病院に行かなアカンのや……」
 「親父、まさかさっきのクシャミで……!?」
 「は。病院?」

 木内が青筋をたて、見当違いな腰の心配をしはじめている。「ちゃうわ」と一蹴したもののまた話がややこしくなる気配がした。
 高木は「あ、あれっすよね」と急に目を輝かせた。

 「涼ちゃんの見舞いっすよね?」

 その場にいた高木を除く三名が、「な、涼ちゃん〜!?」と驚愕の声をあげる。今は得意げにしているが、いつぞやの高木のような驚き方をした。高木はふふんと鼻を鳴らして声高らかに叫んだ。

 「涼ちゃんはなあ! 涼ちゃんは、ごっっついんやて!」
 「ご、ごっっつい?!」
 「それって…」
 「デカいんすか!?」
 
 真島はそろそろ、数えるのも馬鹿らしくなるくらいのため息をついた。
 どうしてこう、馬鹿揃いなのか。

 涼の身元が割れないほうがいいので、勘違いはそのままに放置している。余計な詮索は、余分なトラブルを誘発するため、いざとなったときにしか情報開示はしないつもりだ。今のところ、背格好が立派な大女に入れ込んでいて、ぬいぐるみやケーキを贈っていると思われている、のだとしてもだ。
 

 真島は騒がしい事務所をあとにして、神室町へ繰り出す。
 祖母の電話では、涼は食べられるようになったと、きいている。好物であるいちご大福も、そろそろ解禁してもいいだろう。神室町にはたしか売っている店があったはずだ。

 神室町の昭和通りを歩いていると、喫茶店から出てきたガタイのいい男とちょうど鉢合わせた。
 赤いシャツにグレーのスーツ。声をかけたのは向こうが早かった。

 「真島の兄さん!」
 「おう、桐生ちゃんやないかい。ひひ…! 喧嘩一発やっとくか?」
 「遠慮しときます」
 「なーんや、つまらん。……せや桐生ちゃん、この辺にいちご大福売っとるとこあったやろ」

 腰を低くして頭をさげた桐生一馬は、顔をあげると「いちご、大福……?」と訝しげな顔をした。
 真島がそんなものを好んで買いに行くということを、桐生は想像できなかった。それに勘付いた真島は「アホ。自分用やない」といらぬ誤解と想像が始まる前に訂正を入れる。

 「手土産や。手土産」
 「あ、あぁそうか。いちご大福なら、西公園曲がった通りにあるぜ」
 「なんや、桐生ちゃん詳しいやないか」

 昭和通りを端に進んで回り込めば行けるだろう。桐生は道案内を買って出た。真島が歩きだすとそれに続いた。

 「…前にそこの前で喧嘩したら、女が一つ持ってた大福を落っことしてしまって、ガキみたいに泣くもんだから詫びとして翌日買って、店の前で待ってたことがある」
  
 真島は「ほお」と桐生をみる。

 「えらい大仰やのう。いちご大福一つでそないに。……で、ちゃんと渡せたんか?」
 「ああ。あんなに嬉しそうに食べるやつは、なかなかいない……と思う」

 桐生はくつり、と喉を鳴らして笑った。相当物珍しく、喜怒哀楽のはっきりした女だったのだろう。喜怒哀楽がはっきりしているといえば、涼の顔が過ぎった。彼女も喜んで食べてくれるだろうか。そんなことを考える。
 目的の店に到着すると、誰も並んでいなかったので、今日の分の残っていた四つを全て買った。その時になって桐生は「そういえば」と風変わりな、いちご大福女の話の続きを切り出した。

 「その女、兄さんのことを、知っている風だったんだが」
 「あ? なんやねん」
 「兄さんと、嶋野組を気にしてて。……前日に、芝浦の船の出航時間を訊いてきた。それが実に妙で……兄さん?」
 
 それは、どこからどうみても涼ではないだろうか。
 その特徴は、間違いなく、涼だ。
 真島ははあ、と盛大なため息をついた。世間とは狭いものだと、思わずにはいられない。つまり、涼は桐生と面識があるというわけだ。呆れた顔つきで桐生を見た。

 「のう、桐生ちゃん。……面倒かけたわ」
 「……ああ」

 桐生にはなんのことやらさっぱりだろうが、事件前の涼の動向にいちご大福を賞味していたことはわかった。

 「その、なんや。詫びっちゅうか、礼はしたるさかい」
 「いいのか。兄さんから礼なんて。それはそれで恐ろしいんだが」
 「失礼な奴やのう。ま、楽しみにしとき」

 謝礼の話もそこそこに、手土産をこしらえた真島は桐生と別れて、公園前通りの入り口に停車しているタクシーに乗った。


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