第三章 兆しB

  ◇ ◇ ◇



 東都大病院 特別病棟 六階


 涼は待合室のテーブルの上で、祖母とオセロをしていた。表裏が黒と白になったリバース方式で、自分の石を増やしていくポピュラーなゲームである。涼は黒、祖母は白で、何戦か勝負しているが、今の所勝てないでいる。涼は勝てない原因が、もしや表情の読まれやすさではないか、ということに気づいていた。両手で頬を揉んでみたり、伸ばしてみたり。祖母をちらりと伺い見ると「どうしたの?」と小首をかしげて、愛嬌のある微笑み方をするのだ。

 「楽しそうやな」
 「ま、真島さん……!」

 ぱっと手を顔から離して勢いよく振り返ると、そこには涼の座る椅子の背もたれに、両腕をつくように被さって、二人の戦局を覗き込んでいる真島がいた。視線が交わると、目を細めて「ヒヒ」と笑った。長椅子をくるりと回り込んで涼の隣に座った。

 「ばあちゃん、やり手やのう」
 「うふふ。そうでしょう」
 「一個くらい角を譲ってくれへんか。何戦目なんや?」

 祖母は「五回くらいしたわよね?」と涼に訊いた。涼は大人しくおずおずと頷いた。負け続きで、未だ一勝もしていない。オセロは単純だが奥深い、角とりゲームである。中心から広がり、角を最初に制した者に、勝利の女神は微笑む。真島は涼の様子で勝てないことを察したようだった。わかりやすい態度が、次の一手をどこに置くのか教えてしまうのだろう。 
 
 「勝負事は譲らないわ」
 「言うたな? 涼ちゃん、助太刀したるわ」
 「で、でも」

 二対一はフェアではない。真島は「涼ちゃんがつまらんやろ」と言った。
 ゲームはフェアプレイが望ましいが、その前提はすでに崩れている。祖母はにこにこと「どうやって勝つのかしら」と余裕綽々に笑っている。祖母はゲームと名のつくものにはとにかく強いタチだった。真島はジャケットの腕の裾をめくって、やる気を出している。

 「ひひひ! 見ときや〜!」

 なにか特別な作戦があるのかと考えていると、真島が座っている間を詰めた。一気に距離が近くなり、涼は声に出さないもののドギマギした。半ば抱き込まれる形となり、お互いの体が密着している。これを意識しないわけがない。そんな動揺を知ってか知らずか、長い腕が回り込んで涼の右手を掬うと、クレーンゲームのアームのように操って、思ってもみない場所へと石を置いたのである。

 「あら?」
 
 祖母の目にやや鋭さが宿る。涼が元々置こうと考えていた場所とは違うところに置いたことで、譜が読みづらくなるだろう。そうして一度も取れなかったであろう角を取り、パタパタと黒石が広がっていく。黒がこんなに多い盤上になったのははじめてだった。
 真島は「どや?」と小声で尋ねた。「ありがとうございます」を上手く言えた自信はない。それでも気をよくしたのか、真島が身を離すことはしなかった。夢だと思っていた彼の『好き』という言葉が耳奥に蘇ってくる。涼は自分でもわかるほど顔の火照りを感じた。

 「次、どないしよか」

 左側頭部に、彼の呼気や声の振動が伝わる。もう覚えてしまった彼の持つ匂いや煙草、香水と、もたらす香りに心拍数がまた早くなった。ゲームは進んでいるというのに、ちっとも集中できない。ふと見上げると、真島の一つしかない視線とばっちりと逢った。内緒の作戦の話をしようとしているのだと、勘違いされてしまったのか「ん?」とその身を低く下げて涼の口元に耳を寄せた。綺麗な色と形をした耳にはピアスの穴すら見当たらない。

 「えと……おまかせ、します」

 手を衝立代わりにして声を潜めて言った。尻目に向かい側に座る祖母をみると、にこにこと笑って待っている。真島は一笑すると「わかった、このまま勝たせたる」と勝利宣言を言い放ったのである。
 真島は戦局を見事ひっくり返し、勝利を収めた。
 
 
 もう一戦しようかどうかとなったとき、サンダルで歩く音がした。精神科医師の早見が、待合室へやってきた合図だった。

 「お楽しみ中すみません。……真島さん、お時間すこしよろしいですか」
 「……わかりましたわ。ほな、ちょっと行ってくる」

 真島はそう言うと、涼から離れた。立ち上がる途中、「せや」と思い出したように反対側に置いていた紙袋を涼に差し出した。涼はその紙袋に見覚えがあった。事故の前に立ち寄った。元祖いちご大福発祥の店で食べたのだ。そのときちょっとしたトラブルに見舞われたこともついでに思い出した。

 「これ、お土産。食べてまっとき」
 「ありがとう、ございます…!」

 祖母は「なあにそれ?」と興味を持った。二人で紙袋を囲っていると、真島は早見の後ろに着いて行ってしまった。
 病室に戻ってお茶の用意をして、箱の中からとりだすと、やはりそこにはいちご大福が入っていて、そういえばずっと思っていたけれど、きけなかったことを祖母に尋ねた。

 「おばあちゃんなの? 真島さんに、……これが好きなものだって教えたの」
 「ええ、そうよ。真島さん、お家に訪ねてきてその時にお茶請けでお出ししたの。そういえば、涼ちゃんのアルバム眺めてたわ」
 「ええっ、やだ、それ恥ずかしい」

 祖母の家を知っているということは、もちろん生家も知っているだろうし、さらにはアルバムの幼少期の頃の写真まで知られている。涼について知らないことはほとんど無いくらい、知っているのではないだろうか。
 それに引き換え、涼はちっとも真島を知らない。親も兄弟も、住んでいる家も好きな食べ物もなにも知らない。自分だけ知られている感覚というのは、なんだか自分だけが裸にされているような心許なさがあった。







  ◆ ◆ ◆


 以前、早見と祖母を含めた三人で面談を行った部屋は、第二面会室だったが、今日通されたのはそれよりも遥かに広い、会議室と呼んでも差し支えない広い部屋だった。一本の長いテーブルと椅子がそれぞれ向かい合っている面会室で、部屋の扉の横のプレートには『第一面会室』の文字が入っていた。
 

 面会室に入室すると、涼の主治医と警察官が三名。検察官、その事務官、組織犯罪捜査第四課の刑事。被害者支援団体の会長である神岡もいる。全員すでに着席して手元の資料を眺めたり、ちょうど部屋に入ってきた真島を舐め回すように見た。錚々たる顔ぶれに、道理でこの室内の空気が厳しいのだと理解する。

 早見が面会室の扉を静かに閉め、「どうぞ」と促されれば、席に着くしかないだろう。上座には早見が座った。その彼女と向かい合い、入り口に最も近い席は空席で、そこが真島の席だった。

 真島が椅子を引いたとき、左側の手前から二番目に座っていた、顔なじみである組織犯罪捜査第四課の刑事が立ち上がり、真島に向かって深々と頭を下げた。一般的にマル暴といわれる四課は、日頃から暴力団と密な関係を構築していおり、監視対象組織内の動向を探るには、それ相応の付き合いが日常から行われている。冠婚葬祭はもちろん、お中元やお歳暮もある。先日行われた義理かけにもこの刑事の顔はあった。八馬という名の男である。

 東城会系嶋野組若頭 兼、嶋野組内真島組組長。東城会の三次団体とはいえ、関東最大勢力の組織の三次団体は地方にあるような会派の枝の三次団体とは訳が違う。東城会のなかでも存在感のある堂島組、嶋野組。その嶋野組の若頭が組を持った。裏社会の出世の階段というのがあるとすれば、真島は順調に階段を上るエリートである。警察内部では将来の幹部候補と囁かれており、だからこうしてこの場にも監視役が来て目を光らせる必要がある。

 ……そのような人物に警察側はともかく、普段から真島を知る早見や神岡以外に、涼の主治医だけが額に汗が滲ませていた。
 

 マル暴の八馬は図体が大きく、柔道有段である男が頭を下げている光景は異様な雰囲気を醸している。それを打ち破るように「それでははじめます」という落ち着きを払った早見の号令に、真島は席についた。上座に座る早見の左側の列。その最初に座る主治医は、進行役の早見に目で合図した。

 「みなさま、本日はお集まりいただき誠に感謝申し上げます。進行は私、早見が務めさせていただきます」


 その場にいた者たちが、頭を下げる。早見は左右を交互にみて、直線上の先にいる真島を見つめた。


 「真島さん、突然このような形でお招きしたこと、先にお詫び申し上げます。……のちほど詳述しますが、当会議は荒川涼さんやその周辺の情報共有を目的としています」

 会議の目的は涼と、彼女が関与していた中華系マフィア。それらが起こした事件などを情報共有し今後の指針を決定するものであったが、そこに真島が呼び出される筋合いは、表立って無いように思えた。公僕が反社会勢力組織へ情報を提供する状況は、異例中の異例ではないか。詳述という言い方に、嫌な予感と想像を掻き立てられる。


 真島以外のメンバーは、涼の主治医と精神科医。
 警察関係には、『刑事課捜査第一課の警部補』、『刑事部国際捜査課・警部補』、そして『組織犯罪捜査第四課、警部補』とみな一様に現場の役職責任者である。さらに検察官と事務次官の二名、支援団体の代表の神岡幸太郎。ごく限られた人員だが組織内の指揮系統の権利を行使可能な長たちである。
 だからこの場が最も最前線の現場であるのだ。一通りの紹介のあと、真島は椅子に深く座りなおした。真島に関して説明は不要だった。各位了承があるからこの場に呼んでいるし、呼ばれたのだから。

 まず最初に、神岡幸太郎が挙手する。
 彼は涼の十一年前の事故の話をした。一通りのプロフィールを読み終えて、精神科医の早見との交換した彼女から出てくる断片的な情報によって、事故後にとある島に流れ着きそこで二人の兄弟と出会って『助けられた』としていること。その二人に『日本語』を教えていたのではないかという。

 (なるほどな……)

 真島はこれに合点がいく。橋の上で黒い銃口を向けたあのニヒル男、王汀州はあまりにも綺麗な日本語を話した。『穴倉』の頃から疑問だった。ネイティブの中国人が苦手とするアクセントの細かい部分まで違和感なく発音できたのはそういうことだった。誰かに教わったと思っていたが、確信に変わる。
 つまり日本語を教える代わりに、彼女の生活を保障していたということだ。

 次に、手が挙がったのは『刑事部国際捜査課・警部補』の石田からだった。

 「その二人の兄弟、中華系犯罪組織、マフィアの『藍華蓮』(ラン・ファーリエン)のなかの三次団体ツートップ、王汀州(オウ・テイシュウ)ともう一人、王泰然(オウ・タイラン)がいます。彼ら二人は実の兄弟。藍華蓮・三代目首長は呉波浪(ゴ・ハロウ)という名前で本部を香港に構えています。組織自体は戦前の台湾の秘密結社、青幇(チンパン)の残党から結成された組織で、現在は大陸を拠点に東アジア一帯に侵攻しベトナムやフィリピン。そのほか欧州、北米、ニュージーランドなどでの活動が盛んです」

 国際的に幅を利かせるマフィア組織の、三次団体の二大幹部。本来であるならばこんな病院の、この程度の会議室で共有されるような話ではない。組織の三次団体とはいえ、それは日本の比ではないわけだ。一国くらい動かせる。その程度は容易いものだろう。彼らは東アジア総てを、管轄にし手に入れるつもりだった、ということになる。東城会の嶋野とのつながりは日本の半分をまず手中に収める算段だったはずだ。

 もっとも嶋野はその中国との美味しい話を、近江連合直参の代紋違いの兄弟である佐川司から聞かされていた。あのとき真島は、『赤い波止場の竜』の合言葉を穴倉から出て、佐川に伝えたのだから。そのルートよりあの頃は、神室町の土地の利権へのほうが重要だっただけのことだ。まだバブルに湧いていた頃だ。だがしかし、その後の景気後退によって次の旨い話が『藍華蓮』に飛びつかざるを得なくなった。

 暴対法である。
 暴力団員による不当な行為の防止等に関する法律といわれる。
 その暴対法が1991年に公布、1992年からに施行された。1988年は今にして思えば、ちょうど境目であった。バブルと昭和のクライマックスが同時に起こっていた。金に浮かれていた夢は突如として弾ける。

 だからこそ、手を組もうと考えたのだろう。日本のヤクザは互助会制度で、さらにシマ文化である。マフィアとはさらに組織的で会社経営に近いシステム。金儲けは上手く、実際『藍華蓮』のような幾つもの国を股にかける組織があるわけで、金儲けが上手くできなければさっさと手を引くのだ。それに引き換え日本の組織はその土地に根付くため、ゆくゆくジリ貧になっていくだろう。真島のような仁侠を重んじる極道は今後どうなるのか、薄い予感はあったが今更この生き方を変えられるほどの器用さはない。

 嶋野は金を、『藍華蓮』は組織にいた女と日本のルートを欲しがった。

 嶋野組の長は嶋野だが、執行権は真島にある。俯瞰してみるなら、実質的には嶋野組はその女を握っている状態である。真島の目的は違うところにあるが、親父である嶋野を欺きながらも相手方が欲しがるものはある。細く鋭い針山の上を、つま先で立っているかのような危うさが、今の真島の外交だった。


 すっと手が挙がる。警察陣のなかではもっとも目つきの悪い男だった。
 
 「刑事課捜査第一課の警部補、村波です。今回、被害者には嫌疑はかけられてませんが…国際的に活発なマフィア組織のツートップがこの国にいて追ってきた。……実はね、今回召喚をしろといってるのは我々じゃあない。その王汀州という奴なんですよ。しかも名指しときた。真島さん、あなたなにか知っているんじゃないですか?」

 その鋭い目が詰めるように真島に向けられる。周囲の人間も自然と真島を多種多様な、思惑のこもった視線を晒した。発言権が唐突に回ってきて、天井を仰ぎ見ながら、一度息を吐く。

 (そうきたか。……けったいやのう)


 王汀州はとうに、留置所ではなく拘置所にいるだろう。留置所の期間はとっくに過ぎている。なにより犯罪界の大物である。元からそちら側の人間であるうえ、拘置所でも口を割らずにいたのが、真島の名前を出したのだ。まったくもって、余計なことである。王汀州からしてみれば、揺さぶりをかけたつもりだろうか。真島はあの『穴倉』の監禁にかけられていたよしみか。『藍華蓮』と嶋野との関係を示すことで、涼を差し出すように交渉を挑んでくるかもしれない。

 (……落ち着け)

 推察するに。
 穴倉のことをおそらく警察は、まだ掴んでいないようだった。ムーンスターブリッジ後に行われた嶋野組のガサ入れも、親父の嶋野は『なにもなかった』としていた。おそらく、すべてもみ消したのだろう。今この場で『穴倉』のことを言えばいずれ嶋野組へ余波が出る。再び警察のお世話となり、組内にまた緊迫した空気が流れることだろう。真島組としても動き辛くなる。警察が王汀州との関係を疑われるのは、つまりは『藍華蓮』との結託や国内への『違法薬物等の流通』をすでに疑っているというわけだ。
 真島にとって難所であった。

 一課の村波の追求は続く。

 「そもそも、十年間も行方不明だった被害者を今更『保護しろ』と通報したのもおかしい。どこで知ったんだ? はなっから知ってなきゃおかしいよなぁ? 婚約者だってか? よしなよ、都合のいい冗談は」

 村波は、そもそも真島が『涼が組織にいた頃から、知っていたのではないか?』と、そこから組織とすでに接触があり関係を持っていた。国内に違法薬物等を流通させ、その他にも余罪があるのではないか。また、涼が『藍華蓮』にいたことを最初から知っていた上で、示し合わせていたのではないか。『婚約者を売って金に換える』という長期計画ではないか、ということを疑っていた。

 いつか来るであろうと想像していた詰問に、真島は心の内で苦笑した。
 一か八か。一芝居打つことにした。

 「刑事はん、先に言うときますけど、その王とかいう男と面識はあります。ちょっと前に、あっちから声かけてきたんですわ。調べついとったはずです、『親父によろしく』いうように言われたんですわ」
 「ははあ……、どうだか」
 「若衆やった俺は、それがなーんの意味か知りもせんで、親父に言うのを忘れとったことがあります。そんときにあの子がいて、……けど、まさかそないなとこにおるなんて思わへん。他人の空似ちゅうこともある。それにとっくに死んどる思うてました」

 具体的な説明を省いた物言いに、真島は我ながらひどい弁論だと思った。論にすらなっていない、が何も述べないよりは十分マシだった。
 両腿に手を置き、姿勢をやや前へ傾けて村波を睨み返すと、彼は顔を顰めた。

 「今年、いや去年か。街で見かけたんですわ。……名前も変えとったんで、調べるんに手間かかりましたけど。ちょうどそいつら二人がきて、あの事故ですわ。……そんときに、あの子は組織から逃げとったんやと、確信したんです。……生きとった。せやから、『婚約者』を保護するのは理に適っとるはずですわ」
 「………」

 村波は太い腕を組んで、やや不服そうに黙り込んだ。
 なかなか要領を得ない内容だが、大方本当の話である。真島には破門された時期があるが、細かいことを話せば相手への撒き餌になる。かなり強引な辻褄合わせだが、彼女の祖母の考えた『婚約者設定』がこんなにも生きるとは思わなかった。

 「信じられへんいうんなら、あの子のおばあちゃんにでも聞いたらどうや。快く答えてくれるで」

 刑事はさらにううむ、と唸る。早見は目を細めて、真島の方をみていた。精神科医である彼女には、今の話しぶりや仕草の中に、違和感を抱いた可能性はあるが、その場で反証することはなかった。なにやら手元の白い資料になにやら書き留めている。
 
 「話を進めます。みなさま、よろしいですか」

 早見の進行に各自、首肯する。

 「繰り返しますが、今回お集まりいただいたのは、情報共有が目的です。糾明の場ではありません」
 「……はん、言うねぇ」

 村波は好戦的に身を乗り出して、真島にもう一度「それで…」と言葉をかけた。
 
 「王とは、会ってもらえるんですか? いやいや、怖いならいいんです。真島組の組長さんよお」
 「………」
 「なあ、早見先生はどう思いますか」

 くるりと体を早見に向けて意見を仰ぐ。振られた早見は、きわめて冷静に見解を述べた。

 「応じていただけないようでしたら、被害者の荒川さんの聴取のみとなってしまいます。正確性を保証するには、詳しい尋問を行うことになり、患者の負担が増すことは間違いないでしょう」

 どうもこの一課の村波は、あまりにも真島をよく思っていないらしい。警察内における一課のプライドだろうか、正義感ではなく、強烈な悪への拘りと華形である所属ゆえに、悪に対して悪であってほしい願いが強いように思えた。その反対に四課の八馬は何も言わない。各管轄の警部補が揃うなか、組織内の力関係を感じる。

 「なんも断るなんて言うてませんわ」
 「………」
 「ああ。喋らせたら、ええんやろ。しっかし……、突然こないな差し向けなさるんはだいぶ切羽詰まっとる……みたいやのお?」

 真島の煽り、もとい挑発行動に村波は、バンとテーブルを拳で叩いて、「お前!」と声を張った。八馬もさすがに不味いと思ったのか、「真島さん」と巨体の口から獣の唸り声のような制止を告げられる。

 一課は罪人確定の男から、犯罪の一切合切を何一つ引き出せていないのだ。それは成果が上がっていないといわけで、『真島を喚べ』というのは、彼らのプライドを傷つける行為であった。ようは『お前たちでは力不足で、取るに足らない』と言われたのも同然なのだ。

 早見が「よろしいですか」と一触即発の空気にメスを入れる。

 「真島さんがおっしゃったように、被害者及び患者は、その組織に所属していた可能性が高いです。私のカウンセリングではまだ事件について、それ以前の話や事故の具体的な話に触れていません。半月前に患者のPTSDを確認し、心神こう弱状態であったため、適切な判断が不可能な状態にありました。現在も治療中で、経過は良好。次第に改善されつつありますので、事情聴取も段階的に許可できると思われますが、無理は禁物です」

 早見の発表に、検察官の隣に座る立会事務次官がメモを取っている。涼は被害者だが現在、被疑者扱いとされている。これにはさすがの真島も庇いきれない。検察は両件を同時に進めており、王汀州をこの国の法律で裁くためには必要なことだった。事態が進展すれば、警察庁や公安に引き継がれ、国際刑事警察機構やその他組織との連携が進むだろう。逮捕に手間取っているのは、国の外交の均衡もある。

 『藍華蓮』のツートップの一人が日本で逮捕という情報が先に出てしまえば、蜂の巣にされかねない。間抜けな話だからだ。日本のヤクザが海外で逮捕されるというのと同じで情けない。だいいち、もうひとりの王泰然の身柄拘束に至っておらず、先に兄を逮捕すればその弟に加勢する動きを恐れている。段取りがあるのだ。

 刑事部国際捜査課・警部補の石田が再び挙手した。

 「石田です。11月27日に起きた『ムーンスターブリッジ衝突炎上事故』の際に橋上に乗り捨てられた車からは、王汀州とその類似したDNAの皮膚の断片が見つかってます。おそらく王泰然のものでしょう。二人でハイヤーに乗車し、先行にいた被害者の乗車したタクシーに追突しています。事件後空港のセキュリティを強化しましたから、まだ国内、この東京、関東圏内にはいるはずです」


 真島は『穴倉』にいるのではないか、と率直に思った。そこ以外に隠れる場所はもう一つ思い浮かんだがまず、『穴倉』の証拠隠滅を図るはずだと思った。『穴倉』に関していえば真島からは今でも所在が不明なのだ。あれを用意したのは嶋野であるし、嶋野はまたはぐらかすことも容易に考えられる。それもそのはず、向こうが証拠を残していたらこちらは不利になるからだ。

 また、嶋野も真島も警察に監視もされているため探りに行けない。『なにもない』と警察に話している以上、『なにもない』のだ。

 だから今、その『穴倉』の正確な場所を知るのは、涼だけとなる。
 かといって、彼女に尋ねるのはまだ早かった。ようやく警戒心を解かれつつある時にそうするのは愚策である。

 「王汀州は黙秘。左足、大腿骨を骨折。単独での逃亡は不可能です。仲間の救援待ちといえるでしょう」

 左足の骨折は真島が負わせたものだった。あの時は殺すつもりで臨んだが、涼の悲鳴にとどめを刺しきれず、結果的に銃撃を許してしまった。彼女が王汀州とどのような関係を築いていたかは、やはり涼本人にしかわからない。飛行機事故から生き延びたあとの空白の十年。その十分の一を真島も知っているが、人生の殆どをあの男の支配下にあり、時間を費やしていた。

 村波は不躾に早見に呼びかけた。

 「早見先生。具体的に、いつから事情聴取を始めるおつもりで? ガイシャがなんにも言わなきゃあ困るんですよ。これって給料泥棒させてるんですが、よろしいんですか?」

 早見は村波を一瞥し、その隣に座る主治医に耳打ちする。主治医は手元のバインダーに挟まった白いカルテを何枚かめくり二言三言、話し合っている。話がまとまったのか、早見は顔を上げる。

 「三十分です。原則、三十分の聴取なら可能でしょう」
 「さ、三十分? おいおい。こんなんで聴取になるってか?」
 「荒川さんが質問に応じなくとも、三十分厳守です。圧迫や誘導尋問を行った場合、直ちにその日の聴取を終了します」
 「あんたらさぁ! その間に大事件が起きて、死人が出てもいいのかよ!」

 早見は「彼女が心を壊せば、迷宮入りになりますよ」と、やや険のある言い方をした。
 医師側は最大限の譲歩をしている。それに聴取をするには信頼関係が十全でないと行えない。恫喝まがいの取り調べは厳禁である、早見が暗にそう言っているように見えた。

 村波の口の悪さや悪態加減には、むしろ聴取の可否の問題は村波のほうにあるような気がした。先行きが思いやられる。

 村波はその意図を汲み取ったのか、フンと鼻を鳴らす。軋轢を生みやすい男だ。

 「聴取には私が同席しますので、手短によろしくおねがいします」

 聴取には、数少ない臨床心理士の資格を有し、その肩書を持つ早見だけが頼りである。
 その言葉を最後に、あまりにも長く感じた『会議』が終わった。また、取り調べは三日後から急遽行われることが決定した。


 病室へと戻ろうとする真島のその背中に、早見の声がかかった。先程の追求だろうか。二人は待合室まで行くと「妙に引っかかるんです」と早見は抱いた疑問を直球に向けてきた。

 「貴方は嘘はついていません。ですが、重要な、……なにかを隠していませんか?」
 「なんでそう思うんや」
 「……勘です」
 「な、なんや先生……センセでもそないなもんが、あるんか」

 もっと理知的で論理に従った推測が聞けるだろうと思ったが違った。早見の勘は冴え渡っているようだ。伊達に精神科医をつとめてはいない。

 「涼さんが快方に向かっているのには、ご家族や真島さんの力が大きいと思います。彼女も自覚している。せっかく快方に向かっているのに、もう一度『追体験』させてしまうことを……恐れています。場合が場合ですから、やむを得ないのですが」

 「だからどうか、彼女の味方で居続けてあげてください」と。早見の真摯な瞳が真島を貫いた。
 去り際に、「真島さんの召喚はまた後日、警察の方から入れるそうですよ」と残して彼女は看護師からの呼び出し去っていった。


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