第三章 兆しC


  ◆ ◆ ◆




 涼のいる病室へ入ると待ちくたびれたのか、ベッドでぬいぐるみを抱いて眠っていた。椅子には祖母がかけ、涼が使っている教材を興味深く読み込んでいた。真島の気配に気づいて「おかえりなさい」と優しい声で出迎えた。彼女はその声にも目覚める様子はなかった。

 真島はまるで『実家に帰ってきた』かのように安息のため息を零した。真島に、家族も実家も普通の人が当たり前に持つものはない。もし喩えるならそうだった。

 「ホンマ、長かったわ。はあ、えらい疲れてしもた」

 うん、と伸びをするとその拍子にあくびが出た。それを見ていた祖母が、くすくすと笑う。彼女を起こさないように「持ってきたもん、食べたか?」とそっと尋ねてみると「まだよ」と祖母は返事した。

 「『真島さんが、戻ってくるまで待つ』っていって、そのまま眠っちゃったわ」
 「お? ……ひひ。えらい、かわいいこと言うやないか」

 冬の黄昏の迫る、彩度の低い暖色の光が、薄手のカーテンの隙間から、涼の白い頬を照らしている。

 ベッドの傍らに身を屈めて、彼女の眠る顔を見つめる。息の詰まる報告会だった。一歩外に出ると、他人は真島の肩書をみる。涼のそばにいると、『真島吾朗』でなくなる瞬間がある。名前のつかない、この世にはじめに生まれ落ちた瞬間のような、無のような、何者でもないときが訪れる。それを的確に表現する言葉はないのが惜しいのだが。

 「先生な、にかおっしゃってた?」
 「……三日後に、事情聴取を始めるんやと」
 「そう。……元気になってきたのにね」
 「早見センセもおんなじこと、言うとったわ」

 「しゃあない」と、真島は深く吸った息を吐き出しながら言った。国際捜査課の石田が伝えた『藍華蓮』の組織規模や、実情は想像を超えていた。日に日に組織は増強していっているのだろう。真島は一度も『王吟』の話を、彼女に問いかけていない。開けてはならない禁断の匣だからだ。『穴倉』の頃も、それ以前の行動も。なにも知らない。

 本音をいえば、どこまで真島が助けられるのか、いっそ手に負えないような人間を守ろうとしているのかもしれない。そんなこともわからなかった。わかるのは、涼は十一年前に出会った、ただの少女ではなくなっていることだけだ。
 
 この安らかに眠る、人畜無害そうな女を取り巻く世界は、無尽に無限大に肥大し続けている。今にも爆発しそうな爆弾。王汀州はその爆弾を潰しにきたのだ。彼女を生かし、王汀州を日本警察に預けたことが、次の戦争の鐘の音になっている。
 むかし、別の女と付き合っていたときにみた恋愛映画に「たとえ、世界中を敵に回しても、ぼくは君の味方だ」なんて、クサい台詞があった。そんなことは現実にはありえないと思っていた。

 (あのとき、手を)

 つい最近になって、七月七日の手を離した頃を夢にみるようになった。後悔の夢だ。
 過去は変えられないものだ。だからできるだけ、前だけをみる真島だが、その日をやり直そうとする夢をみる。あの頃の自分ではとうてい上手くいくはずのない相手だと思う。真島は粗暴で多感な時期の子供だったから、きっと繊細な少女を傷つけてしまうだろう。

 真島は目を伏せて、小さく首を振る。
 うっかりすれば昔を悔いてしまう。だからせめて、事件解決の進展がみえるなら、いくらでも協力をしよう。ただそれだけだ。

 「……まじまさん」
 「ん、おはよう」

 涼の意識が昼寝から浮上し、霞んだ瞳が真島を認めると、表情がふにゃりと柔らかくなった。

 遊び心から、真島が枕元にあるもう一つの青い鳥のぬいぐるみを両手に持つと、動きをつける。ダンスをさせたりすると涼も抱えていたオレンジ色の鳥を操った。丸っこい二匹がふさふさの起毛をくっつけあって戯れた。

 「ひひっ……!」

 まるで子供同士のする戯れだ。
 しばらく遊んだあと気が済んだのか、眠気眼をこすって涼は起き上がった。「お腹すいた」と言って。

 気づけば、時刻は午後四時を過ぎていた。夕食の配膳は六時からなのでまだもう少しある微妙な時間帯だった。椅子に座っている祖母が、ぱんと両手を叩いて「真島さんもいらしたことだし食べましょう」と明るく言った。



 部屋のなかに設えられたテーブルの上に、皿に取り分けられた、いちご大福が並んだ。
 真島はテーブルを挟んで向かい側に座る涼のそわそわと落ち着きのない様子をみて、声には出さず笑った。お茶の用意ができると、三人で合掌した。
 
 さっそくと言わんばかりに涼の手が大福へ伸びる。一口かじると、尋ねるよりも早く、ぶわわっと興奮が満ち広がるのがはっきりとわかる。それが「おいしい」という謝辞の代わりになった。涼が喜色満面にもぐもぐと頬張る姿は小動物のリスやウサギのそれのようで、真島は素直に、買ってきてよかったと思った。
 ぺろりとあっという間に一個を食べ終えると、二人がまだほとんど食べていないことに気づき、恥ずかしさを覚えたのか、急にしおらしくなった。

 「涼ちゃん、もう一個あるわよ」
 「おう、せや。食べてええで」

 いちご大福は四つ買ってある。パックに残った最後の一個をちらりと見遣るも手が伸びない。真島はいじらしい子だなと思いながら、その一つを空いた紙皿の上へ運んでやる。

 「ふふ、このいちご大福おいしいわね。どちらで買ったの?」
 「神室町や」
 「あら、そんな賑やかなところに? 今度行ってみようかしら」
 「ばあちゃん一人やと危ないし、そんときは呼んでや」

 神室町の治安の悪さを舐めてはいけない。
 喧嘩をすれば通行人は野次馬となり、警察はまずやってこない。そのおかげで自分たちヤクザが活動できているわけだが、祖母単独で行かせることはできない。そんな心配もよそに祖母はすでに思い馳せている。

 「むかし、むかし。夫がね、カチコミに行った事務所があるのよ〜」
 「ブッ! お、おばあちゃん……?!」

 『昔食べた、あそこのシュークリーム美味しかったの』というくらい自然に、暴力沙汰の昔語りが始まり、涼が飲んでいたお茶を吹き出した。

 「大丈夫か涼ちゃん」
 「げほ、んん……」

 涼をいたわり、ウェットティッシュケースからシートを抜き取ってこぼした箇所を拭いてやる。申し訳無さそうにしおれている涼と引き換えに祖母は臆することなく話を続けようとしている。「真島さんの前で、そんなこと言わないでよ」と涼は小さく言った。

 「あらやだ、そうなの。真島さんには失礼なお話だったかしら」
 「気にしてへん」

 彼女の祖父がどこの組に属していたとか、どこの事務所に殴り込みにいっただとか今は関係ない。戦後すぐという時代、親父である嶋野ですらまだ赤ん坊だった頃だ。遺恨は引き継がれていないだろう。涼はもごもごと口ごもって、手元の最後の一つになったいちご大福をもしゃもしゃと食べ始めた。
 
 「さすがにその事務所も変わっとると思うで」
 「あらまあ…」

 祖母は寂しそうに微笑んだ。
 かつて繁華街として機能していたのは浅草だったが、戦後はその役割を神室町やその他中心都市に移した。闇市が誕生し、それを牽引していたのがヤクザたちだった。闇市がなければまっとうな暮らしができず、餓死する人間も多かったはずだ。ヤクザ戦国時代といわれた侠客最盛期の時代、男の見栄や武勇伝を彼女の夫は寝物語に聞かせたことだろう。

 「イタリア製のねスーツが流行っててね、葉巻を吸って、格好よかったのよ」

 古き良き時代を懐かしむものはもう無いのかもしれない。普段は明るく努めている祖母だが、時折寂しさが訪れる様だった。しんみりとした物言いに、二人は何も言えなくなった。

 「ごめんなさい、なんだか暗くなっちゃったわ」

 祖母は静かに席を立った。そのまま病室の入り口へ歩きながら彼女は笑った。

 「うふふ。ちょっとお外の空気吸ってくるわ。……あとは若いお二人で」

 まるで見合いの席のようなおどけた物言いに、思わず涼と真島は顔を見合わせた。
 祖母を抜いての空気は、まだ心許ないという緊張感が涼から伝わってくる。前回会ってからそろそろ二週間を迎える。多忙をきわめていたことが原因だが、真島は、好意を告げておきながらその後一度も顔を見せていないことで、彼女からの心証を悪くしていないかが気がかりであった。


 「……あの、いちご大福、ありがとうございました」
 「そっちこそ、おおきに。買うてきてよかったわ」

 先に口を開いたのは涼だった。その言葉に、心証を害することはなくてほっと胸をなでおろした。
 桐生の言っていた話を振ろうかとも考えたが、事件前の出来事を思い出させてしまう可能性に、躊躇った。ただ、桐生は侘びとして、涼にいちご大福を食べさせている。つまりは涼の『幸せをかき集めたような顔』をみているということだ。つまらない嫉妬だとわかっているが、気に食わない。

 (はあ、妬けるわ)
 
 よりにもよって、自分よりも早く。泣き顔も嬉し顔も見せたのか。間が悪かったとはいえ。背負っている嫉妬や怨みの鬼女のように女々しい。

 (いくら、桐生ちゃんでも許せへん。次会うたら――)

 喧嘩だ。喧嘩をする。
 こみ上げてくる烈しい嫉妬に夢中になるがあまり、涼がなにか口にしているのを、一度聞き逃した。

 「ん? なんや」
 
 涼は手元にあった紙のおしぼりを、意味もなく細かく折っている。テーブル越しに目の前に座る彼女は、真剣な表情で真島を窺っている。 

 「真島さんは、ご結婚されているんですか?」
 「……はあ…!?」
 
 さっぱりと遠慮のない問いかけである。驚いた声は思いの外、上擦った。
 どうして、突然そんなことを言い出すのか。あまりにも唐突だったがゆえに、真島は椅子からガタッと勢いよく立ち上がった。その驚嘆とは真逆に、彼女は静穏におしぼりを折り紙に見立てて、ちまちまと何かを折っている。
 「真島さんを、信じることにしたんです」と涼は小さく言った。それは幸いだ。幸いな言葉だった。だが。

 (もしかして、伝わっとらんかったんか……?)

 真島は内心、首を傾げた。
 約半月前に真島は涼に向かって、好意を。明確に、『好き』だと告げたつもりだった。彼女が自分を、好きでも嫌いでも傍にいると告げた。返答はどちらでも構わなかった。それでも彼女には『好き』という感情を理解できているはずだと思っていた。しかし、涼がそんな質問をするということは、彼女の中で真島は妻帯者であるという認識が少なからずはあって、まずは、その誤解を解かねばならない気がした。

 真島は椅子に座る涼の傍らに膝をついた。彼女はおしぼり遊びをやめて、体をくるりと彼の方へ向けると、ふたりの目線はちょうど同じくらいになる。何から話せばいいのやら。しばし考えた。少し物言いがぎこちなくなったが、その黒々と薄く青みがかった瞳は逸らされることなく、真剣な面差しをしている。

 「あー…。あのな、……最初に言うとくけど、結婚はしてたんや。今は別れとる」
 「そうですか。――安心しました」

 少しも気にしていない様に見えて、懸念していたのかもしれない。
 過ごした時間はそう長くないとはいえ、嘘をつけない性格くらいはわかっている。良いことも災いをもたらすこともしてきた性格を気に入っていた。だとするなら、彼女は今も努めて気を遣っているのだろう。

 真島にはなんとなく、自身の経歴を噂する人間がいる事の想像はついた。人は噂を楽しむ生き物だから、それが自然と涼の耳にも届いたかもしれない。だから敢えて尋ねてみることをした。

 「……涼ちゃん、それ、誰から聞いたん?」
 
 涼は目を何度か瞬かせて「ええと…」と言葉を詰まらせた。
 ほら、そうだろう、と。嘘がつけないのだ。それは欠点などではなく、美徳であると思う。本来の彼女の優しい性格。嘘をつけないがゆえに、苦労を抱えやすい性癖だった。

 「知らない誰かの、噂です」と申し訳無さそうに、顔を俯かせた。正直に述べたそれに、後悔をしているのだろうか。長く伸びた黒絹の髪が、白い顔に陰をつくる。
 なにも責めているわけではない。垂れた繊細な髪を手の甲で払い除けて、そこから見える彼女の表情を窺う。鼻頭が赤く染まっていて、今にも泣きだしそうな顔をしている。落ち着かせようと、優しく言った。
 
 「今は、涼ちゃんが一番好きや」

 うん、と彼女は首肯する。
 たとえどんな事柄に惑わされていたとしても、彼女の味方で在り続ける。

 涼の細い両腕がするりと伸びる。それが真島の首裏で交錯して、距離が近くなった。彼女からの抱擁をしっかりと受け止めた。二人きりの病室。どこにも行けない病室という監獄の世界。劇的な変化も、革新的な展開も、甘いロマンスもなにもない。彼女の人生にはそれが、あまりにも多すぎるのだから、特別なことはもうなくていいとさえ思う。

 「ごろう、さん」
 「……ああ」

 その声はかすかに震えている。
 彼女からの呼び方が変わる。拙く、馴染めていない音が心を擽った。それを、いとおしいと感じる。

 右肩に預けられたささやかな重みも、『穴倉』で覚えた陽の匂いも彼女から香るものも、ここにある。そっと彼女の頭を包み込むように撫でると、ふっと笑った気配がした。
 冬の黄昏の間際、鮮烈な色彩の強い光が濃紺に紛れて一日を終えようとしている。ふと、目が逢った。重なり合った影が、触れあった熱が、夕闇と一緒に溶けていく。


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