二章『1985年4月、地獄門行き』A


 1985年 4月21日


 上野誠和会の襲撃決行日、真島は柴田に止められていた。兄弟である冴島すでに現場へと向かっている。柴田の制止に対して、真島は誓いを反故にはできなかった。冴島とは血のつながらないが、たった一人の兄弟である。この時の真島にとってこの世で最も信用に足るのは血を分けた両親でもなく志を同じにした、たった一人の男だけだった。

 「俺にとって冴島はたったひとりの兄弟なんじゃ」

 それでも行く、と真島は吠える。柴田はおそらくその言葉を待っていたことだろう。その時の真島には冷静に見抜けるはずがなかった。

 「柴田ァ!」

 用意周到に構成員たちを呼び寄せると、真島を鎖で鉄骨に縛りつけた。
 組員の一人の男がドスをひらひらと目の前にちらつかせる。殺すなとは言われているが、暴れる真島を抑えるには多少の暴力もやむを得ないだろうと煽る。
 泣いて謝罪を強要されるも真島はそれでも頑なに拒む。

 「俺が頭さげれんのは、自分の親父と、―――自分が認めた男だけや。目ン玉一つくらいでお前に頭下げん」

 その言葉が契機となって、真島は左目を失うことになる。

 左眼を抉り取られてから真島は親の命令違反として、『穴倉』で折檻を受けることになる。
 後にも先にもこの『穴倉』での苦痛の数々は真島の人生を狂わせていくことになるが、そんなことはまだ二十一歳の真島吾朗
には知る由もなかった。
 
 ブンブンという羽音が耳元を掠める。煩わしくても振り払う力が真島にはなかった。なぜなら両手には手錠がかけられ、足は地面から離され宙に吊るされている。手も足も出ないとはこのことで、左眼の痛みゆえにまだ意識も混濁している。頬に這う虫がなんなのかもわからない。右目の僅かな視界も夢見心地で近くに人の気配を感じられてもその顔を識別できないでいる。

 影が動いた。二つの影だ。薬をキめたあとのような、薄い感覚のなかでそれを追いかける。
 音がする。何かをしゃべっている。真島の耳にはそれが日本語ではないと理解するのに時間がかかった。おそらくは大陸の言葉だ。早口でサ行が強い鼻濁音の少ない言葉はそれしかない。

 「うぅ…」

 影が傍らに寄ってきて真島の手錠をいじっている。細かい金属音が響く。じゃらじゃらと重い金属の縄が地面に流れ落ちて真島の体は膝から崩れた。僅かな振動でも左眼には衝撃を与える。頭蓋に走る激痛に、声にならない悲鳴をあげた。のたうち回るのも辛いなか、影はまた真島の顔に顔を寄せる。

 「立って、歩けるか」

 日本語だった。低い少年の声だった。まろやかさを帯びた声音はこの苦しみの世界には似つかわしくなかった。
 真島のうなじをもう一人の影が容赦なく掴みあげる。血管が弾け切れるような痛みに獣の唸り声が腹の奥から轟く。

 「っ、あが…っ!」

 無理やり立たせようとするもう一人に少年が声を張り上げる。また大陸語だった。抜けるような強い語気は真島の頭痛を酷くさせるだけだ。血と湿った土の混じった淀む空気は満足に呼吸をも許さない。再び地面に崩れ、痛みに唸り声をあげる。まろやかな声を持つ影が真島の鼻と口を抑え薬を嗅がせた。意識が少しずつ遠くなり、感覚も鈍いものに変わる。身長180センチを超す体を二人の影に支えられながら、ふらりふらりと歩き出す。右脇から体を支えている影は日本語でもう一度「歩いて」と言った。白くて細いうなじが見えて陽の匂いが鼻をくすぐった。

 そういえば、と。おぼつかない意識のなかで、親父である嶋野が昔、真島に語ったことのある説明を思い出していた。
 この世の地獄ともいわれる『穴倉』があり、そこには閻魔に舌をすっこ抜かれるよりも恐ろしい拷問官がいると。嶋野のせせら笑いが耳の奥からこだまする。

 『おとぎ話の続きっちゅうことですか?』

 嶋野は口角をあげて『そんなまやかし程の話ちゃうわ』と吐き捨てた。

 『へえ、そら、すごいですわ』
 あれはいつに聞いた話だろう。親子の盃を交わし、閨で親父を世話したあの日だろうか。
 深酒に付き合い気持ちよく飲む嶋野の手元の酒があけば、また注ぐ。見かけは豪傑されど短気な親父は武闘派と言われる嶋野組の特色そのものを一人で体現しているような存在で、天涯孤独の真島吾朗を組に引き取る胆力が備わっていた。もっとも極道の世界に施設上がりや非行少年はザラにいるが。腕っぷしが強く血気盛んな若者が特に多いのが嶋野組の特徴であるからその親は半端者ではない。

 『真島ァその顔は信じてへんなあ』
 『いえいえ、ちゃいます』
 『フン。そうやで、地獄っちゅうもんを知らん青臭い顔や。でもまあ、お前に限ってそんな阿呆なマネはせんやろと思うてるさかい』
 『……』
 『真島、ワシは、信じてるで』

 ああ、おそらく最悪の結末を迎えようとしている。
 真島は現実なのか夢なのか曖昧になり、宙へと意識を飛ばしていた。
 

前へ  140 次へ
List午前四時の異邦人