三章『蠅の王』@

三章 『蠅の王』



 ブンブン、ブブッ…という羽音がまた耳元を掠めていく。屍肉を好むハエが真島の髪や薄い皮膚の上を這って、また違う場所を探して飛び回るを繰り返している。

 覚せい剤や麻薬とは違う別の薬を吸わされて、高揚感よりも鈍麻、麻酔を打ったあとのように浮ついている。それゆえに、抉られた左眼の痛覚はない。

 不確かな意識のなかで、ここはならず者の極道が外れた最後に流れ着く場所だと知覚する。流刑地であり墓場。真島がいるこの独房ですら最期を看取っただろう、死体の肉片がまだどこかに残っているから、蠅がやかましく飛び交っているのだろうか。

 それとも左の眼球を失い窪んだ眼窩に混ざる肉におびき寄せられているのだろうか。まだ右目だけでものを見るのは不慣れだが、真島のいるここがどんな場所かは次第にわかってきた。

 泥をかぶった世界が次第に浮かび上がってくる。
 明かりはなく、窓はない。排気口はかろうじてあるが、もちろん脱走防止の細工はあるはずだ。石造りの壁、土で固められた床。他にはなにもない。刑務所の独房のほうが人間らしい生活ができる。それはそうだ、ここは『人間扱い』をしない場所だからだ。



 「穴倉……親父のいうてた場所いうんは、ほんまにあったん、やな」

 誰に聞かせる言葉でもない、まだ言葉を話せることを確かめたくて、真島は独り言をつぶやいた。乾いた口内から重くしゃがれた老人のような、あるいは亡者の喘ぎに似た人ならざる音だった。

 ここに連れてこられてから何日経過し、今が朝なのか夜なのかもわからない。次第に生きている感覚を失っていくのだ。幸いにして真島は拘束具は身につけさせられていない。両手も自由で今のところ四肢欠損もない。だからこそ最悪の想像をしてしまう。自分自身の恐怖が最も恐ろしい。まだ何か苦役を与えられているほうが考えている暇を奪われるだけいいかもしれない。

 独房の鉄扉には覗ける長方形の窓がくり抜かれていて、そこから外を誰かが通り過ぎていくのを見かける。一瞬にして過る影は『何者』かであるが、真島にはそれだけだった。

 ジャラジャラという音が聞こえるとその覗き窓を越えてほかの独房から叫び声が聞こえてくる。複数の叫喚には嘆きや怒り、人間の肉体を捨てたような暴力的な生の音がしている。

 そして今、そのジャラジャラという音は真島の独房のところまでやってきている。真島は静かに待った。細かい金属音が鳴る。複雑な鍵構造になっているのだろう。ギイという鉄扉が軋みながら開く。覗き窓には顔はない。つまりその高さより低い人間が鍵を開けたということだ。

 小柄な少年だった。暗がりにいるのでやはり正確ではないが、つい先日、真島を独房に運び出した小さな影のほうだろう。隙のない首まで詰まった、長い中国服を着ている。少年の腰にはたくさんの鍵が束になって、彼が動くたびにジャラジャラと音を立てるのだ。まっすぐに姿勢よく真島の前まで進み出ると、一度頭をさげた。


 「立てますか」
 「……」
 「支えましょうか」

 少年の日本語は流ちょうだが、時折大陸の言語の、特徴的な音が混ざるときがある。変声期中の詰まった声をしている。真島は少年を観察していた。何もしゃべらない男に手を差し伸べる。壁に背をくっつけて、地べたに沿って座っている姿勢から、少年の手を掴む。小さな手をしている。肌のきめが細かく柔らかい感触で妙な違和感を感じた。

 「なんや、お前」

 そういいながら立ち上がるが目が眩んで鈍麻ゆえの浮遊感でよろける。真島の体をぐっと脇から体を入れ支えてくれるおかげで倒れることはしなかった。非力ではない様だった。

 「体重を預けて、歩いてください」
 「あぁ…、おおき、に」

 頭一つ分以上の身長差があるが筋力が強いのか支柱にされてもびくともしない。一歩、二歩と歩いていくと次第に平衡感覚が戻ってくる。

 独房の外の廊下にでた。廊下の頭上には豆電球程度の灯りが、数メートル間隔に吊るされていて、光源が心もとない。天井は低く、真島が普通に立って数センチで天井につくほどだ。

 電球に当たらないよう、避けながら歩かなくてはならないので姿勢を低くする。おそらくこれも、苦痛を与えるための工夫だろうと思えてならない。

 「……どこ、いくんや」
 「食事か、入浴…どちらにしますか」
 「……、は? 自分、なんて言うてるか、……わかっとんのか」
 「食事か、入浴どちらにしますか」
 「だから、そうじゃ…」
 「食事か入浴」


 ここは、あの嶋野も示唆した『地獄』の穴倉のはずだ。拷問官がいて、拷問を受ける裏社会の最下層の世界だ。それなのに、なぜそんな言葉が出てくるのかわからない。
 少年は何度も繰り返す。食事と入浴。真島は何かの隠語ではないかと考えつく。しかし隠語だとして、真島にはわかるはずもない。だからどちらを選んでも何かの拷問が始まる確信を持った。

 「……風呂」
 「…フロ、…入浴ですね」

 熱湯を吹っ掛けられるか、冷水を吹っ掛けられるか。そんな予想を抱えて、真島は少年に支えられながら『入浴』に向かった。
 そこは銭湯のような、タイル壁に囲まれた場所だった。灯りはなく、窓はもちろんない。湿気がこもるため、タイルの端にはカビが生えている。大柄の男が一人体を丸めて入れるだけの浴槽にはもくもくと湯気を立ち昇らせるお湯が張ってあるだけで、シャワーや風呂桶や椅子はない。その類のものはすべて凶器になる可能性があるからだろう。

 「座ってください。それから、脱いで」

 指示通りに真島はタイル張りの床に座る。上半身は裸だが下半身はちゃんと着ている。それをやや不自由しながら、スラックスと下着を脱いだ。

 すると「両手を出して」ともう一つ指示が出される。懐から手錠をだして真島の両手にかけた。少年は一旦風呂場から立ち去ってどこからか手ぬぐいの入った桶とスポンジを持ってきた。

 桶で浴槽に張られた湯をすくうと湯加減を確認している。少年の反応からするに普通の温度のようだ。その湯を真島の体に少しずつかけていく。温かかった。少年は腕まくりをし、スポンジをもって丁寧に真島の体を洗った。その手つきは優しい。髪も他人に洗わせないようなところも湯で洗われる。

 「目、痛みますか」

 少年の声に抑揚はないが、音がまろやかなせいで優しく聞こえる。真島はふるふると頭を横に振る。
 顔を手ぬぐいで拭うように、少しずつ清めてくれる。いまだに、なぜこんなことをするのか、真島には理解できない。今恐ろしいことがなくても、この後に何か起こる。いっそ起こったほうがマシだと思うくらいに。

 「なぁ、あんた、なんでこないなこと…する、んや」
 「……」

 少年は寡黙で、必要最低限の会話しかしない。そういう規定だとしても、真島は何度か言葉を繰り出した。話し合うことはできなくても、少年はすぐそばに、目の前にいて真島の言葉を、言葉でなくても音を聞いている。相手がいるだけで、十分だった。

 「なあ、嶋野っちゅう、……俺の親父なんやけどな、知っとるか」
 「……」
 「俺は兄弟のとこに行かな、あかんのや…兄弟、冴島の兄弟は…どうなったか、わかるか」
 「……」

 少年は黙々と、体を隅々まで洗うだけだ。真島は諦めた。
 お湯を何度かかけられると、それで終いになった。お風呂セットを抱えてまた外へ消える。大伴のタオルを取り出して、真島の体を拭き上げた。

 「他のやつにも、こないなこと、してるんか?」

 ふと沸いた疑問にも、もちろん答えなかった。タオルを浴室の外に出して、脱がせた衣類を身に着けさせると、両手の手錠を外した。

 真島に手を貸して、もう一度立たせる。独房を出た時よりも体が軽くなっていた。少年の右手に掴まれながら浴室を出る。ぺたぺたと土で固められた廊下を裸足で歩くと、洗われたばかりの足裏が真っ黒に汚れた。ずっと閉口していた少年が、振り返らずに「食べますか」と聞いた。

 「……は?…なんや、飯……?」
 「食事、しますか」
 「……おう」

 次こそなにか仕掛けがあるはずだ、と考えて思わず、硬い声が出た。ジャラジャラと腰から下がる鍵の音に誘発されて、食事場所に向かう道すがら、鉄扉に突き当たりする轟音に真島の身が竦んだ。

 少年は何一つ取り乱さない。規則正しく前を歩く。
 食事場所に着くもそこはやはり質素な場所だった。地面に打ち込まれた鉄製の椅子が三つ等間隔に並べられているだけの部屋。灯りも窓も相変わらずない。

 椅子の恰好だけみれば、死刑囚の最期の電気椅子を彷彿とさせる。真島は浅い息を吐いた。乾燥した唇を舌で舐めて湿らせる。すうっと感じる冷感に生きていることを生々しく感じた。

 「手を」

 少年がまた両手を差し出すように促す。手錠をまたかけられ、好きな椅子に座るように指示される。

 「なあ、なんで…」

 とりあえず入口に近い椅子に座る。真島は少年を見上げて、『なぜ、最初から手錠をしないのか』と尋ねようとした。外したりつけたり、この少年のことだから規律正しいはずなのだろうが、不可解だからだ。

 すると食事準備に入ろうとしている少年の背後に『悲鳴』がやってくる。食事部屋の扉が、ガンッと荒々しく開いた。少年よりもはるかに長身で痩せていて、ただものではない雰囲気を纏っている男が、荒くれ者の首根っこを掴んで部屋に投げ入れる。軽々しくボウリングの玉を転がすように投げられた男は、目の前に立つ少年を視界に入れると泣き縋った。

 「助けて、助けて、くれよう! 嫌だ! 飯もお前の手から食べさせてくれえ! こいつ、さっきぃ、む、む、虫をぉぉ、あぎゃあ」

 芋虫のように這いずって、少年の足元にすり寄るがそれを許さず、容赦なく痩身の男の打擲が始まる。握られているのは長い鉄の棒だがよく見ると熱気を放っている。

 熱い鉄に嬲られているのだ。十回ほどそれが続くと声が出なくなった。しかし死んだわけではない。目の焦点は定まっておらず、それでも必死に見上げて少年が助けてくれることを乞い続けている。

 少年は何も言わず、芋虫の男の体を跨いで部屋から出ていった。少年を隔てていたせいか眼中になかった真島に気づいたのだろう、転がったままの男は椅子に座る真島を見ると何か言いたげな顔をした。唇がふるふると小刻みに震えている。『いつかお前も俺のようになる』と聞こえた気がした。

 痩身の男が首を捕まえて男を立たせると、真島の隣の椅子に座らせた。少年が部屋に戻ってきた。二人分のスープが鉄トレーにの上にある。それを下に置いて、スープの入ったお椀とレンゲをもって真島の右隣に来るとカチャカチャとレンゲでスープの中を混ぜてから、すくった。

 先に一口を少年が口に含む。どうやらそれは毒見行為で、毒が入っていないことを教えてくれているようだ。

 「口を開けてください」

 言われたように、そっと開けば口筋が軋んだ。スープを零さないように少しずつ運ばれてくる。鼻腔に上ってくる『人間が食べてもいい匂い』に、真島は忘れていた、空腹という感覚を取り戻し、喜びを覚えた。

 それを欲しがっている。味なんかどうでもいい。液体が、飲んでもいいものが体の中に流れていく。それだけでいい。もっと、次の一杯をはやく口に運んでほしいとは言えない。きっと今の自分は飢えた野良犬のように無様だろう。

 スープの残量がお椀の底が見え始めたころ、隣にいた男の絶叫によって人間の尊厳を回復する食事の快感から、現実に引き戻される。


 「ひぎ、いいいいい」
 「――――!!」


 痩身の男が日本語ではない言葉で何かを叫んだ。そして座った男の股間に灼熱の鉄棒で押し潰すと、ガチガチガチと奥歯が鳴った。男は目をひん剥いており、真島を、少年の方を向いている。いっそ睨んでいる。恨みのこもった、鬼の形相だった。

 動じずに機械的に真島に給餌する少年はやがてスープがなくなると、お椀を逆さにして『からっぽ』と証明してから鉄トレーの上に置いた。隣の男はついに暴れ出した。咆哮が部屋中に反響する。

 瘦身の男が暴れる男の背後に回り、首の根を腕で抱え込む。「あが、あがが、あぐぁ」と叫びすらも封じられる。少年はまだ残っていたもう一つのスープを持つ。それはもう一人の男のものだ。しかし、少年は真島の傍らに立った。


 「あんた、それ」

 『毒見』をする。そして、もう一度真島の口元まで運んだ。先ほどの量で腹が膨れるわけがない。
 『欲しい、欲しい!』と体が求める。
 口を開けばいい。開けばスープを飲める。簡単なことだ。こんなに、簡単なことがいきなりできない。真島の良心が、隣の男の大切な食事を奪うことを拒んでいた。目をぎゅっと瞑った。


 口先の熱が引いた。薄目を開くとその一口は少年が飲み込んだ。そして隣の男の近くに寄る。ためらうことも一切せずにスープを顔の上に浴びせ掛けた。


 「あぎゃああああ」


 それは断末魔だった。
 男は絶命した。

 白目をむき、食べさせてほしいといったスープは辛うじて開いている口の中に入っている。壮絶な最期に真島は目を背けられなかった。なにより先ほど自分の体をやさしく清めてくれた同じ人間とは思えず、これが畏怖を抱かずにいられるだろうか。いや、ちがう。彼はあの男の望みを叶えただけなのだ。

 「立ってください」

 何にも動じない静かな声が頭上から降ってくる。血の通っていない人間。真島はそう思った。
 死体を痩せた男が引きずっていく。ズリズリと引きずられるただの肉塊になったそれは、ついさっきまで生きていたのだ。

 真島は独房に戻された。武闘派嶋野組でやっていくうえで肉体には自信があるほうだが、拷問の種類が違うのだろう。痛いのは体ではなかった。

 手錠を外されながら真島は考える。自分よりも小柄で、拳で殴ればこちらが強いはずのこの少年に、手を上げられないことだ。チャンスはいくらでもある、今も両手が自由になって、きっとこんな小さな頭も、細い首なんかも簡単に折れる。それができない。あの男の分のスープを飲めなかったように。

 悔しくて、悔しくて、ぎちりと拳を握った。


 「嶋野さまが、明日いらっしゃいます」
 「は…?」

 唐突に口を開いたかと思えば、彼から嶋野の名前がでた。真島は少年をみる。闇と同化し、一切の特徴を掴めないそれは、今なにを考えているのだろう。嶋野が来るならば、ここから出られるかもしれない。期待と、冴島の安否を案ずるがゆえの衝動が、堰を切ったように溢れた。

 「親父、親父が…ッ、ほんまに、くるんかっ。兄弟、冴島は、…冴島はぁ、どうなったんや」
 「……」
 「ほんまに…っ」

 真島は少年の襟に掴みかかる。石のように重く、振り払うことをしなかった。『嶋野』の名前を知っているということは、内情や真島の情報も少なからず知っているはずなのだ。

 少年はまるで、そこに何もいないかのように、遠くを見るだけで、取り合うことをしなかった。

 冴島の話も、彼の安否も。自分の知りたい答えを知っているはずなのに、何を問いただしても適切な答えは得られないということを、無言で教えてくれている。少年の掌の上で転がされていると知りながら、何度も話を強請った。


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