第四章 蠱毒の褒章@



 草木も眠る静謐な夜。濃密な深い木々がジャングルのように生い茂り、そこはまだ香しき花の都。香りの都の森ーー。



 1981年10月 


 闇夜に紛れて二人の男と一人の少年が新しい大地へと降り立つ。海の潮と白昼の熱気によって、蒸された香辛料のような、独特の香りが三人を出迎えた。紅白と原色を差し色に、漢字だらけの煌々と輝くネオン看板が氾濫し、はっきりとしたコントラストから浮かび上がる街のガラクタたち。所狭しとひしめきあう人々の熱気。狂騒。

 ガラクタの中の人の群れに紛れ込むととある屋台の下に入り込んだ。鼻につくのは、食べ物から食べ物のにおい。海鮮の塩っぽさが香辛料をまとい、粉物に包まれ蒸されている。一角にある小さな丸いテーブルを囲んで三人は立った。この中で一番背の高い男が女の店員を捕まえる。程なくして三つの茶器と大きめの丼、茶の入った白磁の急須が用意される。

 目尻が鋭く、狐のような面立ちをした男が、空の茶請けに急須にたっぷりと入った茶を淹れる。茶器を順繰りに洗い、それを丼へ移す。少年は静かにその様子を見つめている。白い茶器の中にいよいよ茶が注がれ適切な量を満たす。

 目尻の鋭い男が右手の長い袖を捲ると、それに倣って長身の男も腕を捲くった。丸いテーブルの中心に拳を突出す。二人の四つの瞳が小柄な少年へと向けられる。乱雑に切り揃えられた黒髪は乾燥し傷んでいる。日焼けと 海水の塩分により脱色し、やや赤みを残した茶色い箇所がある。瞳は遺伝的要因なのかやや青みのある暗い瞳。陽に無防備にさらされ、鼻梁や頬にはそばかすが散り、独特な容姿に、それがアジア人であっても様々なルーツを持つ混血児に見えただろう。

 『イン』

 目尻の鋭い男がその酷薄そうな薄い唇で少年の名前を呼ぶ。インと呼ばれた少年の左右に並び、同じテーブルを囲む二人の視線を眺め見て、少年は右手を晒した。細くしなやかな、綺麗な手をしており肉体労働の形跡もない。つんと拳が突き出され、ようやく準備が整った様子で目尻の鋭い男は、断片的に音を発する。

 少年には耳慣れない音であるが、大陸側では音の階調や節が重要で、漢字では同一であってもその種類はいくつかに分岐する。

 音をいくつか発した後、突き出した手を、複雑な指の形に数度変える。背の高い男もそれをやり、また少年は促される。男たちよりも慣れぬ所作で指の形を変えて、また拳を突き出す。

 目尻の鋭い男は『義!』と唱えると、右手をすとんと下ろして、そのまま並んだ茶器の中から自分の位置に最も近いものを手にして、一気に呷った。同様に二人目の男がそれに続いた。少年もそうする他なく、『義』と唱える。下ろした手で茶器を持つと熱々で、中の茶も相当に熱い。体の内側、食道が火傷しそうなほどの熱湯を通し、『儀式』は完了した。


 誰も彼も、我々に気を配ることをせず。少年、『王吟』が香港に上陸したのは、あの島でこの男たちに拾われて数カ月が経過した十月のはじめだった。


 


 『よい香りの港湾』という土地柄、その香料の原材料になる香木などがある。地形は険しく、傾斜の多い山地の数々。吟が最初に上陸した香港島のほとんどは埋立地で、気候は亜熱帯の高温多湿である。夏の時期までは天候の読めない日が続くが、十月以降になり、ようやく過ごしやすくなる。『儀式』を終えてからほどなくして吟は二人に連れられて、市街地から約十キロ離れた山間地へと向かった。
 
 チャイニーズ・マフィア、秘密結社、中国地下社会を牛耳る組織。様々な呼ばれ方があるなかで、この『藍華蓮』もとい『ラン・ファーリエン』は表社会の顔があった。組織の新顔としてアジトに住み込むことになった吟の仕事は豚の屠殺。次に飼育している鶏の血抜きをし料理を作る。それから茶を淹れることだった。兄貴分である大哥(ダ)たちがついてこいと言うなればその仕事に従事した。仕事は採石や工業鉱物の採取、森林の管理などで表向きには何ら問題のない事をしていた。

 地下社会の入り口は山ではなく、彼らの管理をする街中にあった。

 二人の直系の兄二人を、王汀州(オウ・テイシュウ)と王泰然(オウ・タイラン)といった。夜になると彼らは吟を連れて香港の地下を見せた。鮮やかな赤い照明がそこかしこに輝き、薬箱を開けた時に漂うような香りが充満した街。女たちの嬌笑、男たちの興奮と咆哮。豊かな獣の街。酒を浴びるように呑み、薬に耽溺し女に快楽する。目眩を覚えるほどの欲望がそこにはあった。

 兄のうちの一人、王汀州は彼らに薬を売り、それから、用意した女を抱かせて金を搾り取る。金を底まで吸い上げると次は、その男たちを地下の世界の餌に変えてしまう。餌とはいうなれば暴力のショー、そして殺人。殺人の次は最後は『身ぐるみ』をすべて剥いで、中身も骨も、すべてを金に換える。徹底的に絞り上げて、一番最後には跡形もなくなる。消えた人間の戸籍も名前も組織の手中に収められるのだ。

 『イン、怖いか。なにを怖れる。おそろしいのは、欲望に溺れる人間だ』

 地下奥深くのステージの上で行われる殺人ショー。壇上には王泰然がいた。大鍋に素っ裸の男たちを沈めて蓋をする。それだけではおもしろくないために、華やかにも『解体ショー』も披露するのだ。吟の隣で王汀州はそれらが、昼間に吟が行った豚や鶏の屠殺と同じことだと諭した。『なぜ、彼らが同じ人間というだけで、尊ばれる必要があるのか?』と彼は笑った。

 『この世は、弱肉強食』

 数ヶ月で日本語をあっという間に吸収し、発話はほとんど難なくこなせるようになった王汀州の野望は、金でも女でも権力でもなかった。
 その男が最も愛したのは『暴力』だった。それがわかるようになったのは、香港で過ごした時間よりもあとになる。

 吟の夜の仕事はもっぱら『後片付け』だった。
 残り滓はどうしても出てしまう。それをすりつぶして処理をする。今しがたそこにいた人間が、たった数時間で跡形もなく、この世界から消える瞬間に幾度も立ち会ってきた。次第に彼らは人ではなく、肉片に成り下がる。それは、吟の生まれたばかりの柔い心を瞬く間に摩耗させた。

 交友関係もなく、朝から晩まで準備や後片付けの仕事をして、そんな従順ぶりを称える仲間も現れだしたが、いきなり堂主(ダンズウ)らが連れてきた子供を気に食わない者たちもいた。王汀州は組織内にある一つの逸話を流した。それが結果として吟の存在を組織内に定着させるための材料となった。『蝿の王』であると。無人島に漂着した少年たちが、野蛮な獣に変貌を遂げる人間の生々しさを描いた物語になぞらえて、『王吟』という存在は創られた。

 こんな子供を、凶暴であるとした。

 


 


 王汀州が吟の三度の食事と一緒に、複数の薬液を打つようにと言ったのは年を越して数ヶ月が経過した頃だった。
 薬液の中身を『栄養剤』だと言った。組織の中で生きていくならば、従わないという選択肢はない。吟には内側に眠ってしまった『彼女』との約束があったからだ。その約束の主文とは、日本に帰ること。『彼女』は深い眠りにおち、肉体の主導権を吟に明け渡していた。
 吟に『彼女』の記憶を読み取ることはできなかった。穴の空いた空洞を埋めるようにして吟は存在していたし。吟自体は独立した記憶を保持していた。しかし、その薬液には記憶を混乱させる作用があった。服用を継続していき、いつしか『彼女』に認識が困難になっている模様。王汀州は薬液を用いて『洗脳』を行っていた可能性あり。注射痕は体の節々、下肢には内太腿に複数箇所に痕跡あり。

 
 二日目までに得られた供述内容を、かいつまんで並べていく作業をその日の事情聴取後に行っていた。いわばこれらはメモのようなもので、それから骨格を作り上げていく。ただ、供述内容があまりにも現実離れしている箇所があるため、これに取り組んでいる最中も『小説のプロット作り』でもしているような気分になった。完成した骨格を元に、彼女の実際の様子から心理的な紐解きを行う。今回の場合は『おそらく、そうであっただろう』というレベルの推測の領域までしか到れないが、精神や心理というもの自体がそもそも曖昧な世界なのだから不完全なのは仕様がない。
 


 東都大病院・精神科、特別研究室。


 室内には膨大な紙がうず高く積み上げられ、当人でなければ探し当てることが不可能なほどの業務が地層を作り上げている。ここはこの病院でも世間でもまだ始まったばかりの臨床心理士資格を有する希少かつ有能な医師の巣窟、いや魔窟ともいえる『住処』であった。特別研究室というのは名前だけで、病院内のいわば檻である。希少かつ有能であるのだから、この部屋の主には外部からたくさんの講演や訪問依頼が舞い込んでくる。しかし今の所すべて断っている。その代わり、他の医師に代打で行ってもらうことが多いため、彼女の知名度はその世界ではという限定的な留まり方をしていた。彼女ほどであれば、論文をあともう一本でも書けば容易に教授職にでもなれる。教授はたしかに偉い役職だが、『彼女が現場仕事を望んでいる以上は』というのが周囲の医師たちの言い分であった。


 書面上に並んだ聴取の文言の数々に、この魔窟の主である精神科医師の早見は深く重い溜息をついた。
 担当する患者、『荒川 涼』の事情聴取がついに昨日から始まった。十一年前の飛行機墜落事故からその後の足取りに、数ヶ月前に起こった事件に至るまでの詳述を、彼女の口から聞く。それははじめ時期尚早かつ困難を窮めると思われていたが違った。

 彼女は実に淡々とそれらを口にした。聴取は彼女のいる病棟のフロア内にある待合室で行われた。警察官が数名、検察官に事務次官、そこに早見が加わる形となり、先に禁止事項にあった事情聴取時間三十分という制約を、彼女本人が超過したのである。それには早見だけではなく、その場に居合わせたすべての関係者各位が驚愕した。同時に、それをまた疑うこともした。

 なぜならば、彼女の述べた事が『彼女の経験』ではないからだ。
 

 「まるで、小説の筋書きみたいだ」と警察官の一人、国際捜査課の石田が呟いた。それほどまでに『出来すぎていた』のである。事実は小説より奇なり、という言葉があるが、全くその通りなのかもしれない。


 まず、彼女は事故の後に共に生存していた兄を漂着した島で亡くした。それについてはまだ詳しいことを話したがらなかった。その島には二人の男らが先にいて、彼らに『助けられた』という。彼らは中国人でお互いの言葉を教え合うことで関係が築かれた。二人の兄弟は『王汀州』と『王泰然』といって、しばらく島に留まっていたが、十月に本部のある香港へと連れられていったという。

 その段階で、彼女に一つの変化が起きている。『彼女』、つまり『荒川 涼』本人は『眠ってしまった』と語った。そして、彼女の中でもうひとりの新しい人格が、彼女の体や思考の主導権を得て活動していたというのである。その人格の名前を『王吟』とした。島にいたころ、彼らから与えられた名前だそうだ。一般にそれを、解離性同一性障害ということを指す。『王吟』は眠ってしまった『荒川 涼』がそれまで培ってきた記憶をすべて閲覧できる状態にはなかった。お互いのうちどちらか片方の意識が表層に出てきている時にのみ、その場の肉体の総ての主導権を得るというシステムは、事例として実在する。

 解離性同一性障害はおおよそ、多重人格や二重人格と言われる事が多い。自分が自分であるという感覚が失われている状態で、たとえば、ある出来事の記憶がすっぽり抜け落ちていたり、いつの間にか自分の知らない場所にいるなどの事が起こると報告されている。
 つらい体験を自分から切り離そうとするために起こる一種の防衛反応とよばれる。


 簡単に説明するならば、『王吟』が活動をしている時に、『荒川 涼』にはそれがわからないのだ。たとえば、『王吟』が食事をしていたとする。その間の彼女は食事をしていたことも、食べた内容もわからない。反対も然りで、つまり二つの人格は凸凹になり、どちらかに記憶の穴のある箇所が存在するというわけだ。

 つまるところ、『荒川 涼』には大半の正確な記憶がないといえる。

 では、なぜそのわからないはずの片割れの記憶をこうして口述できているのか。彼女は『夢を視た』と述べた。『荒川 涼』は『王吟』を彼と呼んだ。もちろん、彼に実体はないため精神上の性別である。過酷な状況を耐えて生きた彼の姿を、『夢で視た』のだ。夢の中で、自分とそっくりな彼が様々な事をしている様子を上から眺めている状態だという。臨死体験で自分の中から自分がでてきて、見下ろしているという話を聞くがそれに似ている。

 『荒川 涼』は俯瞰的にみた『王吟』の活動の一切を、後発的に視た夢の中で知ることができた。
 逆に言えば、その当時に『王吟』がどのようなことを考えていたかという、心情まではわからないのだそうだ。

 『王吟』と『荒川 涼』が両者ともに実体を伴って会話は不可能である。ただ最初と最後の二度だけ、彼の方から話しかけてきたと述べた。
 それは囁きのようなもので、眠りに入った時から次に目覚めた時まで彼女の体感時間は、肉体の体感時間よりも、少ない。『王吟』は日本に戻ってきてしばらく活動していたが、彼もまた摩耗していった。それを彼女は『死んでしまった』としている。
 

 『王吟』は島に滞在していた頃に、自分の体がどのような状態にあるか知る機会があったという。
 島の施設の中にあった医学書でそれを自己認識に至ったそうだ。まだ精神医学は世界的にも未発達であった時期に、その医学書が揃えられているというのは引っかかりを覚える。それは早見だけではなく国際捜査課の石田も同様だった。事故後にどこの島に漂着したか捜査に入ることになるだろう。
 
 
 このような供述を、本来は三十分で終えなければならないところ、三時間かけて彼女は話した。
 物語の筋を諳んじるように述べた事柄はやはり信じ難いもので、同席した捜査第一課の警部補である村波は事情聴取後に『嘘を言ってるに違いない』だの『頭がおかしい』だの言いたい放題であった。話さなければ話さないで文句を垂れるはずだろうに。彼女は初日にして、しっかりと協力してくれたのだ。



 「早見先生の鑑定結果次第ですが、今日のところでいかがでしょう」

 そう発したのは検察官の多田であった。その問いの意味とは『荒川 涼』に刑事責任能力があるか否かというものだ。
 被害者と被疑者、両面で彼女の裁判における係わりをすべて担う検察側としては、性急ではあるものの先に聞いておきたいのだろう。早見はヒアリングしたばかりの内容をやはり初日の段階で決定づけるには早すぎると思ったが、彼女の二重人格に至るまでの細かい理由付けについてはもはや『飛行機着水事故』だけでまかり通りそうな勢いである。

 事故のショック、あるいはその後起こった彼女の話したがらない部分。おそらくそれは実兄の死が関与していることと思うが、十分に彼女のその防衛反応が発動していて、彼女ではない別の人格が『代わり』になったことは間違いないのである。それら一連を、『荒川 涼』が心神喪失状態であった、とするならば法の裁きの下に『責任無能力』とされ、罰されることはない。
 
 『王吟』の行った一々は結果的に教唆や強要にあたる。『荒川 涼』はあの島で彼らに『助けられた』と述べるが、認識を歪めている可能性も捨てきれない。彼女の発言は正しいが、正しくないときもある。日本に帰ってきて覚醒した彼女についての仔細は後日持ち越しとなるが、『夢でも視ていない部分があるかもしれない』という不安げな事を呟いていた。

 その夢で視るという行為は、言い換えれば『王吟』の記憶であり、彼の意志が加わっているとするなら、彼女に明かしていない瞬間も存在する可能性は大いにあるし、もし彼の認識が歪んでいた場合、白いものを黒と認識していた事も当然ある。『荒川 涼』の事情聴取は結果的に、『王吟』の記憶を参照した事柄を述べているに過ぎないのだから。


 押し黙った早見に検察官の多田も溜息を漏らす。
 事情聴取自体はうまくいったといえるが、彼女の奇天烈なものを担保できる事実確認を行えるのは、被疑者である組織の長だけだろう。

 物証もなく、あるのは彼女の主観的な言葉でしかない。問題はキーマンである、王汀州がどこまで尋問に答えるかどうかだが、期待はあまりしていない。真島吾朗とその王汀州がどのような因縁があるのか。最も危惧すべき状態というのは、次は『王吟』を喚べという事が起こった場合である。
 『王吟』もとい『荒川 涼』のことであるが、真島ですら応じないという事態になれば、彼女の出向もやむを得まい。もちろん患者の意思が優先されるが、その時彼女に対して、警察側の圧力が増すだろう、という想像は容易であった。


 しかし事態は早見の憂慮を裏切るようにして、好発進を続けるのであった。
 事情聴取は連続して七日間行われ、彼女のいた海外だけでなく、国内の犯罪ルートも明かしたのだった。これには、彼女をせっついてやろうと悠然とした態度で構えていた警察側も、次の瞬間からは激務に見舞われ、そんな暇すら与えられないものとなった。
 国内犯罪で彼女の供述の一部でも正確に検分可能であれば、海外での供述内容の保証にも有効ではないだろうか。すくなくとも心証は変わるであろう。早見は七日目の事情聴取後にドクターストップをかけて、一旦保留を決定した。事情聴取時間は合計、五〇時間と三十六分。
 精力的な捜査協力に、医師共々頭が下がる思いである。

 早見はこれらをまとめた資料をプロファイリングとして、王汀州の尋問へ臨む真島吾朗へ引き継ぐことにした。


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