第四章 蠱毒の褒章A



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 1993年 2月10日


 二月も初旬を抜けようとしている頃、列島には冬将軍が到来していた。
 新聞からいよいよ表向きに報じられている事故の文字が消え、米国に新大統領就任の国際ニュースがトップを飾り、それに類似なるニュースが席巻している。時間が経過した味噌汁を撹拌した時に雲状のものが水面下に生まれるが、同様に事件も水面下で起こっている。それは確実に広がっていて、日本だけでは済まない予感がすでにあった。

 特殊仕様のワゴン車は運転席と後部座席・八席の間に仕切り、左右の車窓を覆われ光が少ない車に揺られる。当然、真島の座る席でも採光が取れず、光源は上部にある室内灯のみである。拘置所への召喚に応じ尋問役を請け負ったため、事前に早見が作成したプロファイリングを読み込んでいるというわけである。

 プロファイリングとは直前に行われた、涼の事情聴取内容からあげられる事柄を上手くまとめた情報である。今回の尋問で最も争点となるのは、その供述が本当であるかどうかの真偽の判断がつくこと。国内における犯罪行為の裏取り、あるいは供述を求めることであった。


 本来その仕事は警察や検察の仕事だが、手の施しようがないため真島が呼ばれている。真島にしてみれば、ある意味で同業他社の犯罪の披瀝を明かせと迫るわけで、不格好なものである。表向きに、王汀州との関係もそのついでに真島の披瀝も炙りだそうという警察側の思惑を背中に感じる。つまり、一つの器の中で競わされることになる虫のようなものだ。

 そのせいもあってか、うかつに話せず、高度な心理戦が行われることとなるのは目に見えていた。すでに心中憂鬱である。武闘派である己がどうしてこんな頭ばかりを使わされるのか。それでもこうして応じているその答えは単純明快で、彼女のためである。彼女が七日間・五〇時間超過で事件解決に寄与した以上、こちらも相応に尽くすべきだろう。


 昼過ぎ。拘置所に到着した。敷地内に入る際も視界を覆われる。接見禁止措置でどこの拘置所か、周辺に何があるのかそれを知ることで脱走を手助けしかねないことなどにより、館内に入る瞬間までその場所への情報を遮断される。そもそも拘置所には暴力団の面会は許可されていない。一般的に逃亡幇助や事件などにおける証拠隠滅を防ぐために、通常のときでさえ訪れることはありえない場所である。

 真島が入るとするなら良くて留置所か、悪くて使用者責任の罪に問われたときだろう。




 館内のとある部屋に到着したとき、ようやく視界が開ける。
 そこは、簡素なコンクリートが打ちっぱなしの部屋だった。パイプ椅子が一つ置かれていてその他には小さな窓があるだけの無駄のない室内に、調書作成のための書記が一人立っている。室内をぐるりと見回して、まだそこに張本人がいないことを認める。

 「座ればええんやな?」

 書記に向かってそう尋ねると「そうだ」と返事した。室内のどこかに透視鏡があるはずだが、それを知る方法はない。真島を連れてきた警察官は静かに部屋から退室した。素直に青いシートに腰を落ち着けると、何度も確認したプロファイリングをパラパラと捲った。

 早見の英語の筆記体のように滑らかな文字が、紙面の上に並んでいる。内容は、涼の七日間に及ぶ事情聴取の内容を総合的にまとめたものであり、司法における彼女の処遇は仮に、事件を起訴なされる事があっても『当時の精神的状況を鑑みるに、心神喪失からそれに伴う解離性障害を誘発し得る状況であったこと。またそうであった事を自供していること。事実上、被害者および被疑者に刑事責任能力を負うことは妥当ではない』としている。

 七日間のうち、四日目以降は国内の余罪について供述が始まっていて彼女は『穴倉』の存在を打ち明けた。『穴倉』の所在地は関東圏内の某郊外の山側。関東平野の奥にある。戦時中の防空壕を利用して作られた場所であるとの事。警視庁が一昨日にも動き出しており、その日の段階で『穴倉』は発見されたが中はもぬけの殻で、人っ子一人いなかったそうだ。昨日には内部の残留物や鑑識・鑑定を行い、血液反応が多数あったこと、皮膚片の残骸、毛髪、爪や薬物の使用痕跡から『穴倉』では極めて違法性の高い行為があったことを認められた。


 今のところ嶋野と関係のある何かしらの証拠は見つけられていないが、場合によっては事態の甚大化は免れまい。


 涼の自供はその他多数に上る。
 国内の貿易ルート、売春、密入国、薬物流通経路。警察の手を煩わせる事なく、情報提供を行っている。事前に早見ともども憂いていたことが全く馬鹿らしくなるほどに。警察側もそれは願ってもいないスムーズな展開に、各管轄今は猫の手も借りたい程忙しいそうだ。
 警察が動き出せばそれはいずれ『藍華蓮』にもそれが伝わり、王汀州周辺への動きが活発になる。それはせっかく始まろうとしている平穏な日常への妨げになることは明らかだった。

 そんな思案も、扉が開かれたことで霧散する。真島は、静かに待ち構えた。車椅子の車輪が目に入った。それがゆっくりと押されて部屋へ入ってくる。車椅子の上に座る男は刑務所服の上に硬いベルトを幾重にも巻き付けられ拘束されていた。随分と痩せたように思う。元々の化かした狐のような面立ちが、さらに細く鋭さが増している。男は長い黒髪を女のように伸ばし、それがかつての真島の姿に酷似していた。


 王汀州。正式名称、中国秘密結社『藍華蓮』(ラン・ファーリエン)分派の長。彼の構成員だけで世界規模では数万人を優に超える。香港裏社会を牛耳る組織所属なだけあって、主導する犯罪は多岐にわたる。

 そんな男が極東のこんな小さな拘置所の狭い部屋の中に捕まっている。裏社会ではさぞ大スキャンダルになるだろう。真島は努めて冷静に切り出した。

 「……久しぶりやのう。来たったで」

 かつて、『穴倉』で真島に地獄を見せた男である。嗜虐の恍惚に満ち、まさに彼は『穴倉』の絶対的王者で、異国の島国で獣性を発揮する、彼こそが『蝿の王』であった。今はその過去の状況から全く反転している。
 真島が『尋問官』で、彼は『受刑者』である。

 王汀州はこれまで沈黙を貫いてきたが、真島と話がしたいと呼び寄せた。事件の進展には真島の協力なしには不可能であると警察もそう判断した。『受刑者』は真島のほうを睨んだまま微動だにしない。このような膠着状態が数カ月続いていたのだろう。真島は「それで」と視線を意に介さずに続けた。

 「なんの用や。……あんたのせいで忙しいんやで、こっちは。おちおち寝てられへんのや。どうやその足、ひひ。……まだ痛いんか?」
 「ーー小猫」

 王汀州はそう呟いた。調書作成のためにいる警察官が身を固くした。中国語は堪能でもちろんその言葉の意味が理解できないわけではなく、何を指す言葉かがわからないという様子だった。真島は、書記の方を向いて『後で教える』と唇の形だけで伝える。

 「小猫」

 今度はくっきりとその言葉を発する。真島の脳裏には冬の冷たい風と鉄骨の側面で寒さに耐える彼女の姿が蘇った。警察に捕縛されて以降、この男に何ら情報が与えられていない事は、事前に手渡された書類の中にも記載されている。

 (タマ殺る気やったくせに、何をいまさら)

 真島は心中で呆れた。
 王汀州へ思うことがあるならば、『虫がよすぎる』ということだ。あれは、真島の詰めの甘さも原因である。あのとき右腕でも折っていれば、せめて。いや、ちゃんと、殺しきれていたならば、まだ違った結末になった。彼女を狙撃しようとしたことは覆らないのだ。

 小猫、もとい涼の安否を真島に問うている。一見冷酷な男が女の生死を気にしているというのは、憐れにみえた。王汀州が気にかける存在だったこと、すなわち心の中に存在するということが気に食わない。

 真島は想像する。今この男に餌を食べさせて吐かせるか、お預けにするか。涼の安否を教えれば、セキュリティ万全なこの拘置所でも、万が一仲間へ伝播される可能性はある。なんせ相手は数百年以上の歴史を持つ青幇を前身に持つ組織なのだから、協力員はたとえ日本であろうともそこかしこにいる。警察組織に内通者がいれば筒抜けだ。しかし現に涼の安否については、本当に何も知らない様子だから内通者は『まだ』なのかもしれない。

 真島はリスクを取って餌を与えてみる事にした。というのもその万が一のために自分はいる。毒を食らわば皿まで。猛毒はすでに、裏社会を、表社会をも揺るがすべく細かいところに、染み渡っている。王泰然という毒を逃してしまった以上は、『何も起こらない』ことは『ありえない』のだ。


 「小猫は生きとる。ずいぶん可愛がっとるみたいやのう。意外も意外、びーっくりや」

 王汀州はじろりと、わざと戯けてみせた男を睨めつけた。堅苦しく真面目な空気はもう少し若ければとりなせただろうが今の真島には窮屈だった。この際、二人の関係を暴いてみるのもおもしろいかもしれない。そんな思いつきを実行してみようと、にやりと笑ってみせる。

 「いらんかったんやろ? 殺ろうとして、始末をつけられへんで、……それを俺が拾うた。せやから、拾うたもんを寄越せいうんは、通らへんで」
 「貴様」

 地を這うような牽制に、拘束された男は犬歯を剥き出しにする。「おお、こわ」と、肩をすくめておどけてみせる。神経を逆撫でて、態度が一貫であればもう少しやり方を変える必要がある。前のめりになってもうひと押しと浴びせかける。

 「女のケツ、追いかけとったのが運のツキや」

 王汀州はふんと一つ鼻で笑い飛ばした。それから小刻みに肩を震わせて伸びやかな哄笑へと変わる。それは犬の長い遠吠えを聞いているようだった。何かが乗り移ったかのような気味の悪さを伴っていて真島はともかく、その場に居合わせている警察官の顔には不安の色が滲んでいる。拘束具で動けないとはいえ、それを引きちぎってでも飛び上がりそうな勢いがあった。


 「お前、あの娘が好きやったんやろ」
 「真島吾朗……そんなくだらない話をするために呼んだわけではない」

 モリで一突きするように、核心をついた。おそらく正解だった。苦い。咄嗟の嘘をつくときほど饒舌になるものだ。

 「なら、なんやねん。こっちは山ほど聞かなあかん事があるんや。良かったのぉ、ここが日本で! こないな場所や、グーは禁止やし。優しく聞いたるわ」

 言いながら、立っている警察官を顎で指す。
 浅く座っていたパイプ椅子から一旦身を浮かせて、くるりと前後ろを入れ替えて背もたれを前に座り直す。バサバサと書類を背もたれの外側で叩いてぺらりと表紙を捲る。

 「はー、面倒やのぅ。……クスリ売ったか? 言うわけないやろ。こんなん、のお?」
 「……」
 「売春、密輸、密入国、………拷問」
 「……」

 まったくおかしな光景だ。違法者が、犯罪者に尋問を行うというのは。
 真島の脳裏にはある言葉が浮かんだ。

 (まるで、『蠱毒』や)

 同じ器のなかに虫を入れて競わせ食わせ、最後に残った一匹を呪詛の媒体に用いるという呪術の話を聞いたことがあった。それほどまでになくとも、同じ位のものを競わせて食わせようとしている事に変わりはない。

 棘のある視線が、黙秘を続ける男に刺さる。
 拷問、これに関して言えば真島は証人たりうる被害者であったが、その違法性を看過したとして嶋野への追求がなされることになる。王汀州の拷問は体に傷が残らないものが殆どで、いまさら立証は不可能である。

 涼が『穴倉』について詳述をはじめた場合でも同様である。証拠が不足している。現場に毛髪やDNA鑑定可能なサンプルがまだ残っていれば望みはあるかもしれない。しかし、真島が『穴倉』にいたのはもう四年以上も前の事である。そしてやはり、それを証明すると自分の親の首と組共々の締め付けを行ってしまうため良いことではない。


 「そうだ、小猫はお元気ですか。もう、うなされていないといいのですが」
 「あぁ?」
 「あなたは、彼女がまだ、身綺麗なままだとお思いですか。……三人も殺しているんです、と言ったら?」

 王汀州の急に見せた軽やかな発言に、傍らに立つ書記のペンを速く走らせる音が狭い室内にやけに響く。

 撹乱か、挑発か。指示さえあれば涼の殺人は簡単に工作できるぞ、という脅しか。王汀州はせせら笑う。彼女の教育の賜物である格調高い日本語の物言いは、どこか役者掛かっている。しかし、どれだけあちら側がでっち上げようとも、司法は教唆及び強要罪とするだろう。彼女の体には複数の注射痕が見つかっている。薬物使用は本人の意思ではなく、その環境がそうさせている。これは決して覆らない。
 だとすれば、これはこの男の与太話である。

 「三人も。……ようやったのう。どないして殺ったんや、チャカか、クスリか?」
 「毒だ」

 ほう、と真島は素直に感嘆を漏らす。毒物を用いた、毒殺。安全なやり方である。日本と違って死体処理が思うがままならば、際限はないはずだ。涼の第二人格があの『穴倉』での『王吟』であるなら、きっとその山場も踏み越えて形成された人となりと考えるのが自然である。今更、なにも驚くことはない。



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