第四章 蠱毒の褒章B




 子猫を拾った。
 
 綺麗な、まっしろな毛並みの良い子猫を。

 子猫には兄弟がいたが、間違って虫の餌にしてしまった。



 親猫とはぐれた子猫はもう元には戻せない。人の手を覚えると野生に戻すことのほうが危険なのだから、飼われている以上の忠節は欲しかった。しかし拾ったのは犬でもない。子猫といえど猫だ。気まぐれに応える。それも曖昧に、思わせぶりな態度をみせて、手を焼かせる。

 とっくに捨ててきた童心や、人を疑うことを知らない健やかさを憎むのと同時に、この子猫がどんな成猫になるのか楽しみだった。

 子猫にはまず、人の言葉を教えた。猫は人間の言葉がわかる。わからないふりをしているだけで、耳は傾けているし、名付けられた名前もわかる。餌は雑食なのだから、なんでも食べる。大人しいし滅多に鳴かない。粗相はちゃんと砂に隠すし、毛づくろいも自分でできる、躾けられた綺麗な子猫に『小猫』と名前をつけた。

 猫の世界には興味がある。ほかにはどんな種類の性格がいて、どのルールを運用し自分たちの縄張りを守っているのか。そして猫たちの世界は人の世界の近くにあるのだから、掌握するためには敵情視察は理にかなっている。まずは『小猫』と仲良くならなくては。人の世界を見せてあげようと、家に招待したら『小猫』はすっかり怯えてしまった。美しかった毛並みの光沢は失せ、痩せ、粗相も隠せなくなり、その悪臭を嗅ぎつけた人は拾ってきた自分に文句をつけるのだ。

 『あんなものは捨ててしまえ』と。

 困った、困った。
 人は猫のザラついた舌を持たないし、舐めてやることもできない。仲間は雑食なのだからと、虫を与えようとする。こんなことをしたら、綺麗な成猫に育たないだろう。人ができることは、『餌』をやることと、『ノミ』をとってやることと『遊ぶ』ことだけだ。人は『遊び』を教えてあげた。『小猫』は驚いたが、この世界で一番楽しい『遊び』なのだから、つまらないわけがない。

 『小猫』が『遊び』に慣れてきた頃、三匹の小煩い蝿がせっかく戻ってきた綺麗な毛並みにくっついた。それは、ブンブンと羽音を立てて飛び交う。『小猫』は払いのけようとするが、柔らかくしなやかな手を持ってしてでも蝿のほうが素早い。人は『小猫』に教えてやるのだ。

 『あいつらは、腐ったものに寄生する。だからそれを用意してやればいい。一緒に『薬』も置いてやろうな』

 『小猫』は人の言葉をわかっていた。
 その通りに蝿の好みそうなものを用意して、『薬』を用意して餌に蒔かせた。








 茶器がガチャンと音を立てて床に散乱する。一人の男が泡を噴きながら、悶え苦しみそのままバタリと床上に倒れ込む。仲間の一人が駆け寄るも、猛毒は一気に体中を巡り言葉を成形することなく遺骸へと変わる。最後の男は、その惨場から逃亡すべく、入り口の両扉を開きかけたところで盛大に吐血した。間抜けな最期に、王汀州はそれを少し離れた部屋から伺っていた。腹が捩れるほど笑った。

 吟はどんな顔をしているだろう。

 目の前で人が死ぬ。そんな興奮を、スリルを、味わえたのではなかろうか。
 やらなければ、やられていたのだから。あの三人は、老大(親)に取り合ってもらえなかった憂さ晴らしを吟へ差し向けたのだ。王汀州の歓心を買う、拾い物、『異邦人』に、老大も興味を示された。吟にはどうしても悪人を惹きつけてしまう魅力があった。自分たちが得られなかった、尊い人の、原初たらんとする、純真というものが剥き出しにあるような子供だった。

 そんな子供がはじめて『人を殺した』のだ、一刻も早く問いただしてみなければ。
 
 『吟、どうです? どのような気分です。……ねえ、吟』
 『………』

 うつむいた吟の顔を持ち上げる。夏の夜空の麓。深く美しい緑が揺らめく清浄な双眸があった。
 王汀州はその瞳が嫌いだった。あらゆるものを見透かしてしまいそうな、神聖な色を湛えているこの目が、嫌いだった。それは、人殺しのあとでも変わりなく、水面が波打つ様でいっそう、美しくみせた。

 気に食わなかった。頬を打った。
 その痛みでようやく、吟はこちらを認めた。瞳の奥に宿した畏怖が窺っている。腹の底からじわじわと上がってくる興奮に、なぜ気づかなかったのか。たったの今まで知る好機はたくさんあったはずなのに、その時になってようやく正体を確かなものとした。
 
 人殺しをしないと得られない興奮を、たった一度の打擲で得ているということに。
 吟の視線を、おそろしいと叫ぶ無言の声音を、聞いてみたいと思いはじめているということに。
 だから、もう一度、もう一度、と数えるのが馬鹿らしくなるほどに、打った。
 
 はじめてだった。どんな酒も、薬も、血も、女ですら得られない快感をもたらした。
 酒は狂わせるに能わず、薬は俗世からの逃避に役立たず、血は美しかったがいずれ慣れてしまった。女は柔らかいが死んでいないだけの肉に過ぎず、多くの男たちを狂わせる快楽が、自分には与えられなかった。機能不全の己を再び『人間』たらしめるには、この子供への『暴力』が必要不可欠なのだ。

 赤く腫れ上がった皮膚を醜いとは思わない。己には、聖なるひとなのだから。己の手から与えられる苦痛に歪む顔、それをもっと見たいと思うのは仕方のないことなのだ。





 『小猫』はそのとき、はじめて綺麗な声で鳴いた。

 それは人の心を奪った。こんなに美しい声を持っていたことを、隠していたのだ。それを外に出してしまえば、きっと奪われてしまう。高値で売り飛ばされてしまうかもしれない。人は手元にこの『小猫』を置いておきたいと思ったのだ。自分にさえ、聞こえればいい。けれど、どうやって啼かせようか。なぜならば、普通にしていれば大人しい子猫なのだ。人は考えた。『虫』に『薬』を食べさせればいいのだ、と。

 人の世界にも『虫』がいるが、猫の世界にも『虫』がいる。
 猫の世界の『虫』のほうが馴染み深いだろうし、新しい『遊び』にもなる。退屈な人の世界よりもそれがいい。きっといい。



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