第四章 蠱毒の褒章C


 一連の並び立てられた比喩を傾聴し、その場では真島だけが頷いた。王汀州にとって、殺人や暴力へ良心の呵責はない。恨みだとか、必要だからといって迫られてするものではない。『呼吸』をすることや『食事』をすることと同じだった。


 彼はジャンクフードばかりを食べていたが、自分の拾った『子猫』を美味しそうだと思ったのだ。その『子猫』を煮るなり焼くなり自由勝手にやってきた。

 日本へ来る理由も表向きには『仕事』だっただろうが、『子猫』に対する執着心や自の欲望に従ったのだ。彼は本心では快いと懐いている相手に『暴力』を行使することでしか快感を得られないのだ。『穴倉』で『子猫』の好きなように仕事をさせていたのは、『吟』に擬似的な『愛』を抱かせた者たちを嬲り、間接的な愉悦を享受していたと考えられる。


 「この国に戻ったところで、同じです。『遊び』の楽しみを知ったのですから。俗人に戻れるわけがない。血盟状に名がある限り、平穏などありやしないのです」
 「血盟、状…?」

 王汀州は口角をあげ鋭く尖った犬歯を見せる。

 「あなた方でいうところの、『盃』と同じですよ。我々は『義』を重んじます」

 真島は一笑に付す。今までの話をきいて、どこに『義』があるというのだろう。自らの嗜虐性を満たすための拉致行為にほかならない。欲望を正当化するための詭弁なのだ。しかし、裏社会に表社会の道理は通用しないことを真島はよく理解している。その『血盟状』というのは『儀式』を経て、極道たちの擬似家族制度のように『血』のように濃い関係だといいたいのだ。一度入ってしまえば簡単に足は洗えない。

 「その『血盟状』っちゅうのが、呼び水になるってことやな?」
 「ええ。ですから、取引をしましょう。真島」

 『血盟状』をひけらかすことで『王吟』は組織の裏切り者としての証明となり、王汀州や王泰然の指示さえあればいつでも命を奪うことも容易であるというわけだ。『王吟』が涼として平穏に生きるにさしあたって、直接的な不安因子は王汀州だけだ。この男の執着心さえなければ組織にとってただの『異分子』でしかない。現に、『王吟』をよく思っていない構成員はいた。

 しばしの重い沈黙のなかで、真島は『穴倉』での交渉を思い出した。この男の取引は交渉ではない。ただの要望だ。

 「私と『血盟状』を引き換えるのです」
 「……」
 「こわい、こわい。そう睨まないでください。あなた方にとって悪い話ではないはずです。私の『命』と『小猫』の名前の入った『血盟状』は同じくらい重いんですから」
 「散々言うといて、最後は命乞い。……ヒヒヒ、情けないのぅ」

 果たして、この男が筋を通すだろうか。

 『義』はもはや存在しないのだ。日本にも、大陸にも。搾取し、いたずらに屍を積み上げていく、その度合が大きいか小さいかの違いしかない。『悪』が人を『救う』ことは決してない。真島が傍にいることでそれ自体が呼び水となり涼を危険に晒すことはゼロではない。だからといって彼女を一般的な社会に還すことはもうできないのだ。一人では生きていけない脆さを、普通の社会に生きる人間に労ることはできない。

 そういう意味で、彼女には真島しかいない。真島は彼女にとっての『必要悪』として生きる運命にあるのかもしれない。

 王汀州の性善説を信じるならば、この交渉で『王吟』の組織からの足抜けを容認する代わりに、王汀州を見逃せということなのだ。もっとも日本の司法がそれを看過するかはともかく、たとえその場ではよくても後々交渉を反故する可能性だってある。再び『王吟』を拐いに来るかもしれないのだ。

 もっとも効果的な解決方法は、王汀州の『絶命』である。『極刑』にしようにも、司法で裁くのに時間を要する。早急な解決は不可能である。その間不安に晒されながら生活を送るというのは彼女のためにならない。保釈をし、拐いに来る前に真島側から先手を打たなければ尾を引くというわけだ。警察が保釈を認めるかどうかはわからないが。

 真正面で車椅子の上で笑みを湛える男の殺人構想が膨らんでいることなど、周囲の警察官たちは想像だにしないだろう。
 やり方は様々ある。直接手を下すことはない。ほんの、ほんの少し餌をやって焚きつければいいだけだ。王汀州がしたように、そう差し向けるだけでいい。そのアテが少なからずあった。この男は真島に『犯罪の手本』を教えてしまったのだ。目には目を、歯には歯を。

 中国マフィアには、中国マフィアを。

 真島は息を一つ吐く。

 「ええで。その条件、呑んだる」
 
 王汀州は笑みを崩さない。男の胸中にもシナリオがあるのだろう。あるいは真島の考えは読まれているかもしれない。

 少なくとも真島は王汀州に同類の気配を感じていた。歪んでいるものの、同じ女を愛している。方向性が違うが同質のものを好ましいと思う感性が共通している。似ているならば、思考回路も似ているかもしれない。こちらが始末を考えているなら相手も同様に考えていてもおかしくはないのだ。

 「交渉成立ですね」

 王汀州を保釈することは難しいだろうが、仮に保釈するということは迎えがいる。隠れている王泰然の餌としての機能が発揮されるというものだ。みすみす捕まるような真似をするはずがない。だから、王泰然以外の応援がたくさん来る。もしそうなれば、丸腰の警察官だけでは立ち向かえるわけがない。先手を打つならば、それよりも早くなければならない。腹の底から這い上がってくる、緊張ゆえの疼痛に生の感覚を覚える。それは真島が普段から渇望する『暴力』に興じている時の快感に似ていた。

 (おもろくなってきた)

 一般人にはストレス負荷のかかる局面において、真島にはスリルと興奮を懐く。『非日常』ほど燃え上がるのだ。


 一時間と少しの尋問を終え、真島は拘置所をあとにする。相変わらず採光のない暗い車内にて、窓側に凭れかかり、目頭を押さえる。まだ少し考えなければならない事はあったが、それはまた後にしよう。

 疲労混じりの吐息が漏れる。これからまた病院で尋問後の会議が行われる。あの重苦しい空気のなかで仔細確認や今後の話を煮詰めていくのだ。それがなんとも億劫だった。
 車が動き出してしばらく走る。ダタン、ダタン、という規則的な揺れに身を任せて、少しのあいだ眠った。






  ◇ ◇ ◇



 茜色の黄昏。

 新鮮な空気を肺に吸い込むと、その味が深く染みこんでいく。屋外に出るのは実に久しぶりで、体中の細胞が喜んでいるような気がした。風を受けた髪が柔らかく舞い上がる。設置された高いネットフェンス越しに、一望できる遠い町並み。薄く引き伸ばされた雲に朱が滲んでいる。カラスが鳴きながら彼方に影を連れて飛んでいく。時間はゆっくりと流れていく。背もたれのない木のベンチにぺたりと座って不思議な安堵に包まれていると屋上へ続く出口の扉がキイと音を立てて開かれた。

 その足音に振り返るまでもなかった。その気配は傍らまで近づいてくると、ひょいと後ろから長い脚で飛び越えて隣に座った。

 「明日も晴れやな」

 右側の横顔はまっすぐに前を向いていて、その目は沈みに行かんとする陽を眩しそうに眇めている。うっすら疲労が滲んでいる様子に、それが自分をとりまくたくさんの出来事であることは間違いなくて申し訳なさが先に立つ。涼のまつ毛が伏せられて濃い陰が肌の上に落ちると、目敏くも「どないしたん」と気遣わしげな声が近くなる。

 「……真島さんはお優しいです。だから、どんなに辛くてもきっと打ち明けてはくれないと思うんです。でも、私と一緒にいたら不幸になるなら、嫌だと思って。とても今更だけど、引き返すには今しかないです」
 「………」

 涼は自分でも意地が悪い言い方だと思った。それは気を引こうとしているようにも、予防線を張っているようにもみえる。どちらも正解で、涼の本心は『真島に離れていってほしくない』のだが、なにもかも上手く行き過ぎている感覚に自信が持てなかった。何度も本当の現実だと確認しながらも、まだこれは長い夢の続きで、不幸は連続していて…、と振り出しに戻ってしまうのだ。

 
 涼がそんな心理状態に陥ってしまうのは、事情聴取の証言のために記憶をなぞった、いわば抱えるトラウマに向き合うこと、フラッシュバックによるショックなのだが本人にはそれが、自分の性格上の問題だと思いこんでいる。根暗で泣き虫ではっきり物を言えない、という自己認識だ。

 そのフラッシュバックによって、ダメージを受けているのだが、周囲に気取られないように装っていた。そうする理由は心配をこれ以上かけたくないという気持ちや、現状が明るみになれば退院の時期が延びていくことに焦りを覚えていることに起因していた。

 真島と今の状態で出会ってまだ一年も経過していない。客観的に見れば浅い関係だ。涼は縁を切るならまだ間に合うと考えていた。
 実際はそんな事ができるほどの間柄ではなく、市井の男女のような付き合ったや別れたなどの恋愛市場にありがちな『付き合う』ことをステータスとしたような世界ではない。命のかかった、『一蓮托生の関係』に短期間で昇りつめていたのだ。



 「……ま、真島さん?」

 目線を上げると真島の不服そうで何か言いたげな視線とぶつかった。やはり本音はそうなのかと思い何かに傷つきそうになると「ちゃうやろ」と一言が差し込まれる。

 「真島さん、ちゃうやろ」
 「え……?」
 「この間は、『吾朗さん』言うてくれたのに、戻っとるやないか」

 足を組み頬杖をついてぷいっと反対側を向いてしまう。意外な不貞腐れ方をするので涼は困惑した。

 「ご、吾朗さん」
 「……」
 「吾朗さん」

 二度目の呼名に振り返ると長い腕によって抱き寄せられる。「ん〜?」と覗き込まれる。機嫌を軽やかに変えているが、やはり少し疲れていていつも以上に隈が濃い気がする。真島はなにか思いついたようににやっと笑った。

 「涼ちゃんがチューしてくれたら元気になるかもしれへん」
 「ごろうさん…」
 「ほっぺ。ほっぺにしてぇや」

 目線の高さに合わせて右頬を差し出されるも、はぐらかされている気がして躊躇っていると「涼ちゃん」と囁くように呼ばれる。

 「たしかに疲れとるけど、不幸とは思ってへん。俺は俺のために涼ちゃんのそばにおる。自分のために、涼ちゃんのためにやっとる。……幸せやで?」

 腕の中。滔々と寝入りの子守唄のような言葉を受けて、先程の自分自身の物言いが浅はかだったのではないかと思える。臆病な性格だと理解している。思い切りの良い時と悪い時があって、気分に振り回されている事はわかっている。いまいち子供の殻から抜け出せていない自分をを嫌うというサイクルにはまってしまう。とくに、真島と一緒にいるとそれがはっきりとわかった。

 年齢は近いはずなのに、中身には大きく開きがある。それが涼の空白の十一年における弊害だった。きっと十一年前の涼のほうが、今の言葉すらも臆することなく受け取れていた。ということを想像する。

 子供すぎでも大人でもない、中途半端である。
 
 (同じくらいの高さでいたいのに)

 この人と並ぶにはあまりにも未熟だと思うけれど、離れがたい。離れることも嫌だという。
 真島とは本来であれば交わることもない人生を送っているような人種なのだ。真島は背の高い葦で、涼は路傍の石だ。葦は丈夫なくせに脆い人に喩えられる。路傍の石には葦ほどの利用性はなく削れていくだけだ。そんな悲劇的な観測を持ち合わせることすら苦痛だった。

それはいくら真島が言葉を重ねても救済にならないことは明らかで、涼自身が自分を認めることができて初めて解放される呪縛だった。

 それは涼が病院という、合法的な監獄のなかで生きているゆえの不自由さが原因である。涼も薄々それに気づいているが、やはり不自由に生きるしかない。

 うつむきがちだった顔を持ち上げる。彼は腕の中に抱え込みながら、陽の方を向いていた。落陽は近い。風が吹くたびに黒く切り揃えられた髪がなびく。それは本当に、河原に揺らめく葦のよう。

 ほんの一瞬、その落日に既視感を抱く。赤い陽と赤い花が脳裏を過ぎった。それは涼の記憶ではない。彼の記憶だった。どうしてそれを今思い出すのかはわからない。同時に、吟が抱えていた記憶は涼に明け渡したもの以外にもたくさんあったということを知って、胸が痛くなる。それは吟という人格が意図的に、『涼に見せないでいい』と思ったものなのだ。

 涼には中国での頃の記憶がほとんどない。
 香港に入ってしばらく生活を営んでいたが、組織の中で三人の男たちからの言いがかりをつけられた以降の記憶が陥没したようにない。その他に断片的な事は浮かんでくるが、自分がその場で経験した記憶なのか判然としないのだ。吟が『見ていい』とした記憶と、『見せない』とした記憶が虫食いのように混在しており、次第にそれが供述した内容に嘘が混じっているかもしれない、という恐怖に変わっていく。

 この世界において証明できることは、自分によって『自分自身』を証明することなのだが、涼にはそれすら満足にできない。
 誰にも救いようのない絶望がじわじわと体中に滲みていく。それに、今しがた起こった過去のフラッシュバックは彼女にとって最悪な日の出来事だった。

 もし、真島のいない場所でこの絶望を知っていたら。この場所に真島が来ていなかったら。屋上のフェンスをよじ登って飛び越えていただろう。
 それでも耐えていられるのは、この腕の内側が温かいからだ。吟の涼を守るつもりだった優しさに、傷ついている。どうか鋭い彼に悟られまいとぐっと背を丸めて小さくなる。

 誰も、彼も、悪くないのに。

 
 「泣いとんの」
 
 残念なことに真島は気づいてしまった。逃げも隠れもできず、なすがままに項垂れ続ける。

 彼の声は冷たくも、熱くもなりすぎない丁度いい温度だった。
 慌てるわけでも、過剰な慰めでもない。ただ涼の背中を擦ってくれる。それが涙を促されているようで、とめどなく溢れ出す。
 彼らしい冗句もなにもない。無言の慰めがひどく心地よい。

 (……この人じゃないとだめだ)

 必要な時に傍にいてくれるひとだ。この人は。
 離れてほしい、と言いながら離れてほしくなくて。ますますこの人でなければ、自分は生きていけないという事実を突きつけられる。
 それはかつて信奉した神への敬愛とは違う。隣人を愛せよといった無条件でもなく、この人でなければいけないという、『愛』だった。


 それを自覚すると、途端に胸のうちからこみ上げてくる温かいものに突き動かされる。衝動的といっていいほどの愛情表現を、彼の望むように、右頬に捧げる。自らしてほしいと願ったくせに、涼のその行為に驚いていてわずかに体が強張ったのが伝わった。

 「! ……ひひひ、こそばゆいわ。……ん」

 お返しといわんばかりに、すこし乾燥したやや肉厚な唇が頬に触れる。一度、二度と柔らかく施されると一旦離れる。

 「しょっぱ」と、涙の味の感想を述べられると妙な気恥ずかしさに襲われる。「ひひ」と癖のある笑いをまた零すと、その反対側の頬も舐め取られる。それは人懐っこい犬のような仕草で、「くすぐったい」と涼は笑った。笑うと、手酷い記憶が少しマシになった気がした。


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