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潮の香りがふんわりと漂ってくる。
日中の明るい時間帯に横浜に降り立つのは真島の生活習慣の中では例外的なことだった。横浜駅の一つ前の駅に彼女の生家や祖母の家があるが、今日は別件の用事である。
横浜といえば中華街が有名である。時間帯はちょうど昼時で、観光客やその近所に勤務地の勤め人などが昼食に利用するため客入りはそこそこある。組員たちが車を回すと言っていたがあえて断ったのは、その時間帯でなおかつ目立たないようにするためである。営業妨害をしにきたわけではない。
一見ただ中華を食べに来ただけに見えるように装わねば、今の真島には都合の悪いことがたくさんあった。現に尾行員である私服警察官からは尾けられており、咳き込むフリをして無線に報告を喋っている気配がある。
王汀州の尋問に際して成立した交渉に対して、やはり警察側は難色を示した。
最重要機密案件として扱われている本件に、大勢の警察官を動員させることは難しく、保釈時に緊急事態が発生した場合に対応しかねるとのことだった。
それをどうにかしてみせるのが真島の役割である。こうして尾行員がつけられているが、彼らに『違法性の高い現場』を見せているわけでもない。一九九三年にはまだ『共謀罪』が成立していないため、摘発されるには至らない。
真島にはその一見共謀にもとれる計画、『算段』の用意があった。
実行の下準備のためにこうして今日は、その根城となっている中華街にまで足を伸ばしたというわけである。日本の三大中華街、長崎、神戸、横浜の三つの一角で東アジア一、日本一の規模を誇る。味付けは関東方面らしく、濃いのが特徴である。向かう店は決まっている。表向きは一見中華レストランだが、その後ろには中国マフィアがついている。『翠蓮楼』と豪奢な屋号を掲げた門を潜った。
フロントにてモノクロの制服を着用した男のウェイターに適当な席へ案内される。
ランチの時間ゆえにディナーほど高額なメニューはなく、ランチセットとして中華料理の相場相応のやや高めの、それでいて十分に腹を満たせそうな内容のメニュー表が、分厚いメニュー本とは別に用意されている。
「油そばに餃子。あとは……台湾の烏龍茶はあるんか?」
「お客サマ、大変失礼ですが、メニューにはございません」
「ほんまかいな。どないしても、台湾の烏龍茶が欲しいんやけど」
真島は探るような眼差しを女のウェイターへ向ける。
やや訛った若い女のウェイターは首を傾げるが、彼女の後ろにやってきた男のウェイターがやってきて耳打ちをすると、その女のウェイターを下がらせた。代わって、男のウェイターが深々と頭をさげて一度侘びた。
「申し訳ございません、お客様。代わりといってはなんですが、同じ台湾産のタリースーチョンはいかがでしょう。燻香で仕上げてあり、とても味わい深くよい香りがしますよ」
「ほな、それにするわ」
「かしこまりました」
もう一度深々と頭を下げると、男のウェイターはくるりと踵を返し、別室にある厨房へ消えていった。
これは合図である。なにも真島はお茶が本当に飲みたかったわけではなく、そういう合言葉なのだ。台湾産の烏龍茶とは一般的には青茶を意味する。それに対してタリースーチョンは紅茶で、青と赤を意味している。青とは、青幇のことだ。この店の裏側、いわばケツモチしている組織の長を呼ぶための合図が青と赤になっている。元青幇系ではない組織なので赤を差し出してきて、それに応えれば最初の合図は終わる。また、茶が出ている席では争わないという取り決めがあるのも、彼らのルールに従ったものだ。
茶のルールに関して言えば、涼のほうがもっと詳しいはずだが、聞けるはずもない。茶陣といって、茶碗の並べ方や注ぎ方、飲み方や身振りによって、交渉や意思をおもんばかる会話の代用法である。表向きにはただお茶を飲んでいる光景だが、水面下で対話がなされているのだ。秘密結社としての顔を持つだけあって秘匿性は高く、さすがは数百年の歴史を持つといっていい。それに比べれば今の合図は易しい部類だろう。
ほどなくして食事が先程のウェイターによって運び込まれる。油そばと餃子の二品が白く清潔なクロスの上に並べられ、その背後にタリースーチョンの入った大きい急須と茶碗を重そうな銀色のトレーに載せて立っている男がいた。その男は真島と視線とかち合うと、微かに口角をあげた。
「お待たせいたしました。油そばと餃子。それから台湾産のタリースーチョンでございます。熱いですのでお気をつけくださいませ」
男は茶器を並べ、急須をもって茶碗に注いだ。湯気がもうもうと上がり、今すぐ口に含めば間違いなく火傷することは想像に容易である。男は懐からすっと一枚の白いナプキンを差し出して、それを何食わぬ顔で茶器の近くに並べた。あたかもそれは、マニュアル通り、飲む際に必要なものとするような置き方をした。それが終わると二人のウェイターは頭を下げ、奥へ消えた。
今すぐそれを懐に仕舞うということはご法度である。まだ食事は終わっていない。そのナプキンには次の指定場所か、それを持ってこいという二つのニュアンスである。真島がそこへ赴いてようやく対話が始まるのだ。
とりあえず今は舌鼓をうつところで終いだ。
注がれた茶をしばらく置いて口に含む。相当な熱湯を淹れたようで、鼻孔には香りよりも熱が染み込んできた。
「あっつ」
反射的に息を漏らす。
わずかに舌先がヒリヒリといっていて、これから刺激物を食らおうというのに軽い火傷とは前途多難な道のりである。香り自体は燻香というだけあって、非常によいものである。価格グレードとして主婦らがたまの奮発ランチで利用するような、腹を満たすだけの食事にするには少々値が張る店の中華は、町中華よりも洗練された味付けであった。
軽い舌先の火傷の違和感を抱えながらも、無事完食を果たす。
一息つくと、席を立った。テーブル上に残った未使用のナプキンを懐に仕舞う。フロントにて精算し『お客様』を終える。そのまま『翠蓮楼』を出ずに、お手洗いに向かう。中は誰も居ない。そこでナプキンを取り出し、確認してみる。ナプキンに特別な仕掛けは見当たらない。
「当店の料理は、美味しかったか」
拙く独特なテンポの日本語が真後ろから聞こえる。カツと硬い鉄の冷たい感触が刈り上げた襟足に触れ、真島は両手を上げる。
「おう、えらいごっつ美味かったわ」
『翠蓮楼』のオーナー、『蛇華』の日本支部総統。劉 家龍(ラウ・カーロン)は真島の後頭部に銃口を突きつけながら、かすかに笑う。
「東城会、なにしに来た」と、尋ねられ真島は率直に仕事の話だと打ち明けた。そうして、銃口をゆっくりと下ろすのを尻目に見届けてから、振り向く。ナプキンを畳み、劉へ返す。「ヘンな合図を送る客がいるから、何かと思えば」とぶつくさと垂れた。
「悪い話やない。ちぃと、探りをいれて欲しいだけや。せやな、あんたらには一石二鳥。一粒で二度美味しいで」
「ふん。用件をはやく言え」
「元・青幇派。……いや、『藍華蓮』いえばわかるやろ」
「……なるほど、噂はほんとうだったようだ」
堂島組に関わりのある蛇華ならば、東城会内部に氾濫するいくつかの情報は得ている。『藍華蓮』双腕の片割れである王汀州が拘置所にいることは、同業他組織である蛇華の知るところにあったというわけだ。
「弟の居場所を探ってもらう」
「二度オイシイといったな。一つは金、二つは牽制。たしかに。あの『藍華蓮』の双腕がもし日本を根城にすれば、いずれ我々との陣取りが始まる。前もって潰すということはオイシイ話だ。だが……」
「なんや」
「マジマゴロウ。あなたのオイシイは、……どこだ?」
劉の目は本音を探っている。そこに仲裁をするかのように、ポケベルの呼び出し音が割って入った。劉から視線を逸らさずにポケットから取り出す。涼の祖母からだ。定期連絡にしては時間帯がまだ明るい。急用の可能性もある。劉の探りには応答せず、答えを急かすことにした。
「で、どないするんや」
「わかった。引き受ける」
あっさりと承諾した。交渉成立である。日本人とは違い決断が早いのが、なんとも中国人らしいところだと思った。
真島の狙いは、蛇華たちを使って同族の臭いを嗅ぎつけてもらうことだった。そして王泰然の居場所を特定し、王汀州を釈放するデマに触れさせ、おびき出すという作戦を考えた。しかしこれは警察側の立場を尊重した作戦である。
真島は、警察の拘束力に期待していない。
逮捕されたとしても、『生きている』ということがどれだけ、彼女の人生の妨げになるか。いつか、どこからか過去が追いかけてくる。万が一という恐怖を抱えて生きることになる。それを不幸という。
だが、司法は極刑までに時間を要する。一番は、手っ取り早く殺してしまえばいいのだが、直接下すのはリスクがある。抗争に持ち込んでしまえばまだしも、個別の暗殺で足がつけば、懲役か自分が極刑である。それでは本末転倒だ。彼女を幸せにするにあたって、それは最悪のシナリオだった。第三勢力を使って焚きつける。流れを作り、促すことで目的を果たす。それが真島の願望だった。
「煮るなり焼くなりせえ」
劉の吐息がかすかに聴こえる。
また遠回しな、直接的な言及ではないものの、『殺してもいい』という言い方に呆れたのだろう。
(問題は血盟状や……)
王汀州の話をどれだけ信じるかはさておき、それは狼煙の代わりになる道具である。王泰然の居場所は一つすでに目星がついているが、そこに近寄るには自分では少々目立つ。同族同士の抗争に持ち込む形で、カムフラージュをしつつ、探るというのが真島の描いたシナリオである。
「報酬は、いくらだ」
「出来高次第や。万で桁四つが最低ラインってとこでどうや」
「ふん」
劉はその悪人顔をわずかに綻ばせた。
真島は交渉が終わると『翠蓮楼』から出た。
急いで電話を折り返さねばならないが、中華街圏内はいわばマフィアたちの巣窟で縄張りである。敵陣内で情報漏えいは危険行為であるため、中華街の門を出るとタクシーを拾って横浜駅へ戻ることにした。
駅構内には甘ったるい匂いが混じり、テナントに入っている店舗の幟旗にはバレンタインと、英字でプリントされている。
にぎやかな構内の片隅に設置されている公衆電話に寄った。すっかり暗記している、祖母宅の固定電話番号のプッシュボタンをガチャガチャと手際よく押した。
「もしもし、ばあちゃん?」
真島の顔が切り替わる。
何事もなかったかのように、日常へ戻る。本物の家族との電話のような温もりが、たった数カ月の間に生まれていた。
「真島さん? いま大丈夫かしら」
「ええで。どないしたん」
いつも電話をくれる時間帯よりも随分と早い。昼下がりなので、午前中に見舞いへ行ってそこで何かあったということだろうか。
真島が病院に行けない日はこうして、電話口で情報を共有するのだが、こんなことははじめてだった。緑色の公衆電話のハコの、コイン投入口の上に積み重ねた十円玉から一枚つまむとそれを投入した。
「涼ちゃん、今日はあんまり元気がなくて、早見先生を呼んでほしいって言ったのよ」
「珍しいのう」
「でも話が終わったときには元気になってたわ。もうすぐバレンタインだから、その話題が嫌だったのかしら」
「バレンタイン?」
「昔、お花を貰いそこねて、……とかなんとか言っていて。あんまりいい思い出がないみたいで。……でもおかしいと思うの、バレンタインってチョコレイトを渡すじゃなあい?」
ふと、近くの店舗に並び立つ店頭に視線が向いた。小箱に詰められた大小様々なテイストの茶色い菓子。十一年前以前の彼女くらいの年頃で、花束を渡すのは気障ったらしいにも程がある。同性であればまだしも、異性からとなると、よほどのマセ餓鬼に思えてならない。
「花、かぁ」
「てっきり、真島さんに贈り物できないのを気にしてるのかと思ってたんだけど。ああ! そうそう次の日曜日にいらっしゃるでしょう?」
「……あ、ああ。行くで? ……涼ちゃん、その後になんも言うてへんのやな?」
「ええ」
あのよく喋る祖母が、触れづらいほどの様子だった、ということは相当であろう。
電話ですぐに知らせてくれるということは、祖母から頼りにされているという信頼も感じられて、真島は得意のサービス精神旺盛な性格に火がついた。
「わかったわ。ひひひ……! ばあちゃん、楽しみにしときや」
「え? ええ。なあに、どうするのかしら?」
何はともあれ、涼に花を贈った人物がいたことは事実で、それによって悲しい思い出を抱えている。女に悲しい顔をさせていては、男がすたるというものだ。
祖母との通話を終え、一度受話器を置く。しばし考えてもう一度受話器を持つと、コイン投入口にまた十円玉を落とす。
考えるよりも先に行動だ。ということで、真島は組の行事に利用する馴染みの生花店へ、連絡を入れてみることにした。しかし、バレンタインまで残り数日を切っており、用意できないかもしれないと断られてしまった。
生花店にとってみれば、イベント時はかき入れ時で予約数が予めある。また生花店が提携している仕入先との兼ね合いもあるため、申し訳ないと謝られた。そこをなんとかしてほしい気持ちもあったが、赤字を出さないための店の都合を考えれば仕方がない気がした。
悔しいが、真島はそこで簡単に諦めるような男ではない。
生花店で粘っていても仕方がない。早々に切り上げて、こういうときに役立つ男を当たる。個人のポケベルに連絡を入れた上で、事務所に電話をかけ、電話番が『馴染みの店にいるはずだから、そこへ電話をかけてください』といい番号を教えられたので、そこへ電話をかけた。
「なんすか兄貴!!」
そいつはワンコールで電話口に出た。
耳をつんざくほどの大声に、真島はそっと耳を受話器から離した。
高木はどうも賑やかな場所にいるようだった。背後にはガチャガチャと食器類の音、酒の入った抑揚のない粗野な男たちの大声が反響している。
「おまえ、今どこおるんや」
「どこってぇ、まあ飲み屋っすけど。どうしましたあ?」
「昼間っから飲んどんのかいな。……明後日までに花を用意したいんや」
昼間からと言ったが、実際は昼間からではないだろう。高木は少々酒には強い方で、呂律が怪しいほどまで飲んでいるので、きっと朝から飲んでいるに違いない。電話の向こうで喋りながらも、ぐいっと酒を呷る音が聞こえる。素面であれば拳骨もので躾けたが、出来上がってしまっていてはその気さえも失せる。
「花ァ? なんでまた突然。組事にしちゃ、まだもうすこし、日にちがあるんじゃあ……」
「ええから。今からでも用意できそうなとこあるやろ、はよ教えろや」
「いやあ、俺はなんでも屋じゃないっすから。あー……うぃ。ひっく。……でも、一個だけあります、けど仏花じゃあないんすよねえ」
「あ? 仏花なんかいらんわ。不謹慎やろが」
「はあ? んじゃあ、なんの花をご所望なんです?」
高木はへへっと、品行不良な笑いを飛ばした。
涼は一体何の花を贈られたのか。
真島はもう一度、周囲のにぎやかなバレンタイン商戦のムードに包まれた駅構内を見渡す。装飾品には赤、赤、ピンク。デザインはどこも総じて薔薇である。薔薇は愛を象徴する花である。王道中の王道の花だ。
薔薇を想像しながら、なんとなく、真島は顔を顰めた。かなしいと思えるほどの相手からの花束というのは、ひどく妬ける。
「薔薇や」
「はい?」
「薔薇や、それも赤い薔薇がええ」
「まじっすか? は? え、兄貴ィ、つまりそれって……」
「用意できるやろ」
「一つ確認していいっすか。あたらしい、シノギの相談とかじゃあなくて?」
「ああ? ……お前、プレゼントの方に決まっとるやろが!」
「まじっすかあ!!」と向こうっかわで声のボリュームが急激にアップする。キーンと耳鳴りが響いた。高木は急に嬉しそうにはしゃぎだして「もしかして」と声を潜めた。
「ごっつくてぇ、鳥のぬいぐるみを持ってる涼ちゃん、……っすか?」
「ごっついは余計や」
「ええ〜? 全部兄貴が言ったことっすよお〜!」
きゃっきゃっと酒が入っていることもあって上機嫌な舎弟は「わっかりましたあ!」と叫ぶ。
「これから、行きやしょう!」
「はあ? お前酔うとるやないか。そんなんで、どこ行くねん」
「花、欲しいんでしょお?」
「今すぐやない。……そんな状態で運転させたら、一緒にお陀仏や」
はあ、と溜息をつく。十円玉をカチャンと落とし入れる。
話をつけられそうな相手を教えてほしいだけなのだが、どうも一緒に行ってくれるらしい。その優しさは有り難かったが、マークが厳しい今は軽犯罪すらも犯しづらい。
「あー、お前今どこにおる」
「どこってえ、いつものトコっす」
「わかった。そっちいく」
喋れば喋るほど酔いが回る様子だ。
行きつけの朝から開いてる飲み屋にいるとのことで、せっかく入れた十円玉が少々惜しいが、真島は受話器を置いて通話を終了した。