第五章 スイスへの赤い薔薇B

 1993年 2月14日



 「おおきに」
 「いや、いいんすよ。俺の面子もありますけど。……こうして廃棄に行きがちな花を引き取ってくれてありがたいって言ってます」

 バレンタインデー当日の早朝。真島は東京にいなかった。
 北関東の、やや片田舎の風景の広がる田園風景の中で、目当てのブツを収穫するために訪れていた。足元の草は朝露に濡れており、日の出がちょうど見え始めた頃、露がキラキラと輝き出し、風情のある朝を迎えた。

 高木が紹介したのは、生花店ではなく、その生花店と仕入れ契約している薔薇農園だった。商品に出せない形の悪い花を廃棄に出すだけになるため、引き取って別の加工に売るというのを高木はしていた。その見てくれに似合わず、案外まともなシノギをしているようだった。

 「お前、まだスミ入れとらん言うとったけど、カタギのほうが向いとるわ」
 「それを言うなら、兄貴だって同じっすよ」
 「アホ、俺はもうあかんわ、ケツまで入っとる。……せやから、お前は入れんでええ」

 ビニールハウスがいくつか並び、少し離れたところには真島たち以外にも、仕入れ業者が軽トラを連ねている。彼らは綺麗な形の薔薇を携えて店へ帰っていく。高木はバケツに入った、大量の不揃いの薔薇たちを見下ろして一息ついた。

 「高木さん! 今日はありがとうね。今日はこれからも来るから、あんまり構ってやれないで悪いね。はい、お茶貰ってって」
 「いーえいえ。お役に立てて嬉しいっす。どうもいただきます」

 薔薇農園の亭主の妻は二本のペットボトルを高木に渡すと、にっこり笑って手を振った。そう言っているうちにも、入れ代わり立ち代わりに出ていく軽トラと、入ってくる軽トラと忙しない。

 「兄貴、俺たちも一旦離れましょう」
 「ああ、せやな」

 バケツを軽トラの荷台に詰め込んで、自分たちも乗り込む。
 ラジオをつけて朝のニュースが流れる。国際ニュース、地震のニュース、スポーツ、政治。どこの世界もめざましく変化を続けている。田園風景を眺めていると、まるでそんな世界は縁遠く、切り離されているような錯覚に陥る。高木はやがて、ラジオを消した。車内には砂利道の農道を走る音と、ガタガタと鳴る振動が時折あるくらいだった。

 「兄貴、恋してますね」
 「はあ?」

 いつもの、らしい高木に戻っていた。軽い調子の物言いである。
 嶋野組から流れで真島組にも出入りしているが、親子盃は交わしていない。そのほうが跡目を継ぐことはないが、新入りの子分よりは立場が上になる。序列を鑑みて盃を交わし直すことはしていなかった。それは嶋野組にいるくせ、未だ刺青を入れていない事からも少なからず理由があってのことだろうと考えていた。

 「お前にもあるやろ、そういう相手の一人や二人」
 「そうっすね。でも、ああ、いや……、白状するといたんですけど、ダメだったんす」
 「ダメ? 振られたんか」
 「……死んだんです、たぶん。……そいつ、兄貴がいて事故で入院してて。入院費とリハビリ代が賄えないからって、出稼ぎにいったっきりで」

 真島はどう声をかけていいか悩んだ。
 高木はちらりと真島を見ると「いいんす。気にしません」と硬い声で言った。

 「兄貴のほうは車側だったんで、その、実家の親たちは相手方の慰謝料とかで手一杯で。俺は幼馴染で、自分もなにかしなきゃって、でもすぐに大金なんか用意できっこないし。……気づいたら組入ってて。あいつは帰ってこねえし、探すついでに入ったのもあるんすけど。だって、実家のポストに手紙と金が入ってて、十万くらい。手紙もそいつの名前のあとに『お世話になりました。大変、申し訳ございません』って書いてあって……」

 高木は鼻水をすすった。
 それをみっともない、と一蹴できるわけがなかった。
 その十万円は、まるで命の餞別のようだった。
 
 「悔しいっすよ。金じゃねえって。欲しいのは、金なんかじゃねえって……! ……兄貴ィ、俺は半端モンっすよ。自分でも不似合いな事くらい知ってる、でも信じたくないから、今も探してるんです」

 涙声を誤魔化そうと、声を張り上げるが、上手くいかない。その焼けるような痛々しさを持つ人間を、もう一人知っている。

 だが高木がまともなシノギをやっていることも、これで合点がいく。この男は金は金なのだから、とするタイプではない。その十万円は『尊く』、『綺麗な』十万円で、彼女に恥じぬような金でなくてはいけないと思っているのだろう。真島は内心、苦笑を浮かべた。金汚くがめつい嶋野組に所属しているのだ。それは真島も同じだったが、組の規模を考えれば様々な情報が集まってきやすいのだから、その判断は間違っていない。高木がキャバクラに通っているというのも、その幼馴染の女、想い人を探すためなのだろう。


 「運転、替わったるで」
 「いいえ、大丈夫っす」

 少し落ち着きを取り戻した高木は、赤くなった鼻をスンと鳴らした。
 
 「薔薇、綺麗なやつ持ってっていいっすよ。っていっても、不揃いですけど」
 「まだ花咲いとらんもんもあるやろ。不揃いかどうかは、咲いてみなわからん」
 「はは、たしかに。そうっすね。昼頃には綺麗に開くと思いますよ」

 高木はもう復活していた。ヤクザにしておくには、勿体ない男である。

 「お前も、ごっつい奴やで」
 「……、兄貴、ずっと思ってたんすけど、ごっついって、そういう意味で使うんスね?」
 「そらそうやろが」
 「ってことは、例の涼ちゃんも、ゴリラとかそんなんじゃないって事っすかあ?」
 「当たり前やろ…、ふつうの可愛い子や」

 あらぬ誤解を解けてよかった。
 高木はまだ「兄貴のいうふつうって、大概ふつうじゃないッスけどね」と余計な一言を呟いたが、今日だけは不問に付すことにした。
 農道を抜け、市街地へ入る。物流の大型トラックが連なる国道を経由して、都内へ戻っていく。
 
 


  ◆ ◆ ◆




 赤、白、ピンク。
 水がそこそこに張られた大きなバケツには、色彩豊かな花弁をガクに隠した薔薇たちが、所狭しと並んでいる。開いてみないと見栄えの良好さは把握できないため、斑に入り混じるよりは、色を統一してラッピングしたほうがいいだろうと真島は考えた。剪定をし、長さを調整し、棘を取る。数本ならまだしも、大量のそれらを捌くには結構な時間を要した。

 高木はその残った分をシノギに使うと、選取を先に真島に譲ったが、その量の多さに目を瞠ったのである。
  
 「兄貴そんなにいっぱい持っていって、いいんすか」
 「あ? 多ければ多いほどええやろ。余れば配ったらええ」
 「配るって…、職場の同僚とかに? 限界があるっすよぉ」
 「病院やから大丈夫やろ」

 
 大の男が両手で抱えるほどの薔薇のラッピングが完成し、高木はやや引いている。
 少し前に流行ったトレンディドラマでもこの量ほどではない。高木は、やはりこの人のスケールは破格だと改めて思ったのであった。この花を携えて歩く真島を想像した。格好はついているが、世間からのいらぬ風評被害に遭わぬようにと気を回して、「親父んとこにも持っていきますから」と提案した。

 「親父と薔薇か。ま、花が嫌いなやつはなかなかおらんやろ」

 世間はチョコレートの数だのなんだのと騒ぐ。極道も軟派な者ならまだしも、そうでなければ縁のない行事であるゆえに、花を配ってやるのもいいかもしれない。ラッピングから何本か抜いて、水の張ったバケツに戻す。買ってきた包装用の透明なフィルムを適切な長さに切って巻いて、リボンなんかをつければ仕上がる。男所帯のむさ苦しさも華やぐだろう。

 

 


 来る時は彼女の喜ぶ顔が浮かんだものだが、いざ病室へ入ろうとする手前になると、なぜだかこれで良かったのかと足が踏み止まる。
 道中、看護師たちの歓声を浴びても、自信が揺らぐことはなかったのに。真島が冷静に立ち返ったのは、一枚隔てた向こう側が、いつも以上に静かだったからだった。


 病室の扉をそっと開くと、涼はベッドの上に腰掛けて、窓の向こうを見つめていた。
 背後に立つ真島に、花の香りで気づいた様子で、首だけが向いた。憂いた表情は次第に柔く微笑みに変わる。

 「おはよう、涼ちゃん」
 
 恒例になった挨拶を述べて、ベッドの脇に寄る。彼女は立ち上がって、腕の中を埋め尽くすような薔薇の海に「すごい」と感嘆を漏らした。口ではそう言うものの表情はやはりどこかぎこちない。遺跡のように眠る「かなしい」思い出を掘り起こしているのだろう。それに罪悪感を抱かないわけではない。けれど、真島はその事を追及しないし彼女も口にしない。だから、乗り越えるべき過去なのだ。いささか強引だが。

 涼は花束に顔を近づけて、すうっと香りを吸い込んだ。
 「いいにおい」と小さく言うと、つうっと目尻から透明な涙が零れて、赤い薔薇の上に落ちた。
 彼女にとってそれが意図しない涙なことくらい、真島にはわかった。

 「ち、ちが……これは、かなしいとかじゃ、なくて。あ、……その」
 
 一度流れた涙は留まることをしらず、ポロポロと、綺麗に開いた花弁の雨になった。彼女はどこまでも嘘が下手だった。そこを気に入っている反面、今だけは少し、憎い。焼けるように痛々しい彼女こそ、嘘をついて欲しいひとだった。そうすれば、もう少し楽に生きられる。

 「でも、嬉しい、んです…。こんなにたくさんの花……嬉しくて、だから……」

 ありがとうございます、といって涼は指で目尻に溜まった涙を払った。
 彼女のことだから、その気持ちに嘘偽りはない。
 『かなしみ』ではなく『しあわせ』を与えられるのであれば、素直に受け取ってくれるのであれば。それ以上に幸福なことはないだろう。そう、真島は自分に言い聞かせる。
 ずっしりと重い花束を抱きかかえて、不器用にはにかむ涼をみて、今だけは自分たちを取り巻くすべてのものを忘れようと思った。それは本来、あの十一年前の地続きの、あったかもしれない景色なのだ。この人を笑顔をするために、時間がかかりすぎた。


 「あの、これ」

 涼はベッドの上のテーブルから、一枚の小さなライトカラーなキャラクターモノの封筒を手に取ると、恥ずかしそうに真島に差し出した。よく見ると見かけはお年玉袋である。

 「おばあちゃんに売店で見繕ってもらったんですけど、あの、あんまりいい感じの封筒がなかったみたいで。そんなことないはずなんですけど、ちゃんと言わなかったからこんな……、お子様みたいな……えっと、中身はお金とかじゃないんです、手紙で……」

 つまり、ポチ袋の中身は手紙で、真島宛てに手紙を書いたということである。
 病室のあるフロアからの移動が認められていないため、入用の際は看護師か近親者に申し付ける事になっている。バレンタインカードの代わりというほどでもないが、それを売店で買ってきてほしいと頼む際にまごついたのか、はっきりと通じていなかったために、こんな封筒で差し出す羽目になってしまったことをどうか気にしないでほしいという事である。
 そんな彼女にしては、長く饒舌な物言いに、思いもよらず破顔する。
 
 「ちゃうで! 今のはアホらしいとか、そんなんで笑ったんとちゃうで!」
 「は、はい」
 「ほんま、おおきに。手紙書いてくれたんやろ? ……嬉しいんや」

 余計に顔を赤くする涼をみて、照れくさくも感謝を伝える。
 小さな手紙を受け取ると、「あとで読んでください」と小声で念を押されてしまい、苦笑した。
 
 「大事に読ませてもらうで」
 
 つい、と涼の瞳が猫のように細められる。
 蠱惑的かもしれないが、純朴なそれは人畜無害にも見える。しかし、自覚があって媚びへつらうよりもずっと悪い。『小猫』と喩えられる理由がそうみえるから……だとするならば、その名付け主にその姿を見せただろうし、ゆえに『人を妬かせる天才』という称号がぴったりだった。
 





 『拝啓  吾朗さんへ』


 手紙の始まりに綴られた自分の名前に面映ゆくなるものだ。ムズムズとした嬉しさがこみ上げてくる。彼女の筆跡は端正で、生真面目な性格が表れているようだった。


 『手紙を差し上げるのは、はじめてになりますね。何を書こうか迷っています。

 いつもあなたからは、たくさんのものを頂いていますね。ありがとう。

 お返しできるものは何もないですから、申し訳なく思っています。

 だから、この手紙を最初のお返しとして受け取ってください。

 助けてくださって、ありがとう。

 生きていくことには辛いことがたくさんありますが、生きていこうと思います。

 あなたの傍らで。』



 手紙とは不思議だった。

 短い文章の中に凝縮されている、とでもいうのだろうか。
 言葉は水ものだとするなら、手紙は形として残る。
 彼女の意思によって書き綴られた、言葉がしっかりとした形として、この世界に在るのだと証明している。
 手の中にある薄い紙は重いのだ。『吟』でも『ラン』でも『小猫』でもなく、『涼』がこの手紙を書いたことは、特別な意味を持っている。

 『1993年 2月14日 荒川 涼』


 文末を締めくくり、彼女の手紙は終わっている。一息ついたとき、もう一枚の紙の感触を覚えて、裏側にくっついていた二枚目を一枚目の上に持ってくる。


 『桜が咲いたら、一緒に見にいきませんか』

 
 彼女が二枚目にその文を書いた情景が思い浮かんだ。
 病室の窓から見下ろした所には桜並木がある。今はまだ殺風景で、木の幹や枝しかない寂しいがいずれ蕾が膨らみ、花を咲かせる。今日の薔薇のように。





 「それ、『涼ちゃん』からッスか?」
 
 事務所の長い革椅子に寝転びながら読み耽っていると、背もたれからぬっと顔を出した男に声を上げた。

 「びっくりさせんなや……!」
 「ノックはちゃんとしたし、声も掛けたけど返事がないんで寝てるのかと」
 「……ああ、そうかいな」

 仰向けから上体を起こして、座り直すと視線が手紙に注がれている気配に「アホ、盗み見すんな」と軽く叩く。ペシッと小気味よい音がして、高木はケラケラと気持ちよく笑った。時刻は二十一時を過ぎた頃。事務所に戻ってきたということは、朝以来シノギのほうに出張っていたのだろう。なんとなしにまだ夕食を摂っていない様子に、真島は声をかけた。

 「お前、飯は食うたんか」
 「まだっす」
 「そんな気がしたわ。……どや、今からラーメン食いにいかへんか」
 「いいんすか?」

 高木は脱ぎかけたブルゾンをもう一度着た。
 シノギとはいえ、朝から手伝ってもらった礼にラーメンの一杯や二杯は安いものだ。

 組の中にいる若衆に一通り声をかけてから、高木を連れて夜も本番の神室町へ繰り出す。
 バレンタインというムードが手伝ってか、路上に出ているキャッチも、街中を闊歩する仕事終わりの勤め人たちもカップルもクリスマスの時期に次いで活気があった。

 行きつけのラーメン屋に入るということになり、その道をいくところで見知った顔があった。

 「おう、桐生ちゃんやないか」
 「……兄さん」
 「なんや、こないな時間まで仕事か。せっかくのバレンタインやのに、ご苦労さんやのう」
 「兄さんのほうこそ、男二人じゃねえか」

 桐生の実直な物言いに、隣にいた高木が「あー。この人さっきまで、ちゃんとバレンタインしてたんスよ」と添えた。
 ひゃはひゃはとご機嫌に笑う真島を物珍しげに眺めると「この人の女ってぇのは、大変だろうな」と言うので、真島の右拳が桐生の顔面に飛んだ。

 「言葉には気ィつけたほうがええで」
 「……うす」

 強打を受けた顔を擦りながら桐生は手元の腕時計を見ると、「もう行きます」と頭を下げてその場を去っていった。
 真島は桐生も誘おうと考えていたが、それはまたの機会となった。肩を軽くすくめる。高木に声をかけて、すぐそこまで来ていたラーメン屋の赤い暖簾を潜った。



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