番外編『バレンタイン・聖戦 in ナースステーション!』

 番外編『バレンタイン・聖戦 in ナースステーション!』



 1993年 2月13日

 雛田は、鼻歌まじりに浮かれきった後輩にため息をついた。
 東都大病院の特別病棟六階、ナースステーション。特別な理由のある患者が入院しているこのフロアには二名しか患者はいないが昼勤と夜勤の二交替で計八名いる。有事の際に対応できる最低限の人数はもっと少ないだろうが、救急が多ければ応援に呼ばれることもある。特別病棟にはホスピタリティも必要で、つまり一見すると救急外来のような激務ではないが、病院はブランド志向を意識しているのだろうと思う。


 そんなことよりも、後輩である。
 そう、担当を受け持つ患者の知り合いだろう親戚だろうと思っていた、気になっていた男がその患者とただならぬ関係――、否、婚約者だった。いわばフラれたといっても過言でない。失恋真っ最中で一時期は職務遂行能力が著しく低下し、あの鬼のように怖い婦長ですら腫れ物に触るように妙な優しさをみせた伝説を作った女である。

 その後輩が妙に浮かれているのは、雛田を含めた他のナースはわかっている。
 わかっているが、一応きいてみることにした。

 「ねえ、なんか今日、元気ね?」
 「うふふ、うふふ。そうでしょう!」
 「嬉しそうでなにより。仕事もがんばろうね?」
 「雛田先輩! 雛田先輩はぁ、どうするんですか? 明日!」

 はい、きた、この…お決まりの質問。
 雛田は数ヶ月前に彼氏と別れたばかりなのである。恋多き女であれば今頃答えに窮することもなかっただろう。そう、明日は二月十四日、七十年代後半から始まったとされる女子が男子にチョコレートを贈る企業商戦の風物詩である。義理だの、本命だの、この時期になると男性陣のちょっとした視線が気になってしまう。勲章程度のチョコが欲しいだけだろうと思わなくもない。

 「あはは、私はいいって。……そんなに浮かれてるってことは、誰かに渡すの?」
 「はい! 真島さんに!」

 は?

 その場にいたナースたちはくるっと一斉に後輩の方に顔を向けた。その視線は『お前は、何をいっているんだ?』という理解不能といったものである。後輩もさすがにその訝しげな視線に気づいて「みなさん、目が怖いですよう!」と喘ぐように叫んだ。

 「あの、この前さ……わかったじゃない? 真島さんは…」
 「婚約者でしょ! わかってますって。ううん、みなさん固く考えすぎですよう…義理チョコ? なのにい」
 「患者さんが何か用意してたらどうするの? まずはそこを把握した?」

 先輩ナースも加勢する。後輩は「何か用意って、患者は売店にすら一人で行けないんですよ?」と身も蓋もない事を言う。それは、そうなのだが。患者は特別な理由があって一人での行動はできない。一月末の経過観察の結果で、二月からこの六階のフロアを歩けるようになったとはいえ、この六階にはトイレか待合室にある自販機で飲み物を買ったり、ボードゲームで遊ぶことくらいしかできない。ボードゲームに関しては、たまにナースたちが相手することもあるが、べらぼうに弱いのだ。いじめているわけではないが、学校のクラスにはひとりいるちょっとつっつくと面白いやつっている。そういうタイプみたいで、感情と表情がリンクしているのだ。端的に言うと、わかりやすい。

 ボードゲームは、真島さんがいれば代打として打つこともある。その光景は我々ナース一同にはイチャついているようにしか見えなくて、独身ナースたちは思わず顔を顰めてしまいそうになるわけだ。真島さんは駆け引きが上手そうなのに、その必要がなさそうな子と一緒にいるので世の中は不思議だ。それは真島さんのいる世界が、職業柄がそうさせるのかもしれない。

 後輩はふくれっ面で、「じゃあ、患者に訊けばいいんですね?」とまた患者の心理背景を考えない一直線な発言に私は止めに入った。

 「ちょっとまって! あなたねえ、それって『私は彼に何かあげるけど、あなたはあげないの?』って態度なのよ?」
 「ええ〜でも、やましい気持ちとかはなくて、本当にただ義理チョコなんですよ?」
 「義理とか本命とかそういうことじゃないの。フェアじゃないってこと」
 「だって、患者は……いっつも貰ってばかりじゃないですか」

 頭に手をあてて、はあとまたため息をつくしかない。そういうところなのよ。と言ってもたぶん後輩には上手く伝わらないだろう。
 いつも『貰っている』ということを気にしない性格ならいいけど、あの患者はたぶんそうじゃない。そして与えられる側というのはとてつもなく辛いのだ。与えるものがないと、受け取り続けることに罪悪感を抱くようになる。
 真島さんはその辺をきっと理解しているのか、プレゼントを持ってきた時になにかフォローを入れているはずだ。

 「わかったわ。私がきいてくる。あなたは、仕事してて」
 「……はあい」

 そもそも、いち看護師が患者の婚約者に贈るということ自体がおかしいのだ。
 明日は日曜日、彼女の祖母は平日に二日、日曜にと週三回面会に来る。祖母が来る時に真島さんはやってくるので、来るかもしれない。

 患者は待合室でボードゲームを広げていた。長椅子に座って一人でオセロをやっている。どうやら練習をしているみたいだった。サンダルの足音に気がついて、彼女が私のほうに振り向いた。そっと近づいて、まずは世間話からはじめる。「食事、食べられるようになりましたね」とか「勉強でわからないことがあれば聞いてね」とか、当たり障りのない会話というよりは質問に近い応答がしばらく反復して、そろそろかと思い切りだそうとすると、緊張した。

 「あのう、明日なんですけど。バレンタイン、が……ですね。贈る予定ってあるかな…?」
 「ば、バレンタイン、ですか?」
 「そうよ。バレンタイン」
 「バレンタインって……聖ウァレンティヌスの記念日ですよね…?」 

 ん???

 ちょっと想像の斜め上の答えがきたぞ?

 バレンタインといえばキリスト教圏のお祝いだ。日本はチョコレートを贈るイベントで傍流に過ぎないというのは一国民としては思う。クリスマスのように信者でもなく、なんちゃってを祝っているだけあって、彼女の黒々とした真摯な瞳に責められているような感覚に陥った。
 
 「中国では情人節(チンレンジエ)っていって、男性から女性にバラを贈る日なんですよ」
 「へ、へえ……詳しいんだ」
 「台湾は旧暦の七夕がバレンタインデーなんです、夏のイベントで…一口にバレンタインデーっていっても国によって違うんです。…おもしろいですよね」

 なんでこんなに詳しいのか。最近学校の勉強を始めたから詳しくなったのか、教科書にそんな文化的な内容が掲載されているものなのか。

 「じゃあ、日本のはわかります…よね?」
 「チョコレートですよね?」
 「ああ、うん」

 一般常識に欠けているわけではないらしい。さして気にしている様子でもないのが引っかかった。この落ち着きようは一体なんなのか。結局上手く探ることができず、後輩による真島さんへのチョコレートを贈っていいかどうかは、翌日に持ち越されたのであった。


 

  ◆ ◆ ◆




 1993年 2月14日 聖戦


 いよいよ当日になった。朝から後輩がそわそわとしていてナースステーション全体に緊張の糸が張り詰めている。
 真島さんはだいたい、午前中ではなく午後に来ることが多い。患者は今日も朝食をちゃんと摂っているし、落ち着いている。一見何事もない平時状態で、もしかして今日は真島さんは来ないんじゃないか、ということが頭を過る。

 だとすれば昨日の落ち着きぶりも頷ける。来ないのであればイベントは無いようなもの。後輩はただあげそびれるだけ。誰も傷つかない。きっとそうだ、と思えば仕事に集中できた。

 午後。
 緊張の空気が最高潮に張り詰めている。比較的忙しくないこのナースステーションは他のナースたちと違って休憩が入れる時に入れるという魅力的な環境なのにも関わらず、誰一人として休憩に入ろうとしないのだ。みんな壁にかかった丸い時計の針を数えている。

 そこにエレベーターがこのフロアに到着の合図を示す、ポーンという音が鳴った。その合図で一同はざっとカウンターから首を出して誰が来るのか固唾を呑んで見守った。すると白衣が見えたことで、『はあ〜』と息をついて皆一様に落胆した。

 「こんにちはー。……って、みなさんどうかしたんですか」

 いつもはその来訪に喜べる、早見女医にもちょっと残念だな、と思ってしまい自分も相当気にしていることに気づく。「いやあ、あの」と何をどう説明すればわからなくて、苦笑いを浮かべてしまう。早見先生は「みなさんでどうぞ」と手元にあった紙袋をひょいとカウンターに置いた。何人かが「なになに?!」とそれに食らいついて、紙袋を開けた。中身はチョコレートだった。

 「世間は男性陣が期待していますが、食べたければ自分で買えばいいんですよ」
 「…たぶん、欲しいのはチョコをくれる数とか人に期待してるんだと思いますよ…?」
 「そこが気に食わないんですよ。…でも、おもしろかった。エレベーターでこれ持ってくる時、みんな見てくるんです」

 たしかに。このクールな先生がいったい誰に渡すのかというのはちょっとしたゴシップだ。実際は、ナースの差し入れだったわけだが。
 ナースの世界は女性社会だが、医師の世界はまだ男性優位だ。それ相応の苦労をしているだろうし、日頃の鬱憤を晴らすのにちょうどよかったのだろう。

 そのときまた、エレベーターがポーンと鳴った。一気に緩みかけていた緊張の糸がまた張り詰める。また、ざっとカウンターから身を乗り出して、その方向を注視する様相に、早見先生は「ええ…?」と困惑している。扉が開いて中から老女と男の話し声が響く。その組み合わせは間違いない。

 誰かが「きた」と呟いた。

 そして、フロアにはなんだか急にフローラルないい香りがして。「なんのにおい?」と先輩が言った。
 目当ての真島吾朗が見えてきて、その手に抱えているものに目を瞠った。花だ。この香りからして生花である。早見が私達の代わりに声をかけた。ずっしりと重そうな、いったい何本あるのかわからない真紅のバラである。

 「真島さん、すごいですねその花」
 「やろぉ? 普通やったら高うつくやろうけど、知り合いが買うてくれって。おかげで安なったわ。センセ、病室には持ってってええんやな?」
 「はい。この前お伝えしたように、花瓶の使用が認められました」


 ナース一同その花のボリュームに圧倒されてしまい、誰かが「プロポーズでもするのかな…」といって「まさか」と囁きあっている。
 真島さんのとなりにいた患者の祖母は「あたしでも貰ったことないわ!」と少女のようにはしゃいでいる。普通に生きててもらえる方が少ないと思う。ちょっと前に流行ったトレンディドラマのようだ。普通の若者がこの花束を抱えているとなんだか大仰に見えるが、真島さんは違和感なくしっくりときている。真紅のバラに負けていないのである。背伸びした感じではなく、さも当然というように持っているのが真島さんのすごいところだ。

 風のうわさによれば、その筋の真島さんは組を持ったとかなんとか。いわば組長になったわけである。他フロアのナースは「よく普通にしてられるよね〜」といっていた。患者に近い人間はすなわち、その個人情報を保護する範囲に入る。もしここが病院でなければちょっとしたスクープネタになっただろうが、ここに来るまでにそのバラを持っていて目立たないわけがない。
 院内ではおそらくすでに『すごい量のバラを持ったヤツ』として話題になっているはずだ。

 真島さんからいつものように煙草とライターを預かる。その時、視線にたまたま合ってしまい、なるほど、後輩があれほど騒ぐ男というのもわかった。目力というのだろうか、強くて自信があって、一般人の男性にはなかなかない『迷いのなさ』があった。その男らしい強さに『愛されたい』という気持ちが湧いてくるのかもしれない。
 
 「ん? どないしたん」
 「はっ、いえ! あんまりにすごい量なので、びっくりして…!」
 「……あとでみんなで分けたらええわ」
 「えっ?」

 思わず聞き返してしまう。そのバラは彼女のために持ってきたはずだ。それを分けていいのだろうか、というちょっとした遠慮である。真島さんは「ひひっ」と笑った。

 「花瓶に入り切らへんやろ? 部屋にこんだけあっても臭くてたまらんやろうし、……手伝ってぇな」
 「あ………、ハイ」

 真島さんは、危険だ。
 凶暴だとか暴力的だとか、そういうのもあるかもしれないけど、魔力がある。魔性ともいっていい。ふとした瞬間に来るのだ。
 黙っていても不自由をしないその魔性を持つ男が、たった一人の少女然とした女に惚れこんでいるのである。不思議だ。私はおそらく全てを知れることはない。ただ、二人が普通の男女のような関係とは思い難い。誰にも踏み込めない有刺鉄線が手前に並んでいるような、そんな景色を想像した。
 

 真島さんは病室へ向かった。そのとき二人がどうなったのかは知らない。

 さすがの後輩も意気消沈して、そのあと反省会という名の励まし会となり、彼女が持ってきていたチョコレートは早見先生が持ってきてくれた差し入れと一緒にナースみんなで美味しく食べた。



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