六章 『春潮に渡る銀雪』
1993年 3月14日
虫の知らせというものがある。
目覚まし時計が鳴るよりもずっと早い、朝四時過ぎにふっと目覚めた。室内は冷え切っており、カーテンを開けると濃紺の闇をチラチラと遮るなにかがある。それは雪だった。暦ではすっかり春、春本番を目前にして降り積もる雪。それは、今からなにかが起こることを予感させた。
その予感はすぐ現実のものとなる。一本の電話が入り、不思議な力に引っ張られるようにして真島の腕がのびた。
「もしもし」
電話の向こうの切迫した状況を、電話主の息遣いの荒さにより、如実にあらわれている。真島組で電話番をしている若衆の一人が名前を名乗った。
「親父! すんません、こないな夜中にっ」
「ええ。早う、用件言えや」
「た…、高木の叔父貴が…! さらわれたんです…!」
さらわれた。拉致である。
怨恨などとは無縁に思えるが、極道の世界ではちょっとした力関係や抗争に持ち込まんとするゆえに、何かしらの思惑が働いてそうなる事は無きにしもあらず。しかし、高木に限っては不可解にも思えた。
「お前、この話は……嶋野のほうの親父にいっとんのか?」
「ま、まだです」
「………。わかったわ。いっぺん、この話は俺が持つ。嶋野組と親父のほうには漏らすな」
「わかりました」
「すぐ事務所にいく」
高木の所属はあくまで嶋野組で、若頭である真島に話が先にいくのは筋通りだが、真島組にその話が先に来ているのは、なんともおかしな話である。それは拉致をした人間が、狙って真島に、なにかを仕掛けようとしている意図を感じられた。
一度通話を切り、起き上がって着替える。必要最低限の物をもって、部屋を出ようとしたとき、また電話が鳴った。履きかけた靴を煩わしく脱ぎ去って、受話器をとる。
「もしもし、真島さんですか? あっああ、あの」
受話器の向こうは女の声だった。
うしろにいると思しき気配がいくつか忙しなく動いている。「落ち着いて!」と語気強い別の女の声がする。真島が電話の相手がどこからで誰が掛けているのか、嫌な想像をしだしたとき、「東都大病院の、特別病棟六階です」という努めて冷静に絞り出した声が心臓を震わせた。
「涼、…涼になにかあったんですか」
「病室からいなくなっていて……! 病室外の警備にあたられている警察官もいなくて、ついさっき警察の方に連絡は入れたんですが」
「………」
真島は珍しく言葉を失っていた。
最悪の想像が現実のものとなった。彼女の所在も、事件のことも、すべて箝口令が敷かれているのだから、突き止めるには警察内部に内通者あるいは、その身内からの情報漏洩しかない。もしくは、自分が依頼した『蛇華』が寝返り、『藍華蓮』と手を組んだ可能性を考えた。しかし『蛇華』からは先週に内偵の通達があった。王泰然が生存していて、潜伏している場所を伝え聞いている。
内々に事態を収める計画を企てていたが、それよりも早く彼らが動いたということだった。
「真島さん……? 大丈夫ですか、あ…はい。すみません、お電話替わります」
ぐるぐると思考の輪廻にはまってしまった真島の耳に、涼し気な声が届く。
「真島さん替わりました。早見です。時間がないので簡潔に言います。拘置所にいる『王汀州』も消えています。ですので現在、警察内部では混乱が起きてまして、……つまり、拉致されたと考えるのが順当かと」
「あ、ああ……」
一人の脱獄、二人の拉致。高木の拉致は別件というには無関係でないように思えた。
どれから手を付けるべきか。極道の序列に則って決めるなら、舎弟を優先するだろう。そうも言えないほど相手が悪い。なぜならば、王たちは交渉する目的での拉致行為ではないからだ。拉致をしたならばそのまま国外逃亡を図る。あるいは見逃すように、涼の命を盾に振りかざすだろう。
「真島さん、どうしますか」
「……センセ。場所は知っとるんですわ。おそらく……、海に沿って逃げる。場所は、千葉港の倉庫ですわ」
「はい、……はい」
早見は電話の向こうでメモを取っている様子だった。この情報が警察に伝播されるだろう。
真島は再び、暗闇を映す窓の向こうを見上げた。都心で数センチ以上降るのは珍しいが、この降り方は積りそうである。
「雪降っとるさかい、陸では無理や。向こうは今日中に逃げなあかん。航路は、南側、太平洋側から瀬戸内を経由するかもしれへん」
積雪は北側を中心に、寒気とともに下りてきている。北に逃げるというのは少し考えにくい。比較的温暖な太平洋側を伝って、瀬戸内に逃げ込むか、その手前にあるなんらかの島に逃げるかだ。瀬戸内といったのは、離島が約七百数ある。ゆえに隠れ蓑には最適であるからだった。そこから抜けていけば、大陸にも逃れやすい理想的なルートといえる。
「俺は今から向かいます。連絡あったら、ベル鳴らしてください」
「わかりました。伝えておきます。……くれぐれもお気をつけて」
早見との通話が終了する。
真島は電話のダイヤルを押す。真島組に連絡を入れるためである。
「もしもし、こちら真島組の……」
「俺や。手短に言うで。高木さらったんは目星ついとるんか」
「親父…! いえ、それが……ただ、電話主が訛ってまして。その訛りはおそらく、東海のほうなんじゃないかと」
「東海やと…? 愛知らへんか」
「へえ」
真島は首を傾げた。
東海地方に何らかの因縁がある、としても身に覚えがなかった。だとするなら高木の個人的な事情に絡んでいると考えた。想い人の捜索のツテが東海方面であったという可能性があった。そこからなぜ、真島に繋がるのかは高木の捜索が内偵に思えたのか。しかし、それでも名指しで真島組に掛けてきているのだから不可解に行き着く。
「向こうは、俺を出せ言うとんのか」
「今は、まだ。時間の問題やと思います」
「……。のう、そっちに何人おる」
「電話番は俺ともうひとり、下で十五人くらい。あとは呼べばすぐ来ます」
「高木はどこおる」
「ええっと、西東京のほうです」
高木のほうは時間が稼げそうとなれば、とりあえずまともな奴を先に現場に向かわせて連絡を入れさせる事にした。
「木内と坂井の二人はおるかいの」
「へえ。二人ともいます」
「二人は俺と一緒に別件や。それが済んだら、西東京に行く。残り十人くらいで先行っとけ。お前と定期的に連絡とって、万が一の事態になれば、坂井のベル鳴らすんや。ええか」
「わかりました」
「二人に声かけて、車回せ。木内に運転させろや」
この時間帯ではまだ始発は動いていない。一番早くても、五時手前が最初になる。積雪によっては見合わせや遅延になるかもしれない。それを待つのは惜しいため車で行くしか無いのだ。幸いにして木内はたしか東北出身と聞いている。雪道に慣れている人間に運転させる算段である。電話を切って、いよいよ真島は部屋を出た。外はわずかに吹雪いている。
まだ夜は明けていない。この風雪では、海上はもっと吹いているため船はまだ出せないはずだ。
『赤い波止場の竜』と呼ばれる千葉港にある巨大倉庫。涼をさらって一時的な避難場所とし、かつ出港するにはその場所しかありえなかった。