第六章 春潮に渡る銀雪A


  ◇ ◇ ◇



  濃厚な闇に浮かぶ白熱灯。畏れ続けた冷酷な双眸が鈍い輝きをもって見下ろしている。まるでそれは、遅すぎた眠りからの目覚めを、責めているようだった。

 革張りの感触は、あの島で過ごした日々そのもので、島の生活が続いている感覚に囚われるのだ。しかし、自分の着ている衣服は病院着で、口元は粘着力の強いテープが貼り付けられ、両手両足には手錠がかけられている。窓ガラスのない四角形の穴からは雪が冷気とともに吹きこぼれて、時折強い風が吹くと粉雪が舞う。昔、母に連れられて通った、教会のステンドグラスに描かれた聖い絵のように幻想的だった。


 「小猫」

 ぼやけた闇が動いた。次第に意識が明瞭になっていく。
 その男は椅子の目の前に、車椅子に座って、じっと見下ろしているだけかと思えば、涼の長くなった絹糸のようになめらかな髪に触れた。

 (ここは、どこ…)

 涼は、視線をきょろきょろと彷徨わせた。
 視界の端は未だ暗いが、無機質なコンクリートの肌に広い空間に、床上に赤い鉄骨が散乱している。倉庫のようだった。そんな場所に趣のある猫脚で革張りのソファを、ベッド代わりに横たわる自分と、髪を弄ぶ男、王汀州と二人きりである。
 一定の温度設定がされている病院とは違い、屋内にいるが、定期的にびゅうびゅうと吹き込む強い風と、海鳴りのような不気味な低い音と潮の香りに、ここが海が近いのだと知る。薄手の病院着では防寒性は皆無であるゆえに、体は冷たく足の指先の感覚はとうにない。


 それは、遠い昔の最初の島に漂流した時を思い出させたが、涼は不思議なくらいに冷静だった。
 王汀州を見上げる。酷薄な人相がさらに痩せたことで悪鬼のようだ。憐れみすらも覚える男は、ふ、と笑った。骨ばった指は髪から頬へ移る。

 「我忘不了你」
 「……」


 『わたしは、お前を忘れることができなかった』
 この期に及んで、そんな物言いをするのは性根が極悪だからだろう。王汀州にとって、吟は、涼は、玩具なのだ。玩具、だった。
 もう、この体は涼のもので、涼は日本に帰ってきた。

 王汀州は、厚いコートのポケットに入っていた銀色の重そうな鋏を鳴らす。それが、片手で一房の髪を捉えると、鋏でカシャンと音をたてて断ち切られる。ぱらぱらと切られた髪が顔に上に舞った。細かい毛が目に入るの防ぐために瞼を閉じるも、それが、その男には何に映ったのか、場所を変えて、カシャンと二度目の裁断を促した。固く目を瞑る様子を嬉しく思っているとわかったのは、髪がすっかり短くなってからだった。「このほうがいい」と男は言った。

 「この鋏がほしいですか」

 わずかに心臓が跳ねた。
 今も髪を切り続ける凶器になりえる、刃物が耳元でカシャンと鳴る。涼はほんのわずかだが、その鋏があればこの窮状を打開できるのではないかと考えたのだ。それはつまり、王汀州の思考と同じということを意味する。男は涼の反骨心を読み取っており、簡単に解放を許してくれなさそうだった。

 「無駄ですよ、小猫。あまり、怒らせないほうがいい。うっかり、切ってしまうかもしれない」


 つう、と鋭く冷たい感触が首筋に宛てがわれる。わずかに動いただけで喉の薄い皮膚が切れてしまいそうだ。


 「助けを期待しないほうがいいですよ、この国の公僕は役たたずですから。三食の飯に、牢のなかでは自由。ははは……当然の結果だ」


 警察はそうかもしれないが、涼にはまだ一つ起死回生の可能性が残っている。真島だ。
 しかしその考えすらも読み取られているように、王汀州は口角を三日月にすると、歪めた。「あの男は来ませんよ」と断言した。

 「所詮あの男も、同じ穴のムジナ。日本人の、ヤクザだ。長いものには巻かれる宿命がある」

 そんなことはない。そんなことは。真島は必ず来る。
 しかし、同じように掟の厳しい組織というものが、個人ではなく集団や組織を優先させる事を、身を以て知っていた。断言したいが、彼が迎えに来てくれるかどうか、彼の重い役職者という立場があるならば慎重に動くはずだった。来るにしても、今すぐにとはいかないだろう。臆病な考えに戻りそうになり、「違う」と声に出すつもりが塞がれているせいで唸り声にしかならなかった。

 「それとも、絆されたのか……?」

 襟元を力強く掴まれると、目と鼻の先に悪相がある。死人のように冷たい吐息が吹きかかると身震いした。それを是と受け取ったのか、男の目に鮮烈な憤怒が宿る。手にあった鉄の凶器を逆手に持ち替えると、涼はいよいよ死を覚悟した。

 「汀州」
 「……泰然」

 間一髪、涼へ突き立てようとした凶器は寸前に留まった。伝わらないようにほっと息をつく。
 暗闇の向こうから現れたのは、王汀州の弟、王泰然だった。

 こちらも以前相まみえた時よりも頬が削げており、凶悪な人相が浮き彫りになっている。王兄弟が揃っている、ということは今は出国は秒読みといったところだろうか。外は悪天候で船が出せる状況ではない。しかし長居をする雰囲気はない、少なくともこの強風が収まれば無理矢理にでも出るのだろう。
 涼はどうにかして、この倉庫から、せめて両足の手錠を解錠できればと考えていた。
 二人は中国語で話し始めた。

 「船はいつ出せる」
 「風が止めば、すぐ。北側から迂回していく。なに、根回しは済んでる。アオモリで降りる。そこから反対側に出てイシカワまで」

 車椅子に座る兄を見下ろして王泰然は懐にしまってあった白い布に包まれたものを王汀州へと差し出した。それを捲ると、アメリカ製の銃があった。王泰然は王汀州と同様暴力的な人間だが、性格はそこまでひねくれていない。

 「予備のものだ。あともう一つある。……そいつは、殺してしまわないのか」
 「最後の楽しみだ」
 「足手まといになる。なあ、兄弟…今は遊んでる場合じゃない」


 チャッと音を立てたかと思えば、その銃口を弟に向けていた。王泰然は努めて冷静に「悪かった」と謝った。

 「張浩然(チョウ・ハオラン)が組織の金を横領して逃げ出そうって時も、接触したこの女の始末を避けた。なぜだ? いつ、なんどきもこの女を生かす。こんな奴、そのまま臓器くり抜かれて売り捌かれてたんだぜ。そのほうが、金になる。兄弟、あんたが他の奴らになんていわれてるか知ってるか?」
 「今日は随分とおしゃべりだな。他人は、関係ない」

 涼はそのとき一つの事実に動揺していた。もしあの時の花束を受け取っていたら、という恐ろしい真実だった。

 「まあ、いいさ。こいつのおかげで、根回しは上手くいったんだ。船上で暴れなけりゃ、海に突き落とすってことはしない」
 「ふん。向こうでも役に立つ」
 「ただ、餌で釣ったぶん、あいつらに上手く納得してもらわないといけないんだ。……そいつと会いたいってやつがいる」

 『会いたい?』
 涼は首をひねる。心当たりがなかったからだ。
 倉庫のどこかで派手な音が鳴る。入口のドアが引き開けられた音だった。
 数十人近くのスーツ姿の男たちがぞろぞろと三人の前まで歩いてくる。その中から一人の、首領と思しき人間が一歩進み出る。

 「どうも。計画は順調ですよ。しっかし、こんなに吹雪いてるってのにほんとに船、出すんですか?」
 「ああ」

 王泰然が返事する。根回しに助太刀してもらった組織だろう。視界不良のため、彼らの胸についている代紋がどこのものかはわからないが、涼の知らない暴力団組織であった。ただ喋っている長の言葉が標準語に少しの訛りがある。

 「そうですか。青森のほうには先に行かせてあります。港で落ち合ってください。三日後、北陸でお会いしましょう」

 長は喉を鳴らして笑う。

 「ああ、あとその女は置いてってもらいますよ」
 「約束が違う、シドウ」
 「約束? そんなもんしましたっけね。……うちらは迷惑してんです、その女のせいで嗅ぎつかれちまいまして、あんたらはいいご身分ですよ。せっかく逃亡の手伝いしてやってるってのに、呑めないんじゃ困る」

 王泰然の口から『シドウ』というおそらくその長の名前と思われる音が発せられる。涼は契約の反故が起こりうるこの緊張感から息を呑んだ。どのみち、両者のどちらの手に渡っても殺される運命にある。ただ、始末をつける人間が増えただけだ。場合によっては、この場で殺されるかもしれない。

 「おい、あいつ出せ」
 「へい!」

 マフィアとヤクザの中に引きずりだされたのは、満身創痍の一人の若い男だった。
 顔は赤黒く変色し、コブができ腫れ上がっており、服の下も同様に惨い仕打ちを受けているのだろう。若い男はヤクザの手下に乱暴に突き出されると、固いコンクリートの地面の上に膝をついた。
 シドウは居丈高にふんぞり返りながら若い男の背を蹴り上げた。

 「あぐッ」

 床に投げ出され、口内に溜まっていた唾液混じりの血液を吐き出し、浅い呼吸を繰り返している。
 そしてその男の虚ろな瞳と、革張りのソファで丸まったままの涼の視線が交じりあう。

 「その女を連れ出せたんにゃ、こいつのおかげなんですわ。ちょこまかして、目障りだったんでさっさと消しちまうつもりが、繋がっとったんです。知ってるでしょ、さらった警察官を吐かせたら全部吐いた。東城会の、嶋野組……。真島とお知り合いでしょう?」

 王兄弟は沈黙した。
 シドウはニヒルに笑った。

 「真島の舎弟ですってね。二人揃って脇が甘い。……つまり、易々とお姫さまを差し上げるには割に合わないってことです」
 「フン、日本人ならサービスは得意だろう」
 「ハハハ、サービスにも限度ってもんがあります。……ただその女を置いていくだけでいいって、言ってんだ」

 一触即発の空気が張り詰める。
 窓のガラスのない、四角形の穴から強い吹雪が流れ込んできたとき、一発の射撃音が鳴り響いた。

 生暖かい血飛沫はさまざまな人の死を思い起こさせる。語り明かすことをしなかった間にも、たくさんの人が涼だった彼の前で死んでいった。いま、彼の記憶のすべては涼にある。思えば、このひとは血に飢えている。それが自分の血だとして、自分自身の渇きを癒せるのだろうか。

 急所をほんのわずかに避けた王汀州は、車椅子の上でよろめいた。手に握っていた重い鋏がガシャンと音を立てる。
 弟の「汀州!」と呼ぶ声とともに、場が混乱に陥る。シドウは、自分の周囲の同胞をまず疑った。そして倉庫内を見渡すと、「サツか……?」と呟いた。銃弾はどこから来たのか。たった一発で一気に窮地に立たされた彼らは、とくに王泰然は、撃たれた王汀州よりも冷静でいられなかった。

 「どうなってる!!」
 「わかりやせんよ!」

 王汀州は狙撃された左腕を負荷をかけないように右側に凭れて、落とした鋏を持ち直した。それを寝そべっている涼の手錠のチェーンを切断した。涼はあっけにとられていたが、首に押し当てられると、それが少しの善意ではないことを教えられる。『手当しろ』と王汀州は厳かに言った。そのための自由だ、ということである。
 鋏を手渡されると、涼は震える手で足の方の手錠を砕いた。

 そうして、ソファから立ち上がると、懐に収めていた銃を腰に突きつけられる。今ならば、背後に回り込んで一突きすれば容易に銃を奪えることを、涼は直感的に識っていた。それは彼の経験である。確実にこの恨めしい男を殺すことができるのだ。けれども、そうすることは自分を今日まで守ってきた人々を裏切ってしまいかねない。涼は、善良な市民として生きていくのだから。

 涼は手にした鋏を、王汀州へ返した。
 シドウに対して王泰然は「船を出せ!」と吠えた。

 「何いって……、そっちの人、海上で死んじまいますよ?」

 王泰然は取り乱して、髪を毟った。
 王汀州が一つ息を吐くと、口を開いた。
 
 「泰然。いいじゃないですか、船を出してもらいましょう。その代わり、この子は医者だ。医者を同伴させるのは理に適っているでしょう?」
 「な……!! なにいってんだ。そんなの通るわけねえだろ!」

 今度はシドウが吠える番だった。
 王汀州はさらにもうひと押し、と続ける。グリップを親指の付け根で支えて、指をピッと三本立てる。

 「では、こうしましょう。報酬を増やす。それでいいでしょう」
 「金でどうにかなるとでも? その女はただの女じゃねえんだ。あんた仕込みかもしれないが、優秀だよ。役に立つ」
 「譲れ、というわけですね。ははは……! どうです、どんな気分ですか。あなたはこっちの世界のほうが向いているらしいです」
 
 涼のほうを向いて、王汀州は嘲笑った。
 「何をやらせても、満足にこなせなかったのに」と付け加えて。

 涼が顔を俯かせたとき、倉庫中に地震のような地鳴りが轟く。
 一同はざわめき、シドウはまたも吠えた。

 「なんなんだ、これは!」

 涼は体中がしびれるような感覚に、何が起ころうとしているのか直感的にわかった。

 「伏せろ!」

 
 咄嗟に張り上げた号令も、次に訪れた爆発、爆風によって掻き消える。
 目と耳を押さえて、床に突伏する。倉庫中が灼熱に包まれていることを、急激に高まる空気の熱で理解する。
 鉄骨が傾き、屋根が音をたてて燃え落ちてくる。

 「あ……」

 目を開けるとあたりは火の海と化していた。傍らにいる、王汀州は車椅子の傍らに転倒している。その兄を護るように王泰然が覆いかぶさっている。両者共に、生きているか死んでいるかはわからない。鉄骨に押しつぶされて死んでいる者が何人かいる。涼は逃げるなら今しかないと確信した。
 一歩、二歩とその場から歩いていくと掠れた声がした。それは涼を呼んでいるようだった。赤々と燃え広がる一面に、目を凝らしてよく探すと、手ひどく暴力を受けたあの青年が、涼の方を向いていた。

 「おい、たすけ……」
 「喋らないで」

 熱で気管を焼かないように、息を潜めて涼は声をかけた。その青年はうかつにも口を開いたことで熱の痛みを肺に招いているようだった。激しく咳き込み、苦しそうに呻いた。涼はそっと傍らに屈んで、その男の脇に腕を差し込むと、力いっぱい足を踏みしめる。成人男性を持ち上げる事は随分と久しかった。
 すっかり筋力の衰えた肉体ではどこまで行けるだろう。と自分自身に挑戦的に問いかけてみる。
 そのとき、一発の跳弾の音にはっとした。
 振り向くと、銃口をまっすぐに向けた王汀州が涼を睨めつけて、憎悪や悲哀の混じった強い情を剥き出しにしている。涼はなにひとつとして、この人を理解してやれないのを、少し哀しく思った。

 自分の何が、彼の何が、その男を満たすものがあると予感させたのだろう。期待させたのだろう。
 
 炎の勢いが増す。一歩、もう一歩、歩は進んでいく。
 永遠の謎になるだろう。そうしてその男は、自分の人生の大半を蝕んだ挙げ句、最後まで爪痕を遺すのだ。
 
 鉄骨が二人を遮るように、落ちてくる。その間際に、呼ばれた気がした。
 『涼』と。
 今更、遅いのだ。何もかも。
 

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