三章『蠅の王』A



 灼熱の殴打で真島は目を覚ました。
 両手には枷があり、足元は地についておらず吊るされている。たった今まで夢をみていたかのように意識は朦朧としている。吊るされている真島を嬲るのは、スーツを着た複数の男たちだった。品のない笑いとともに脇腹や顔をつっついて楽しんでいる。夢見心地だが「嶋野がくる」と言っていたはずだ。

 「し、しま…の」

 振り絞った言葉は責めによりかき消える。
 痛覚は相変わらず死んでいる。なぜかはわからない。

 「インさん。肉抉るのはダメですかい」

 一人の男がそう問うた。

 イン? 耳馴染みのない音に、真島は視界を彷徨わせる。男たちより後方で壁を背に両手を後ろ手に組んで少年が立っている。あの少年だ。

 拷問に励む男たちを監視している立場のようで、目つきが厳しい。少年の顔が見えるほどにここは明るい場所であることに気づく。光源は裸電球だけだが、きのういた場所よりはずっと明るい。
 イン。インという名前なのだ、あの少年は。真島の入浴と食事を世話し、食事部屋で隣の椅子に座った男に熱いスープを振り掛け殺した男。

 「どうせ、死んじまうのにねえ。いいでしょうよ」
 「契約違反になりますよ」

 凛とした態度でインは言った。『契約違反』とはいったいなんのことだ。――と巡らせた思考が、また衝撃に奪われる。


 「ひひひっ、違反したところで俺たちにゃあんたら中華系が怖くねえ。日本に来て仕事をくださいって頭下げてるのはあんたらなんだからなァ?」

 インは冷静な姿勢を崩さない。刃物のように鋭い視線だけが放たれる。インが何も言わないせいで、真島の腹に強打が加えられているというのに。

 「ぐぁッ」

 吐くものはない。
 かすかに胃液がせり上がる気配はあっても、昨日わずかに飲んだスープなど、とっくに消化されている。



 「最終警告をする。契約違反になりますよ」

 厳しいインの一声に意を介さない男たちだったが、一向に次の衝撃がやってこない。どうしたのかと顔をあげると、そこにはその場すべての空気を飲み込むほどの圧倒的巨漢。覇者の気が満ちている。頭で理解するよりも早く真島は「お、親父ィ…っ」と声を振り絞っていた。


 「し、し、嶋野さ…」
 「言うこと聞かん奴寄越して、えろうすんませんなぁ」

 男たちは青ざめており、二の次を継げないでいる。背後にいるインは「お待ちしておりました、嶋野さま」と恭しく一礼した。

 「……お前には失望したで、真島ぁ」
 「……嶋野の、親父」

 嶋野は持っていた扇子をパシリと手に打つ。心中、冴島大河のことを忘れた事はない。嶋野が来たということは、答えてくれるという淡い期待があった。


 「極道にとって親の命令は絶対。……お前やったらそんくらいわかっとると思っとったがなあ」
 「親父……兄弟は……、冴島はどうなったんですか……!?」

 嶋野は答えなかった。
 インと同じように、知っているのに答えない。

 「教えてください……親父!」

 背後に佇むインと違って、おもしろそうに、笑みを湛えている。真島には何も良くない。


 「……道を外した極道が行きつく先がこの『穴倉』や。昔、言うたことあったやろ」
 「…お、……親父」
 「安心せえ、別に殺しはせん。……せやけど、ここにぶち込まれた奴はみんな、『殺してくれ』って泣いて頼むわ。何でやろな」

 真島にはそれが何故なのか、薄々察しがついていた。
 『穴倉。そこには閻魔に舌をすっこ抜かれるよりも恐ろしい拷問官がいる』、嶋野が昔いった脅し文句だった。
 しかし真島は屈してはならないのだ。拷問で死に絶えてはならない。兄弟、冴島大河がいるからだ。再三問う。

 「親父……兄弟は……!? 教えてください……」

 嶋野は吊るされた真島に背を向けると、入り口に立つインの右肩に厚い手を置いた。

 「ええもん、見せてくれや。チップ弾みますさかい。……せっかく来たんや、あいつの尻を可愛がってからいくわ」
 はっと真島は息を呑む。インはまっすぐ真島を見据えたままである。

 「かしこまりました」

 インが真島の目の前に立った。脂汗の浮かんだ顔を優しく撫でて、張り付いた髪を除けてくれる。幾人がこの男の『技』に翻弄されたことだろう。

 極限状態で施しを与えてくれる者を、人は神に、あるいは聖母に喩える。真島は熱心な宗教信者ではないが、憐れみに満ちたやさしさに不慣れゆえ、今もこうして少年の優しい手の愛撫を心地よく受け入れている。

 この人だけが、この世界で唯一優しくしてくれる。頭では危険だと理解していても、ドツボにハマっていくのだ。
 少年は『一言』も真島と話したことはないのに。話すのは業務内容の言葉だけだ。することは決まったことだけ。彼自身の言葉は、心情は明かされない。


 「嶋野さま。奥の部屋でお待ちください」
 「はようしてくれな」


 嶋野が扉の奥へ消える。インは真島の枷を外していき、手慣れたように脇の下から体を差し入れて持ち上げる。よろけそうになるも、インの支柱は石のように頑丈だ。
 ふとあのいい匂いが鼻を掠める。右脇下にいる彼の、女のように細くて白いうなじは猫のような太陽の匂いがする。派手な女たちの好む香水よりも純朴で誠実な香りだった。
 
 「お待たせいたしました」
 「おう」

 連れてこられたのは上下左右、一面鏡張りの部屋だった。薄暗い部屋に鈍く光を反射している。
 どこを向いても部屋にいる三人が映り込む鏡の部屋でまさかこんな場所で嶋野に体を明かさなければいけないことに真島は戸惑いを隠せなかった。入り口の左右に備え付けられている長椅子に、嶋野は大きな図体をどっしりと据えていた。

 インが「立てますか」と定型文を真島に問う。返事も聞かず、インは脇下から身を抜いた。上下左右鏡の世界、痛覚が薄く左目のない真島には平衡感覚をさらに狂わせていく造りになっていた。自然と、足元から崩れてドシンと鏡の上に身を投げだした。用事が済んだとばかりにインが立ち去ろうとするのを、真島は引き止めた。

 「放してください」

 彼のことだから、振り払うことは容易だ。しかしそれを止めたのは嶋野だった。

 「まあ、一興ご覧くださったら、どうやろか」
 「……」

 真島はさらに嫌な汗をかく。引き止めたが、まさか痴態を晒すことを良しとする意味ではなかった。

 「あんたも、この穴倉の生活が長いやろて。……この悪ガキがあんたと同い年の頃には、とっくに酒とタバコに女。遊んどりましたわ」
 「……」

 インはうんともすんとも言わない。怜悧な視線を嶋野に向けている。


 「聞きましたで。ここのもんに優しゅうしてるて、みんなあんたを『好き』になってまう。飴や。甘い甘い、飴ちゃん」


 それは皮肉にも聞こえた。嶋野が『若造がちゃんと仕事してるんやろな』という本音を暗に伝えている様だった。伝わっているのか伝わっていないのか定かではないが、インは嶋野から視線を外さない。この凄みのある男を前に怯まない精神力はなまじ普通の人間には備わっていない。

 「男がイケる口かどうかはさておき、こいつは名器ですさかい、女の味には戻れへんようになるのが玉に瑕。……暇になったら退屈しのぎにはなりますやろ」
 「――――」
 インは静かに壁に凭れた。そして瞼を閉じた。
 嶋野は『ご覧くださったら』とだけ言った。つまり彼は見ないが、その場にいないわけでもないという返事をした。これがもし、『ご賞味』だったらどうしていただろう。

 鏡の床に身を丸めている真島を、嶋野は掴み上げ立たせる。

 「真島ぁ、気張りぃや」
 「親父…っ」
 
 真島のお勤めが始まった。
 久々に激しい責め苦を味わい、ひとしきり嶋野のイロを演じた。
 鏡に反射された己の痴態をまざまざと見せつけられ、インのほうを見れば彫刻物のように堅く微動だにしない。嶋野もそれが気に食わないようで、真島を貫きながら売り言葉を投げつけている。

 「ふ、……ぐっ、う、ゥッ!」
 「えらい締めよって。お前のも腫れとるやないか。……お前もあのチビガキを『好き』になってしもたんかぁ?」
 「っぐ、ちが……ぃ、まッ、ぎっ…」

 否定したものの、抑制の効かない気持ちがすでにある。嶋野の言う通りだった。
 女への惚れた腫れたというレベルにはない。兄弟に対する絶対的な信頼でもなく、ただ純粋に心地よいと思っているはずなのだが、精神と肉体の感情は乖離しているらしく。

 真島の肉体は紛れもなくインに欲情していた。
 汗と精の生臭さが部屋に充満していく。体内を暴かれる肉同士の摩擦はロマンチックには程遠く、早く終わってくれと真島は願った。

 「あぁ、ええ。ええでぇ、真島……」
 「ハ、……ハッ、はぁ、っ……それ、は…おおきに…」
 「やっぱし、才能あるわ。……世の中のガキはぁ、女に腰振って、一丁前な顔しとる。そんなもん、誰でもできる」

 嶋野はたびたび閨でも同じことを言っていた。『英雄色を好む』と。男も女も、酸いも甘いも噛み分けてこそだと。それが建前ではあるが真島も揚げ足を取るのも野暮だと頷いた。
 皮肉にも真島はその経験が女との営みに役立っていることに認めざるを得ない。男が男を知ることは、女をも知ることに繋がっていたのだ。

 「………終わりましたで」

 力尽きた真島はふたたび鏡の床へ身を横たえた。一面には精液と汗が飛び散り異臭を放っている。嶋野は身を整えネクタイを締めた。やってきた時と同じように。最後に好色の笑みを湛え真島を見下ろして言った。「また、見に来るわ」と。それがいつなのか、どれくらい先までここにいなくてはならないのか、兄弟の話のように教えてはくれないだろう。

 壁の華となり、一部始終を傾聴していたインが何事もなかったかのように、真島の傍にやってくる。すると嶋野ががっしりとインの右腕を掴み上げた。

 「いかがなさいましたか」
 「飴ちゃんばっかり舐めさせたら、虫歯なってまうで」
 「心得ております。………その他に、なにかございますか」
 「はん、そない玉のなさそうな女々しい顔しおって、ほんまにあの『蠅の王』なんかいな。しっかりチップ代の働き、してみいや」 

 何度も続いた嶋野の挑発にようやくインが動いた。嶋野の手を振り払い、足元に転がっている真島の髪を乱雑に掴み、懐から出した四角いピンク色のチップを自分の唾液で湿らせると唇の端で咥えた。そのまま真島の後頭部を抱え、唇が噛み合わさる。

 「ン、ぬ、…! うう!」

 眼前に、インの顔がある。キスをしている、と理解するまでに数秒を要した。漆黒の瞳が鈍い光を持ち真島を射抜く。気圧され、インの口移しで流し込まれた薬によってたちまち正常な思考を奪われていく。体中が火がついて燃えているように熱く感じられ、腹の底から獣のように叫んだ。燃えている、燃えているのだ。ありえないことに、自分の体中にに火の手がまわり、炎がごうごうと音をたて燃えているのだ。

 「うあぁぁぁッ!!」
 熱い、熱い、熱い……!
 ごろり、ごろりと『火だるま』になって真島はのたうつ。
 その姿を嶋野はにやにやと見下ろしている。インは「大陸の薬です」と言った。

 「シャブなんぞ、気持ちがいいから手に入れたがるもんやな。……これは、ええもん見さしてもらいましたわ」
 「お褒めいただき恐縮です」
 インが両手を胸の前で合わせ、深く一礼する。


 嶋野を見送ってインは、後始末に取り掛かる。
 いまなお『体内発火』の薬の効果で苦痛にもがき苦しむ男を独房に戻す役割が残っている。暴れた男は手に負えない。いつもならもう一人を呼んで気絶させて二人がかりで運ぶところだ。あたり一面を見渡す。男たちの残滓が飛び散っており掃除が必要だ。インは一旦部屋を出た。
 台車に氷と冷水の入ったバケツを載せられる限りを載せて部屋に運んでくるなり、冷水入りのバケツを全裸の男の真上に振り掛ける。

 「うぅぅ、あ、あぁ、あが……!!」

 幻覚作用のある強い薬を服用させている。つまり、真島の感じている『熱さ』は本物ではない。あまりに冷水をかければ死んでしまう可能性もあるが、水の勢いを感じさせなくてはならなかった。手際よく、二杯目をぶっかける。水の勢いとともに氷がジャラジャラと音をたてて流れていく。

 「ひぃ、ひぐ…」
 「………」

 少し落ち着きを取り戻している。体はまだ動きたがっている。インは真島に馬乗りになって、両頬を左右の手で交互に叩く。

 「う、うっ」

 『あつい…』と真島は小さな声で呟いた。体はすっかり冷え切っているはずなのでこれ以上冷水をかけることはない。インはまた部屋の外に出て、やかんと入浴セットを持ってくる。

 やかんには熱湯が入っている。それを空のバケツに半分、まだ台車に残っている冷水を半分入れて人肌より少し熱い程度の湯を作る。
 それを少しずつ、真島の体へ馴染ませていく。肌が温もりを取り戻して来たらスポンジにボディソープをかけ泡立ててから、真島の体を洗ってやる。

 頭のてっぺんからつま先、尻の穴まで丁寧に。それが終わるとまた温かいお湯ですすぐ。部屋の奥にあったデッキブラシで床を『ついで』に磨く。水を排水溝へと流して、タオルで真島の体を拭き上げる。後処理が終盤になって「ふぅ」とインは一つ息を吐いた。
 用具を仕舞い、あとはその辺に脱ぎ散らかっている男の服を着せて独房に戻すだけだ。

 いつもならもう一人同じ時間帯に働く男に声をかけて手伝ってもらうが、ふと手元の懐中時計をみるとタイミングが悪いだろう。あの男は飯を食らう時の拷問受刑者が大好きだ。
 その時、鏡部屋の扉が開いた。
 インは僅かながら身を固くする。

 漆黒の中国服を身に纏い、頭を丸めた酷薄な顔つきの男だ。インを見るとかすかに口元に曲線が浮かぶ。
 「一人でやったのですか」
 「……はい」

 インは日本語から中国語へと切り替える。ポピュラーな普通語での会話である。
 「そりゃあいい。……その男、あのシマノの持ち物ですね」
 「…、はい」
 「さきほどお会いした。チップを弾むだとかなんとか、言っていた」
 「……王汀州」

 男の名前は王汀州(オウ・テイシュウ)といった。狐のように細い切れ長の目の奥で何を考えているかわからない。
 平静を保っているように見えてインの声は震えている。インの周囲をゆっくりともったいつけて歩く。
 「契約変更はありません。殺さず、煮るなり焼くなり、お好きなようにと」
 「はい、王汀州」
 「今回のあなたの動向をみて、今後の処遇を考えます。……人殺しは、お好きですか?」
 「………」

 嶋野とは違い、柔らかな物腰に丁寧な言葉を使っているが含みの多い毒を持っている。
 「王吟、私の配下となった以上、拒否権はありません。私が、月下美人を見たいといえば差し出し、豚を殺せといえば、肉をも焼き、犬と交尾をしろといえばするのです」
 「はい…」
 「今のやり方、果たしてよいと思いますかな」

 王汀州と交わった時から、王吟の人生が始まった。この男はおそらくもっとも冷酷な、それこそ本物の『拷問王』の名にふさわしいだろう。
 嶋野が吟のやり方を『甘い』と言ったように、王汀州も手ぬるいやり方には不満がある。生かさず、殺さずの極限の美学があるのだという。吟を配下に置いたのは見込みがあるからで、それを裏切れば吟もどんな『罰』を受けるかわからない。

 「善処、いたします」

 もう一度、王汀州はその口元に曲線を描いた。
 「期待していますよ」と、一言を告げると部屋から立ち去った。
 残された吟は、自力で真島を独房に戻すことにした。



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