第六章 春潮に渡る銀雪B




  ◆ ◆ ◆



 千葉駅を過ぎた頃、吹雪が強まった。
 陸を吹き晒す風は二車線の道路の進行を妨げた。


 車内のラジオは関東圏の天気予報をずっと伝えている。
 運転席に座る木内はハンドルに凭れかかって、視界不良になりつつある前二台先の長蛇の列を胡乱な目で眺めていた。その隣に座る坂井は車載電話を物珍しそうにガチャガチャといじっていた。電話付き自動車、というものだが先日、木内が中古で買ったという。これがあれば、ポケベルが鳴って公衆電話や飲食店に駆け込まなくても済むというわけである。

 「ぜんぜん、進まないっすねえ……」
 「ニュースじゃ、昼前までには落ち着くっていいますけど、これじゃ長引きますよ。十センチの積雪って都会では一大事ですから。雨みたいに捌けないんですし……弱りましたね」

 雪国出身の木内にしてみれば、この程度の積雪と思いたい所なのだろう。
 後部座席に深く座る真島は、ただ静かに考え込んでいた。目的地の倉庫までは、ここからもう少しだった。車を出て徒歩で行けばいい。真島が欲しかったのは二手に分かれたもう一手からの電話だった。ゴーサインを欲しがっていた。

 「あっちから、全然連絡来ないっすね……」

 坂井の心情の代弁の後に、真島は顔を上げる。

 「……木内、お前ベル持ってるな?」
 「は、はい」
 「それを坂井と交換しろ。ほんで、坂井のベルに万が一の連絡が来るようになってるさかい。受け取ったお前が、その電話で俺のに飛ばすんや」

 木内は「わかりました」と応える。
 二人は手持ちのポケベルを交換する。

 「高木はイニシャルがT、四〇や。わかったな。……坂井は俺と一緒に徒歩で行く」
 「わかりました。お気をつけて、親父」

 車外に出ると、強風が背中を押した。
 真島は坂井を連れて、雪が積もった路面の上を一定の歩幅で進んでいく。
 千葉港の倉庫街に到着したとき、その場に乗り捨てられたいくつかの車が異様な雰囲気を物語っていた。運搬用に用いられるのはトラックだが、乗用車だらけである。プレートには名古屋ナンバーが描かれており、嫌な予感がした。
 目的地である『赤い波止場の竜』は海に限りなく近い。文字通り波止場の近くにある。

 「なん、なんすか……これ」
 「……。あっちは、陽動やったんかもしれへん」
 「そんなことって……」

 『赤い波止場の竜』の表側のシャッターは開いていた。おそらく名古屋ナンバーの集団が、高木を誘拐したヤクザたちが入り込んでいるはずだ。真島は巨大倉庫の裏側、及び海側の方から回り込むことを考えた。そのときベルが鳴った。木内からである。


 『40‐24171』


 察していた通り、高木は西東京にはいない、という旨のものだった。

 「……ってことは、高木はこっちですか?」
 「そないなわけ、あらへん」
 「……高木、へんなことに首突っ込んじまったんですかね」

 一ヶ月前、バレンタインの日の夜、高木を連れ立ってラーメン屋で食べた翌日、桐生と再び遭遇した。
 そのときに、「あの男は見張ったほうがいい」という助言を得ていた。真島は高木が各所でそういった動きを見せる理由を知っているからこそ看過したのだが、行き過ぎたようだった。

 そんな高木はともかくとして、『藍華蓮』と名古屋系列のヤクザとの接点が見出だせない、が。唯一あるとすれば、仕事だろう。嶋野がしていたように請負関係にあったと考えれば自然である。真島は頭をひねる。逆の可能性を考える。『藍華蓮』を快く思わない集団であった。しかし、高木は『藍華蓮』とは結びつかない。餌として西東京に呼び寄せるのは正解だが、『いない』とはつまり餌として使われているが、その他の利用価値があるとしているわけだ。それとも、単純に向こうに行かせた若衆たちの確認ミスかもしれない。

 「……」

 いくら考えても埒が明かないとして、真島は坂井に対し、「正面側を張ってろ」と指示を出した。
 真島は海側へと赴く。海風に巻かれて雪が鋭く突き刺さる。適当に開放されていた窓から入り込むと、足元には水が張っていた。
 室内の空気は潮臭く、屋外とは違った冷たさに支配されている。
 
 真島が入り込んだそこは、倉庫内の事務室だった。室内には事務机に書類と、ごく一般的な事務用品が乱雑に放り出されている。倉庫としての機能は十分に果たせていない様子だ。事務室の奥まったところに仕切りがあり、役職者の着く机と椅子があった。
 机の真上には額入りの賞状があった。
 それは奇妙にも、賞状という形式の文章の並び方ではなく、円形に文字が並び、中央には『藍華蓮』と描かれている。

 「これは……!」

 真島はこれが、もしやあの『血盟状』ではないか、と気づいた。
 机の上に乗り、天井に近い位置にある額を外す。それを持って、机から身軽に降りると机上に置く。表面のガラスには埃によってうっすらと曇っているそれを、腕で拭い去る。
 机の中の引き出しに入っていた適当な工具を取り出すと、額の表面を覆っているガラスを割り、中から羊皮紙を引っ張り出した。

 『藍華蓮』の隣に藍色の龍と蓮の紋様がある。
 その中心を囲っているのは濃墨で書かれた人名である。さらに、人名の下には血の色が茶色く変色した拇印が押されている。真島は、その漢字の海から彼の名を見つけようと視線を彷徨わせた。

 (……なんでや)

 一周、二周、三周、と視線がぐるぐると回っているが名前が見当たらない。
 王兄弟の二人の名前と血判はあるが、どうしても彼の名前だけがないのだ。
 無いのであれば、無くていい。しかし、見落としているだけならば、この紙が狼煙の役割を果たす日が来るかもしれないのだ。

 (ない、……ない! ない!)

 つまり、『王吟』はこの『血盟状』に署名しなかった、ということだ。
 王汀州の執着は、『血盟状』に名を記されなかった彼、彼女への愛憎もあった。どうにか引き留めたいがゆえの、間違った愛情表現へと行き着いてしまったのではないか。同じ志を、抱いてほしいと思ったのだろう。本当のところは、わからない。
 他の生き方を知らないから、愛し方を、伝え方を間違えてしまった。そんな風に、真島は思う。
 

 「ああ、やっぱり来ましたか、マジマ」
 「……! 劉家龍(ラウ・カーロン)」

 物音一つ立てずに、『蛇華』日本支部総統、劉家龍がすぐそこにいた。
 真島が訪れることを予想し待っていたというので、思惑があるのは間違いがない。しかし、まず確かめなければいけないことがあった。それは、寝返ったのではないかという契約の再確認である。
 
 「契約を反故したな?」
 「契約。ちゃんと、契約通りのはずだ。王泰然の在り処も教えてやった。その始末も任せると言ったはずだ」
 「始末、したんか?」
 「これからだ」

 まだ疑いは晴れていない。しかし、真島の次の問い掛けの前に一つの銃声が、少し遠いところから鳴ったのである。 
 真島はその音の方角を見た。そして劉に噛み付くように問うた。

 「女をさらったんか?」
 「女、しらない。王兄弟が逃げる気配はある。だから今日始末してやる」
 
 『蛇華』は涼の誘拐に加担していないと言う。寝返ったとばかり考えていたが、違うようだった。だとするなら涼を拐ったのは『藍華蓮』でしかない。
 真島は『血盟状』を丸めて懐に仕舞い込む。事務室の入り口へと向かうと、ちょうどそこに『蛇華』の構成員がバタバタと駆け込んできて、中国語で叫んだ。劉は鼻を一つ鳴らすと、ズンズンと勇ましい足取りで先にいた真島を押しのけて、事務室を出た。

 事務室を出た所のすぐ手前に鉄骨で編まれた階段が見えた。劉はそこを足早に駆け上がるのを、真島もあとを付けた。倉庫の四方を囲む二階の通路に繋がっており、そこから遠目に一階の様子が見下ろせる。いくつかの背の高い物資や資材が倉庫には並んでいるため、その高低差によっては視認し辛い場所がある。それらの隙間から、奥のフロアを垣間見えるようになっていた。

 回廊のような二階の通路の奥から回り込んで、構成員たちが数名、劉のもとへ集まった。
 真島はその場でスコープを使用している構成員から、それを強引に奪った。名古屋ナンバーのヤクザと思しき集団、そして、長身痩躯の男と車椅子に乗った男。……その傍らに、髪の短い少年に見えるが背格好から間違いない。彼女がそこにいた。

 「涼……!」

 車椅子に座るのは王汀州で間違いない。右手に握られた黒い銃を、涼の腰に突きつけている。
 今すぐに助けに行かなければ。スコープを外すと、倉庫が揺れた。地響きのように重く、轟音が這う。真島は通路の鉄骨を掴み、体勢を維持する。思わず、劉を振り返った。劉家龍は非常事態にもかかわらず、うっそりと微笑んでいる。それは、今の出来事を仕組んだ者のみに与えられる余裕を表していた。

 「お前、何した!」

 劉の胸ぐらに掴みかかる。真島の烈しい剣幕にも全く動じず、むしろ口元を歪めて笑ってみせた。

 「始末だ。……爆竹で兄弟仲良く死ぬ。めでたいじゃないか」
 「爆竹……!?」

 真島が叫んだ時だった。
 下階から盛り上がるような振動とともに、奥のフロアが一瞬にして赤い火に包まれた。再び轟音が空気を震わせ、劉のいうように、『爆竹』もとい爆発が起こったのだった。真島はただ、後悔した。遠回りをせずに、二人には直に手をかけていれば、と。
 計画がすべて裏目に出るなど、想像できただろうか。彼女を守るつもりが、結果として彼女を喪う最悪の状況を、自ら作り出してしまった。

 真島の耳奥で、自分自身への形容が蘇る。

 『真島は、女を幸せにできない』と。 
 
 一度はそれを覆すために奮い立った。
 しかし、二度目も立ち上がれるだろうか。

 そんな僅かな思考を奪うように、通路は再び揺れる。爆発は何度も起こり、何もかも燃やし尽くすようだった。いずれこの場所にも火の手が回る。真島は劉をその場に残し、一階へと下りた。
 爆発の影響で、辺りには資材等が散らかっており、進路を妨げている。
 
 広い倉庫を蛇行して、火の勢いが強い奥のフロアへと向かう。
 
 「涼……ッ! ゲホッ」

 爆風によって吹き飛ばされ、鉄骨の下敷きになって死んでいる足が複数ある。その中に、涼がいないことだけを願って、周囲を見渡すと、転倒した一台の車椅子があった。それは王汀州の座っていた車椅子だが、持ち主はいない。
 しかしその床には赤い水たまりができている。靴先で擦ると、それは血液だった。その血痕は点々と奥へと続いている。真島はそれを辿っていき、倉庫の出口に到着した。

 倉庫の外は、潮混じりの雪がゴウゴウと嵐のように吹き荒れている。接岸していた船が激しく揺れているその手前に、船を目指して歩く男がいた。
 正確には、その男の背にはもう一人男がいて、背負っている。それは間違いなく、王兄弟であった。
 このまま逃したところで、負傷したどちらかの出血量を考慮すれば、長く持たないことは明白だった。おまけにこの吹雪での出港は不可能である。命が燃え尽きるほうが早い。
 

 倉庫の中でまた爆発が起きた。
 それによって、後ろを振り返った、王汀州と視線が合った。昏い瞳だった。
 しかし、真島を認めるとたちまち憎悪と甚だしい憤りが宿る。

 「真島ァ――――!!」

 差し向けられた銃口。
 獣のような咆哮とともに、彼女の姿が走馬灯のように駆け巡った。



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