第七章 桃花と舟@




 七章 『桃花と舟』



 雪解けの川の水のように、温かく解けていく命の流れを、春の息吹をきいたことはあるか。
 歩いた場所を道というなら、自分の作った道なき道を、道として歩くのはその子だった。

 
 名を、『桃花』といった。
 タオファ、正確な名前ではない。春先にその孤児を拾った。貧しい農村の口減らしは日常的に行われ、多産多死ゆえに子供の命というのは、数多に失われていくのが少年にとっても当たり前だった。

 見かけの齢は五つか六つ。貧しい農村のなかの一番裕福な家の嫡男であった少年は、家の労働力として少女を拾った。そこに、可哀想だとか同情的な眼差しはない。少しでも自分がやらされている日々の雑用が減ればいい、という利己的な考えからだった。
 屋敷の手前に流れる、幾つもの山脈を越え下ってきた細い一筋程度の川がある。春先に山の方で積もった雪が少しずつ融けたものが流れてくる。そんな時季に拾ったことで、『桃花』と名付けた。

 桃花は物覚えがよく、あれやこれやとすぐに吸収していった。
 自分が言ったことを真似し、それが上手く進めば自分も気分がいい。よく笑い、なんでも美味しそうに食べる子だった。
 弟は快く思わなかったので、桃花をよくいじめた。それは兄に気に入られようとしているようにも見えたからだろうし、弟も素直ではなかったからともいえた。
 貧しいなりに平穏な日々を送るには、充足した少年時代だったはずだ。


 
 『大革命』の波及により、少年たち住む貧しい農村も追われることになった。
 馴染んだ土地を捨て、人に紛れて安全な場所へと逃げていく。生きるには逃げるほかない。流民に食べ物を恵むひと、唾を吐くひと、罵声を浴びせるひと、様々だった。異邦人に優しくする余裕を持たぬ人々に揉まれ、故郷を脱した時にいた両親とは逸れた。

 街からは程遠い場所にある小さな馬小屋に、三人で住み着いたとき、桃花はそれまでの疲労から咳を患い寝込んでしまった。冬のことだった。
 冬のうちに採集できる食物は限られている。馬小屋といっても馬はおらず、周囲に人気がなければ家畜もない。桃花に栄養のある食事を与えるには、逃げてきた山を越えて街へ下らねばならない。

 少年たちは父母から教えられた厳しい戒律を破り、盗みを働く覚悟を持って山を下った。半日で戻るつもりでいた。
 しかし、雪が降った。盗めるだけのものを懐に隠し持ち、夜遅く、馬小屋に戻ってくる頃には膝上まで雪が積もっていた。

 重い咳をする桃花の体は震えており、数多に過ぎ去っていった子供たちのように、彼女もまた虚空を見上げていた。視界が暗く、二人の兄弟の顔も見えていないようだった。

 『舟に、……舟を、ながして』

 桃花には、貧しくも平穏な日々を過ごしたあの故郷が見えているのだろうか。
 川辺に笹の葉で作った、小舟を流して、誰が一番早く川を下るかを競った。桃花は工夫をしていつも一番早かった。死にゆくのも、彼女が一番早かった。
 今際の際に、桃花はそう言い遺した。
 冬の気候が助けたのは、死体の腐敗の進行を遅くしたことだけだった。
 気落ちする弟に向かって、兄は言った。

 『ぼくらが拾ったのは、人じゃなく、猫だったのさ』
 
 兄も自分自身に言い聞かせるようにしていた。
 いっそ。

 いっそ、『桃花』なんて名前を、つけなければ良かったと少年は思う。
 吹雪く視界のなか、銀世界にいると、春を待ち遠しく感じて、その次に彼女を思い出すからだ。

 春先になり、腐敗した肉には虫が湧き、骸の形が崩れていく桃花の骨が見えた時、本当に『美しい』と思ったのだ。
 それはどんな雪よりも、純粋で、混じりけのない美しい白だった。

 骨を砕き、すりつぶし、小川を探した。
 雪解けの水にさらされて、彼女は長い旅に出た。海をめざして。



 
 波間をたゆたう意識がゆっくりと、引き戻されていく。
 肌から得られる感覚は麻痺しており、内々にある痛みがさざなみのように、行ったり来たりとする。

 (遠い、遠い、昔の話だ)

 遠くに置いてきたはずが、いつの間にか近くに戻ってきている。
 王汀州は朦朧とする意識の中で、最も人間らしい日々の名残りを夢見たのだった。

 あの島に流れ着いた少女を拾ったのは、桃花を呼び起こしたからだ。思い出さぬよう、封印したはずのハコをこじ開けられたような気分になった。
 その少女にも兄がいた。その兄を想い泣く姿が、あまりにも憐れだった。利用価値の高い日本人だっただけで、桃花とは似ても、似つかない。どこまでも、裏切っていてほしいと願った。
 その身の深層にある、骨を暴くまで―――。

 『テイシュウ……、吟は、桃花じゃない』

 そんなことは、わかっている。

 『……。さっさと、殺してしまえばよかったんだ。……先に逝った子供と同じに』

 泰然。
 わかっている。
 お前も、愚かだといいたいんだろう。

 痩せ飢えた渇きを癒すのは、人の肉、人の血、叫喚だった。
 この世の不公平を呪い怨んだ。桃花が享受したほうがずっと幸せになるはずの享楽を贅沢を。
 酒に、女に、金に溺れる人間を捌く。そうしていると、忘れられた。一番逃げたかったのは、桃花からだった。



 

 船が右へ、左へと揺れる。
 王泰然は諦めずに荒れ狂う波の間を縫うように舵をとっている。計画は既に破綻して、悪足掻きに近い。王泰然はただ、王汀州を拘置所から奪取し、国へ還るだけでよかった。しかし、『王吟』も共にという彼の要望に付き合った結果がこれだった。

 同じ腹から生まれた肉親であっても、考えは読めなかった。あの女への執着を、遠い彼方にいる、血のつながらない妹に重ねて見ていると思っていたが、誤算であると理解したのは汀州をこの船に載せた時だった。

 すべてが、遅すぎた。
 違えば、違うだけ、汀州の望む通りだったのだ。
 人の世界では正しく、それこそが『愛』といわれる代物で、兄はそれを獲得していた。泰然は歯をぎゅっと噛みしめる。傍からみて、最も手にしてはならないものだからだ。
 愛に身をやつした者が、どのような顛末を歩むのか。知らないわけではあるまい。たいてい、破滅する。
 幸せになれない人間が、望んではいけない。……、結局のところ汀州も人の子だったというわけだが、泰然にはどうか、そうではないと信じていたかったのだ。どれだけ願っても、あの女が愛を返すことはないのだから。

 「ぐ……」

 脇腹を押さえる。
 船に汀州を運び入れる際に一発食らったのが効いている。真島とは交戦には至らなかった。そうする手前で、おそらくその真島に雇われている別のマフィアの狙撃が命中した。吹きこぼれた血がハンドルを濡らす。鉄とガラスを隔てたすぐ外には海水があり、風も唸っているのにやけに、静かだった。

 遠目に、海上に乗り出した別の三艘の船が見える。あれに囲まれたら逃げ場はない。完全敗北を目前にして、船室の中の生臭さが濃くなった。
 潮の臭いではない。

 「……。テイシュウ……」

 船が揺れる。
 カラカラと足元に転がってくるのは、赤を纏う空になった薬莢だった。
 視界が霞み始めている。泰然はハンドルから指を放した。捕縛されて回収されるくらいならば、船ごと流されたほうがいい。汀州はその結末を受け容れたように。

 原型を留めず肉に散っている兄の骸の傍らに、膝をつく。
 くったりと血溜まりの上に残る五指から黒い銃を抜き取ると、床下に穴を空ける。それが有効かはわからないが、できるだけ深く沈むためだった。予備の銃を胸元から取り出すと、最後の一発を残して使い果たす。


 「なあ、兄弟。雪融けの海までいこう。………もう行ってるか?」


 舵手を失った船は激しく波に呑まれていく。

 じゃあ、またな。
 また明日と。明るく望める人生だったら、幸せだったのだろうか。
 それは誰にもわからない。


 口に咥え込んだ、黒い鉄の引き金を引いた。



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