第七章 桃花と舟B


  ◇ ◇ ◇



 潮の香りがする。
 ここは海の真ん中、重い闇の夜空には満天の星が散らばり、水面にも宝石が散らばっている。

 帆は穏やかな風を受けて、ゆっくりとどこかを目指している。
 小さな船の上から海面を覗き込むと、大きな掌が肩を引いた。振り向けば、冷酷な男がそこに立っている。その男への恐れを隠して過ごしている事を、思い出す。同時にどこへ進む船かを思い出した。

 日本だ。
 極東を目指している。

 この体の持ち主は、日本人だ。
 だから、日本に還ることは望ましいことだ、と考えた。

 『   』

 一陣の風がその男の言葉を遮る。
 船が揺れる。縁に掴まってやり過ごしたあと、傍らをみる。男はもう、どこにもいなくなっていた。






 浮遊感を覚えて意識がうっすらと覚醒する。
 黒い車から出ると、雪上を歩く足跡が尾をひくように、後ろに続いている。
 誰かに抱えられている、とぼんやりとした意識の中でもわかった。ザク、ザク、と小気味よい音が耳朶に触れる。歩く度に伝わる振動すらも、心地良い。

 雪は止んでいるようだった。
 下の雪は、黄みがかった陽の光を受けて、影の部分の薄紫とコントラストを作っている。ほんのりとした熱によって溶けた表面がキラキラと光る。
 
 視界の端に複数人の水色のズボンが増え、並走している。雪上は赤い光が一定の間隔で光っていて、何人かの腕によって首裏と背中、膝裏を支えられると視界は一気に仰向けに反転する。長方形に狭く天井の高い空間。その天井には複数のライトが設えられている。そうして、自分を抱えていたのが誰なのかがわかる。

 「ご、ろうさ……」

 寝台がスライドして、入り口に立つ彼が遠ざかっていく。離れがたく、腕を伸ばしたつもりが、もつれてどうしようもない。ヘルメットを被った救急隊員らが涼の顔を覗き込んだ。
 
 「こんにちは、救急隊です。聞こえますかね?」
 「意識あります。覚醒状態です」
 「毛布かけますねー」

 てきぱきと血圧、呼吸音等の聴取がはじまり、一連の流れに取り込まれてしまう。上半身が裸の真島は開かれたバックドアの下で、別の救急車から抜けてきたと思われる救急隊員に話しかけられている。そこへ、もうひとり私服の若い男がやってきてジェスチャーを交えながら話し合っている。そして、ちらりと真島がストレッチャーに横たわる涼の方を見た。倣って若い男が、好奇心に満ちた目を向けている。

 「足痛いですかね?」

 救急隊員の問いに答えを窮した。両手には未だに千切れた手錠がブレスレットのようにはまっている。下肢の状態は毛布が覆っているので視認できないが、痛覚でいえば寒くて痛いのか、創傷で痛いのか難しい質問だった。「ちょっと火傷してます」という声に、自分が火傷をしていることを知るのは不思議な気持ちになった。

 「あー、と。渋滞があるから、一台先に出してください。今なら風止んでますから、ヘリ呼びますか?」

 無線でのやりとりが生々しい。重傷者を優先的に搬送するため順番付けを行っているようだった。
 
 (あのひと……、大丈夫かな)

 火の手が回る倉庫内で助けを求めた男を運んだ。倉庫の開放された正面入り口に出た時、雪でホワイトアウトする世界とともに、涼の意識も消失したのだった。火の海の中で王兄弟も死んでしまったのだろうか、とふと浮かぶ。あの二人が死ぬ局面というのを考えつかないからだった。それでも、涼の中では、もう死んでいるのだろうという確かな手応えがあった。多くの人の命を弄んだ人間が、死を恐れるというのもおかしな話である。

 倉庫のほうの空はまだ赤い。消火活動が続けられている様子が見て取れる。嗅覚が戻ってきて、焦げ臭い空気を知覚する。そこへ、上空を飛ぶヘリコプターの音が近くなった。
 重なるように、一台の救急車がサイレンを鳴らしながら出ていく。

 「毛布どうぞ」
 「おおきに」

 外にいる真島は話し合いが終わったようだ。救急隊員から受け取った、オレンジ色の毛布を一旦広げて羽織ると、車内に入ってきた。数日前にも会ったはずなのに、もうずっと何年も会っていなかったかのように、胸の奥が切なくなった。

 「涼ちゃん、……泣くのはやいわ」

 そう言いながら、彼もまたくしゃりと笑うのだ。泣きそうな顔を誤魔化すようにして。
 傍らにある椅子に腰掛けて、ガーゼで涼の涙を拭く。たったそれだけで、涼の緊張を解くには十分だった。

 真島は見た目では目立った創傷も見当たらないが、その表情には疲労が濃く滲んでいる。髪はやや湿っており、雪にも満たない細かい粒が付着している。顎下一帯に無精髭が生えて、手入れする暇すらもない状況だったことを教えてくれる。

 「手ェ、痛ない?」
 「……うん」
 「その手錠、切ろう思たんやけど……アカンかったわ。病院着いたら切ってもらお」
 「ごろうさん」
 「……ん?」

 手錠は一見丸いが、本物の手錠というのは楕円形になっているので、端に寄ると腕が詰まって切れそうなほど痛いのだ。できるだけ円の中心に手を保っている必要があるが、涼の両手は細いということもあり、また下側にガーゼを詰めてもらっているので緩衝材になっている。
 真島は涼を心配するが、涼からしてみれば『あなたもそうでしょう』という感じである。

 一言で表すなら、弱々しい、というのだろうか。
 そんな事は口が裂けても言ってはいけない言葉だが、そうさせているのは涼やその周囲の状況の総てであり、気休めにしかならないと分かっていながらも、労う言葉を贈ることにした。

 「ありがとう」

 上手く笑えている自信はない。
 
 「スン。………おう。……ん、泣かせんといてや」
 「……」
 「涼ちゃんのが、うつったわ」
 「……。……へへ」
 「それ、俺のマネやろ…! しかもちょっとヘタやのう」

 泣いているのか、笑っているのか、照れているのか。
 まぜこぜの、複雑で曖昧なあたたかな表情をしている。
 真島は涼の右手をそっと両手でとると、自らの顔の隣で祈るように包みこんだ。

 「はあ。ほんまに、寿命縮まったんやで。四半世紀くらい」
 「……ごめんなさい」
 「ええんや、もう。……生きとって、よかった……」

 今このときだけ、見栄も外聞もなくその両肩にのしかかる重責もなく、ただの人としての姿を涼に見せている。それはこの人の根の部分だと、思う。
 『生きていて、よかった』と言ってくれる人を、大切にしたいと、純粋に望んでいる。

 (この人を、しあわせにしたい)

 一つしかない瞳に陰をつくる、まつ毛が濡れている。彼のこの姿をみるのは自分だけではなかろうか。けれど、それは今に始まったことではない。
 俯瞰的な記憶のなかには『穴倉』での日々もある。忘れ去りたいほど残虐なそれを愛おしい過去にできるのは、真島しかいないのだ。

 「吾朗さん……」
 「うん?」
 「あいしてる」

 神妙な表情になったかと思えば、破顔する。くすぐったいわ、といって。
 「ヒヒ……!」とお馴染みの笑い方をして、また真剣な眼差しへと戻る。その瞬間に心臓が、とくんと跳ね上がる。精悍な顔に似合う自信に満ち、野性味を帯びた瞳で涼を見据える。涼はその面差しが好きだ。

 「俺も、愛しとる」

 握られた手の甲に唇が落とされる。神聖な儀式のように恭しくも、彼がすると情熱的で色気すらも感じられる。そう思うのは普通の若者と違って彼が成熟しているからだろう。おどけたり、ひょうきんなことをする時もあるがここぞ、という時に示すしっかりとした態度がより一層大人に見せた。

 涼が好きなところは、はじめて真島を見かけた頃から、変わっていないのだと思い知るのだった。



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