八章 『聖なる女』
1993年 3月31日
3月14日の『千葉港・倉庫大爆発事故』は空気中による乾燥による発火を原因とし、倉庫内にあったとされる石油系液体燃料に引火し、爆発したという表向きの報道が世間への発表となった。水面下では二件の拉致誘拐が行われ、外国人犯罪組織と名古屋の暴力団組織の取引や逃亡幇助が進行していた。結果的に、その爆発を引き起こした本当の原因はその中にはおらず、事前に『匂わせた』真島の行動がきっかけになったことは間違いない。
あらゆる思惑がそこへ結実した。しかし、その真実にたどり着く者はいまい。これだけは、墓まで持っていかなければならない、業というものだった。
国際指名手配犯とされていた、王兄弟の遺体は船が沈んで二週間が経過した今も発見されていない。
船の操縦室で両者ともに拳銃自殺を図ったことは読み取れるが、遺体は不思議なことに見つからず、捜索が継続中である。二人の死が『黒社会』を揺るがす事になるのも自明の理であるが、もはや後の祭りだ。
証拠品として真島が提供し、押収された『血盟状』により『藍華蓮』の組織の人間の追跡を、円滑に進められる材料となった。血判、もとい指紋と字(あざな)までが捜査当局や国際捜査機関が把握している、最重要証拠物品である。王汀州の抱える構成員だけで桁は五。そのうちの役職者の名前が数百名ほど連なっている『血盟状』である。
狼煙としての役割を、牽制に変えた『血盟状』が『藍華蓮』の日本侵入を防ぐ役割を果たすことを期待している。
◆ ◆ ◆
日曜日の午前だった。
春の穏やかな陽のぬくもりが風を温め、蕾みから開いた薄桃色の花弁を撫でていく。
いつもよりも早い真島の面会に、病室で朝食の後のうたたねをしていた涼は目を丸くした。
病室外の警備体制が解かれ、面会も祖母を伴わずとも可能となって三回目だが、真島はいつも午後になってから訪れていた。
「おはよう、涼ちゃん」
「おはよう。……吾朗さん、……、もうお昼?」
「お昼までは……あと一時間半あるのぅ」
「どうしたの?」
朝の時間帯の訪問。なにか理由があるに決まっている。涼はすこし首を傾げた。
ベッドの上で身を横たえる彼女は、爆発事故の影響で足に熱傷を負って、ようやく病人らしい生活になったと、少し喜んでいるのがなんとも可笑しい。ベッドの傍らに置かれている車椅子へ手を伸ばし広げると真島は明るく呼びかけた。
「涼ちゃん、外出解禁や」
「それって、外に出ていいってこと?」
「せや。……と言いたいところやねんけど、その前に付き合うて欲しいところがあるんや」
喜びかけたのも束の間。涼はきょとんとした顔で真島を見上げ、それから素直にうなずいた。腹の下まで被った掛け布団をめくり、ベッドの端へ寄るとそこから涼を抱き上げる。慣れた手つきで車椅子の上へ座らせて、ブランケットを膝上にかけると、両サイドにあるレバーを倒すと車椅子はわずかに前進した。病室を出て、ナースステーションにいる看護師たちににこやかに見送られた。
狭いエレベーターの中は真島と涼の二人きりだった。視線を下げるとさっぱりと短くなった髪からのぞく、白いうなじがある。
「吾朗さん……?」
くるりと不思議な色の双眸が真島へ向く。
会う度に、ふとした瞬間に、彼女がそこにいることを夢ではなく本当だと確かめたくなるほどの感慨を懐くようになった。
なんでもない、と誤魔化すとその視線は前へと直る。
車椅子の涼を連れてやってきたのは別病棟の個室だった。
病室のネームプレートには『高木康雄』という名前が入っており、この病室の主の名前である。数度のノックのあと、入室するとベッドの上で春風を部屋に招きながら退屈そうに窓の方を見ている男がいた。
来客に首が反転する。真島を捉えて頬が緩められるも、その手前にいる車椅子に座る涼を認めると表情が曇った。
「兄貴……おはようございます」
頭には包帯、顔面にはガーゼが残り、首から下も包帯に覆われているが布団によって隠れている。高木は「よっ」と声をあげながら姿勢を立て直す。見かけほど重傷ではないのが不幸中の幸いである。連れてこられた涼は、あの爆発事故の際に共に逃れてきた男だとわかったがその再会にしては、ややぎこちない雰囲気を感じ取っていた。真島もそれは同じで、今日までに考えていた最悪の想像が本当かもしれない、という予想が真実味を帯び始めていた。
「吾朗さん……」
彼女の右手がハンドルを押す手に触れる。困惑と少しの怖れの混じった様子に、真島は安心させるように「大丈夫や」と返事する。その二人をみて高木は目を眇めた。そうして、ぽつりと零すのだった。
「……あんたが、『涼ちゃん』……なんだな……」
「……せや。………のう、高木。今回の発端は、お前やな?」
「………」
高木は力なく笑うと、包帯に巻かれた頭を微かに振った。
テレビの設置されている戸棚の引き出しから、一通の白い手紙と茶封筒が取り出される。それを真島に手渡した。
「兄貴には言いましたね。あの話の、証明です」
「ああ」
「先月の、バレンタインの日……兄貴の読んでた手紙がほんのちょっと見えたんです。なんでもない、恋人からの手紙ですよ。けど、どうもそれが引っかかった。何度も読み返したこの手紙の……筆跡に、似てると思ったんです」
高木は幼馴染の女を追っていた。
その幼馴染は、その女の兄が引き起こした事故がきっかけで金が必要となり、出稼ぎに出たっきり戻って来ず、昨年にこの手紙と金の入った封筒がポストに入っていたということだった。また、その女を好いている男として、高木はずっと探っていたのだった。行き着いた先は、先月のバレンタインの日に真島が涼から受け取った手紙だった。彼女の筆跡と、件の手紙の筆跡が同じだということだった。
真島は封の中にある手紙を広げて見た。そして傍らにいる女を見下ろした。
照合に必要となる手紙は真島が所持しているが、おおよそ合致するだろう。手紙に残っている指紋を採取すれば科学的な証明は可能である。
究極的にいえば、涼は何も悪くはない。だが、それが意味するところによっては、涼は悪人だった。
「みせて、吾朗さん」
「………ええな?」
それは双方に投げかけるつもりで放った確認だった。
手紙は涼に渡った。しばらくして、彼女の体は小刻みに震えだして、涙に崩れていった。
「キャバクラに通い詰めて、ある一つの噂までたどり着いたんです。キャバクラなんかよりも、『お金をすぐ貯められる仕事』ってのがあって。……それが、『島のほうのキャバクラ』っていって、……話をきいた彼女たちも濁したんすけど、たぶん売春です。そこで俺、ピンときて、たぶんあいつはそっちに行ったんじゃないかって。だから、その……女を島行きにさせてる組があるんじゃないかって、追っかけた」
「……名古屋やな?」
「ええ、正確には東海に散らばってる組なんですけど、紀伊半島でやってる売春を管轄にしてるとこで。……まず島に行ってみたんですけど、どこも閉め切っちゃってて。っていうのもサツのガサ入れが始まってて、どうにか話引っ張り出そうって……サツに探してる組の人間だって嘘ついて。そこで知ったんす、『荒川 涼』って女がこの島について話したって。そこで……その名前が……その」
高木は真島をちらりと見遣る。
言いたいことは、伝わっている。真島が度々こぼしていた『涼ちゃん』という名前。手紙の筆跡。しかし、それだけでは確証は持てないはずだ。だが、今日こうして涼が手紙を前に証明してしまった。
「たんなる、偶然かと思いました。サツ曰く、その『涼』が受け持っていたとこの女は全員死んでるそうです。まず『涼』が島から逃げたってもんで、大混乱です。そこの組織が『涼』を探して島に入ってきて、女たちから吐かせようとして……死んじまったと。島から逃げてどこ行ったか、口を割ったのはその東海一円の組織の人間でした。……恨まれてたんでしょうね、『涼』は慕われてましたから」
涼が関わった紀伊半島の出来事は、プロファイリングの紙に簡易な文章で見かけた。『売春の斡旋による現場の運営責任者』が、彼女の役職だった。仔細を真島から触れたことはない。そうする必要性に迫られなかったし、酷な過去を引きずり出させることを良しとしなかったからだ。けれども、回り回って彼女の目の前に再び過去が迫ってきた。
「俺、どんなやつなんだろうって、思ったんだ。……どんなやつが、あいつを殺したのかってね」
呟くように、うたうような物言いで鋭く涼を射抜いた。真島は軽く息を吸う。どう出るかは、涼次第だった。
彼女はただ、「ごめんなさい」と謝った。男がほしいのは謝罪などではない。
「憎んでるさ。全部。あんたも、あんたを守ろうとしてる兄貴も、あいつも、あの連中も……あんな事故を起こしちまったヤツもみんな、みんな……」
高木は外の色を映した天井を仰いだ。春先の温かなクリーム色に染まるその空間を見詰めてやるせないように言った。その間も、涼は謝り続けた。こうなることを予期していながら、真島は涼を高木に会わせた。とても残酷なことだった。それでも、この場を設けることが必要だと思った。
「でも、どうしようもない。どうしようも……なかった。……ですよね? すべて、どうしようもないんです、もう」
その答えは真島にも、涼にもはっきりと決めることはできない。まだなにか取り返せるものがあればいい。しかしおおよそ、高木の言うように、すべてどうしようもないのかもしれない。起こってしまったことは、取り返しがつかない。どれだけ強靭な肉体や精神力を得ようとも、森羅万象のルールに抗うことは不可能だからだ。
「………感謝しています。……憎んでるけど、はは……ぐちゃぐちゃだ。憎まなきゃいけない人間に、助けられた。情けないですけど、ほんとに。助けてくれた礼を言わせてください……それに、謝ります。兄貴にも。あいつらを連れてきたのは俺が原因、だから」
東海一円の組織は涼の証言から警察の捜査が入り、いわば彼らにしてみれば営業妨害をされたわけで、そこからの摘発も起こったはずだ。そこへ高木が偽って組織の名前を使って入り込んだことでつけ狙われる事態を招いてしまった。高木が組に拉致されたのも自業自得なのだが。
その結果、高木は東城会嶋野組の人間で、真島の舎弟であることを知られてしまった。嶋野組自体が『藍華蓮』との繋がりもあったことから、目星をつけられ身辺を探られていた可能性が高い。東海組織と『藍華蓮』が涼の拉致を目的に結託したというのが大まかな筋だろう。当日の高木の拉致は目くらましのつもりだったが、思い通りにはいかなかったようだ。
涼の事情聴取では、『二つの組織は、最後に決裂した』と供述した。
高木の声は潤んでいた。弱々しく、震えている。
「もう一度だけ、確認させてください」というと、うつむきがちな涼の視線が少しあがった。
「あいつは、死んだの、ほんとに」
「…………彼女を……海に還しました」
涼は鼻をスンと鳴らすと、小さく頷きながらそう言った。
「そっか」と波が引くように、高木は静かに認めた。それからまた窓の方を眺めた。しばらく間を置いて、真島の方を向いた。
「兄貴、すんません……ほんとに……。……すげー殴りたそうな顔、してます」
「殴らへんわ。こんな狭いとこで」
「………俺、退院したら足洗います。こっから。………止め、ませんか」
「アホ。お前の親父は俺ちゃう。嶋野の親父や。決めたんなら最後まで、通せや」
病人を殴る趣味はさすがにない。真島は、深入りを止めるが自分の意志で出ていく人間を追いかけるほどではなかった。とくに高木は中途半端というわけでもなく、わけあってこの世界にやってきたカタギだからだ。戻れる場所があって、やることがあるのならばそちら側にいったほうがいい。
高木は柔らかく笑った。
ひょうきんな時もあるが、きっとそれが彼本来の笑顔なのだろう。