第八章 聖なる女A



 外に出てみると室内にいるよりもずっと暖かく、空気も甘く、まさに春といったような光に満ちている。
 途中立ち寄った売店で買った炭酸ジュースとお茶を持って、桜並木の下をゆっくり進んだ。鳥のさえずりや、豊かに吹く風と揺れる木々。白っぽい桜の花弁が、家族連れの面会者たちや散歩中の患者に付添の介助士、そこを歩く様々な人々をもてなすように舞い上がる。

 並木の合間に設置されているベンチに腰掛ける。そこから見上げると、桜に包まれているようだった。
 車椅子から同じ景色を臨む涼もいつの間にか涙が薄れていて、華やぐ世界に見惚れていた。ぽつりと、自然に彼女は呟いた。

 「不思議。こんな景色、もう二度と見られないっておもってた」
 
 たくさんの出来事が起こった。死を隣に感じると、穏やかな時間の味すら忘れてしまう。

 涼はとくにその時間が長すぎた。真島の経験のなかでもっとも近いのは、『穴倉』から出て、最初に光に満ちた世界に戻ってきた時の、強烈な日差しを浴びた時だろう。陽のぬくもりが、じんわりと心を解していくような、ようやく一息つけるといった安堵の瞬間を思い出した。


 「綺麗やのぅ」
 「はい」

 木漏れ日のように、桜の束の隙間差し込む光に照らされて、彼女の独特な色味を持つ瞳や髪が燦然と輝いている。
 桜を見上げる彼女を見て思わず出た言葉だったが、涼には桜への賛辞に思えたようだった。
 
 春は区切りや門出の季節でもある。
 彼女の人生の節目の春。今から始まるのはさしずめ、二度目の人生というものだろう。
 退院も四月の頭で決定されると聞いている。長い病院生活からようやく帰宅可能となる手前、退院したあとどうしたいかと尋ねたところ、先週の終わりに中検を受けたので『今度は大検を受ける』という。大検はマークシート必須受験科目が四つか五つで受かれば、高校卒業と同等以上の学力があるということが認められるのだ。

 中卒の身の上である真島からすれば、自分の登らなかった木に登っていく姿を、見届けるような気持ちがあった。
 社会復帰への第一歩。自分の意思決定でそうするというのであれば、あとは応援するだけである。その先に勉学にまた励みたいというなら続ければいいし、夢を見つけたのであれば実現させてもいい。

 

 「吾朗さん」
 「ん?」
 「喉渇きました?」
 「ああ、……せやな」

 傍らから向ける熱視線を、異なる意味として受け止められてしまうも、訂正するのはなんだか野暮だった。
 彼女は膝の上に載せられているペットボトルのうち、炭酸ジュースのほうを手に取った。真島はそれを受け取ると、とりあえず一口飲むことにした。シュワッと口の中に広がる刺激に突き抜ける爽快感は、やや暑いとすら思う今日にはいい塩梅だ。

 「はぁ、スカッとするわ」
 「…………」
 「……どないしたん、涼ちゃん飲まへんの?」

 涼の手元に残るペットボトルは未だ開けられていない。固くて開けられないのかと思ったがどうも違うらしい。
 真島の手にある方をじっと見詰めている。

 「飲む?」
 「う、……うん」

 おずおずと炭酸ジュースを受け取ると、涼は真島を真似て一口をグイっと飲んだ。
 
 「きゅう!」

 一際高く、鳴き声に近い悲鳴に真島はぱちぱちと目を瞬かせた。
 どこかの動物園から脱走した動物が近くにいるのかと疑うほど、奇声じみた音は間違いなく真隣から聞こえたのである。顔を赤く染めて噎せて咳き込む姿に、もしやと一つの推測が浮かぶ。

 「炭酸、はじめてなんか……?」

 炭酸が苦手、嫌いという人間はいる。アスリートのなかにはジャンクフードやスナック菓子といったものも控えるが、涼はそうじゃない。
 生い立ちからして俗物的なものを遠ざける環境があったことは想像に容易い。……しかし、ここまでとは。箱入り娘。温室育ちというにもやや異なる。けれどもその純粋培養が今日まで続いていたことは奇跡そのもので、つまりその貴重な瞬間を目の当たりにしたということに、真島は妙な興奮を覚えた。


 「味はどうや?」
 「んん……あまい」
 
 人工甘味料使用なのだから当然といえる回答である。それはそうだろうと、笑いがこみ上げてくる。
 そうしていると涼もけらけらと笑う。

 「ふふ、吾朗さん笑った」
 「あン……?」
 「だって、寂しそうな顔してたんだもの」
 「…………」

 一本とられた。
 彼女なりの元気づけを受けたというわけである。
 炭酸ジュースに翻弄されるまでも演技だったなら女優になれるだろう。伊達に血脈を受け継いでいないというわけか。

 「あの、手紙読んでくれたでしょう?」
 「………」

 もちろん手紙というのは、今日に手渡されたほうではなく一ヶ月前の方のことである。
 花束と引き換えに、彼女がはじめて真島に宛てて書いた手紙。つい先程の感傷のなかで登場した手紙。『正しくない』と思っている手紙。
 小さな首肯をうけて、涼は瞳を細める。

 「ちゃんと、二枚目の願いが叶ってよかったって思って」
 「ああ……」
 「ありがとう」


 『桜が咲いたら、一緒に見にいきませんか』

 今日はその返事の日となった。
 匂い立つような笑みを向けられると、胸がきゅっと締め付けられるように痛んだ。

 やはり、臆病になる。
 こと彼女に関してはとくに。
 ガラス細工のように繊細な造りをしているものを壊してしまうのではないかと、恐れている。

 「吾朗さん」

 ごうっと音をたて風が並木を吹き抜ける。人々は流れくる桜吹雪に目を奪われている。
 男の視界には花も霞んでしまうほど、女のなめらかな白磁と柔らかな墨色が広がっている。
 世界の狭間。その瞬間だけを切り取られたかのように閑かだった。

 「ずっと、ずっと、傍にいるから」

 不安を探り当て、汲み取った彼女は強い眼差しをしている。
 庇護を必要としているように弱々しく見えたとしても、芯は強いことを――証明している。

 風が止む。
 すべてが白昼夢だったかのように、過ぎていく。遠くで見知った影が迫ってくる。


 「涼ちゃん……! 真島さん!」 

 杖をつきながら、彼女の祖母が白衣の女医とともにやってきては、一面満開な並木道にはしゃいでいる。
 その場の最年長が転ばないか心配して見守る光景は少々滑稽である。

 「とびっきりのビッグニュースよ、涼ちゃん」
 「へ?」
 「明後日に退院ですって!」

 予定よりも早い判断である。それには真島も驚いて、伴ってきた早見のほうを見詰めた。彼女は「おめでとうございます」と一つ頷いた。
 「いけない、忘れるところだったわ」と祖母は手に持っていた紙袋を涼に手渡した。

 「花より団子でしょ!」
 「……う、うん。でも……もうちょっとでお昼だし」
 「お昼ごはんは、真島さんに食べてもらえばいいのよ!」

 横暴な物言いに早見はめずらしく笑った。
 真島としても、自分は残飯処理係になった覚えはない。

 「患者の不養生は看過できかねます。せっかく退院が決まったのに、延びてもよろしいなら構いません」
 「まあ。それはイヤだわ!」

 言葉とは真逆に愉快げに笑う祖母につられて笑う。
 その合間を見つけ出して早見は真島を呼び立てた。ベンチから数本離れた桜の木の裏で報告を聞く。

 「まずは、退院のほうです。ほんとうにおめでとうございます。……通院は続きますし、裁判所手続き、実況見分などが今後あります。ご自宅付近にも警備がつくので完全な自由とは言い難いですが、一歩前進です」
 「あぁ。……そうやの。センセには、ほんまにお世話になったわ」
 「できることを、してきたまでです。……どうか、お幸せに」

 祖母の企てとはいえ、『婚約者』という偽りを、この女医であれば看破できたはずである。最も彼女の近くでその権利を保有できるようについた、合法的な嘘に最後まで付き合ってくれている。なによりも、真島だけでは、彼女の社会復帰まで支えることは不可能だった。ベンチの傍らで、祖母と談笑を楽しむ彼女のほうを眺めると、表情が明るい。最初から最後まで、涼の味方をする人間がもう一人いたことで救われているものは、知らないだけで数多あるだろう。

 「式には呼んでくださいね」
 「……! センセの口からそないなもんが聞けるとは思わへんかったわ」
 「好奇心です。受け持った方で快方に向かうことは少ないですから」

 どのような人生を歩むのか、早見は付け加えて言う。
 涼が彼女の論文のタネになる存在であることは間違いない。日本のどこを探しても、これほどまでに特異な存在はいないわけで。そこで真島ははたと気づく。

 「センセ。まさかとは思うけど……俺」
 「おっと。正午過ぎましたよ。昼食の配膳が始まってますから戻りましょうか」


 上手くはぐらかしたが、その様子をみるに真島も早見の論文の対象となっている。

冷静に考えてみればおかしくはないのだ。事故に遭い、犯罪組織に匿われていた女の配偶者候補が反社会的組織の人間なのだから。不健全な状態は何も変わらないのに彼女は『快方』に向かっている。つくづく奇妙な関係である。
 それを『おもしろい』と思われていても仕方がないのだった。


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List午前四時の異邦人