第八章 聖なる女B


  同日 夜



 三月は事故の後処理などが舞い込んだために、通月であれば早々に納めている上納は末日まで遅れた。こんなことは異例であるからにして、嶋野から活が入る覚悟があった。三月三十一日、あと数時間で日付が変わろうとしている頃、嶋野組の事務所に真島はいた。

 昼間に高木本人からの除籍の話も、ああは言ったものの相談をしなくてはいけない。後々、高木が『足を洗う』と挨拶に訪れた時に拳骨が飛ばないようにという配慮がいる。親父だけでなく、その他の構成員の追い込み行為も防ぐ狙いがあった。
 通常であれば、『来る者は拒まず。去るものを追い回す』だが、内情が内情なだけに特例を認めることにした。

 「親父、失礼します」

 アタッシュケースに詰められた上納金の重みよりも、奥座敷を跨いだ先の空気を考えるほうが気が重くなった。『藍華蓮』は嶋野にとっては仕事相手である。それも金払いのいい海外組織だっただけに、真島の独断行為によって結果的には潰したわけである。組と一人の女を天秤にかけて、組の将来的な損失を招いた。拳骨が飛ぶなら間違いなく、真島が先である。

 奥座敷にて、嶋野は新聞を広げ、煙をくゆらせていた。
 間接照明の頼りない光が巨漢の輪郭をおぼろげに象っている。濃厚な闇のなか入室すると、嶋野から数歩離れたところに座した。

 「遅いやないか、真島」
 「えらい、すんません」
 「まァ、ええ。出せや」

 アタッシュケースを押し流すと流麗な手さばきで開ける。へっ、と笑い飛ばし「ぼちぼちやな」と評価を下した。ケースを閉じて、片手にある新聞をバサリと放り投げると、男はその居住まいを正し、鋭い目つきで怪物のように重々しく唸った。

 「お前、やってくれたやないか」
 「………」
 「………。フン、おおめに見たるわ」

 嶋野の判断は想定外のものだった。
 拍子抜けである。どう考えを巡らせてもここで一戦交える緊迫感があったというのに、そうはならない。どのような風の吹き回しか。嶋野を探るように窺っていると、再び低く唸った。

 「『蛇華』とのツテができたんはええわ。堂島にあるコネが手に入った。風間と張り合うにはちょうどええ」

 金脈は『藍華蓮』から『蛇華』に移り変わったということらしい。わざわざ自らが動くことなく『蛇華』とのコンタクトが取れ、コネクションを得たというのは棚からぼたもちである。嶋野からしてみれば美味い話を真島がお膳立てしたということになる。そういう意味で、大目にみるわけだ。どうやら流血沙汰にならずに済みそうだと一息つける、そう思った矢先に嶋野の次の一言に息をのんだ。

 「そや、真島。……今度、あの女連れて来ぃや」
 「……、親父」
 「聞いたで。もうすぐで退院、なんやて? めでたいやないか。のう?」

 涼を金づると見ているため呼び立てたところで手出しするとは考えにくいが、嶋野と涼、もとい『王吟』との因縁のほうが気がかりである。せっかく『快方』に向かっている彼女に間が悪い。いつか正式な場を設ける必要があると思っているが時期尚早である。

 極道は男社会ゆえ一々、どいつがどこの女と一緒になったと出すことは少ないが、それは役職が低ければのこと。役職付きはそこの上下関係のため顔合わせは必然となる。真島は嶋野組の若頭と自身の組の長も兼ねているので、お披露目や周知を避けて通ることはほぼ不可能であった。
 以前の婚姻の際は事後承諾という形で内々に済ませたが、この度は引っ込みがつかないところまできている。

 しかし、今日の主題はそこではない。

 「親父。それはまたいずれ。……今日は、高木の話をしにきたんや」
 「高木ィ? 高木がどないした」
 「組抜けすると本人から聞いとります」
 「フン。……いまさらおっかなくなって、足洗うっちゅうわけか? ええ度胸やのう」

 嶋野は腕を組んで畳を睨んでいる。しばしの沈黙を経て、一笑に付す。
 
 「好きにさせや。あいつのおかげで、エエ話もあるさかい」

 高木が関わった、東海地方一円の組織周辺の話だろう。
 組織の凋落は狙い目である。嶋野はその嗅覚のよさを持っているので、すでに次の一手を指している。
 それに対して真島はうなずくだけである。真島が仮にその立場であっても同じことをしただろうし、互助社会で生きるために必要な悪を厭うことはない。
 

 今回の一連の『血盟状事件』は嶋野からしてみればまさに、僥倖にめぐりあう、という言葉がふさわしかった。
 利益に至らない予感に反しての幸いである。

 「おう、真島。忘れたらあかんで。女連れて来るんや」

 退室するとき、嶋野はもう一度念を押すように言った。
 引き合わせればどんな波乱が待ち受けているのか、考えただけでも胃痛がする。

 真島の生来の性質はこの男と真逆である。
 真逆であるからこそ、そこに憧れを見出したのは間違いないが、捻じ曲げることも、自分がそのものに立ち代わることなどできやしないのだ。組織への裏切りを知り、相変わらず自分を利用しようとする合理的な考えも、らしさだろう。
 やらねばならない、そうする理由があるから留まるだけである。

 「はー、久々にホームランかっ飛ばしにいくかのぅ」

 明日も明後日も手伝いに出ていく用事がある。
 今日の夜の葛藤を明日へ持ち込まぬように。
 嶋野組を出ると、凝り固まった体をうん、と呻いてほぐす。それから息をふう、と吐き出すとネオン街の中にあるバッティングセンターへと向かうのであった。 
 

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List午前四時の異邦人