九章 『1993年 7月7日』
◇ ◇ ◇
手向ける花束が白い石造りの表面に色のついた影を落としている。
十字に組み合わさった墓標は少しだけ褪せている。隣り合うようにして並んだ、二つの墓石。父と母、ふたりの記念碑。キリスト教の思想に則れば、とうに天国へいっているという考え方である。魂はそこにはなく、故人を偲び思いを馳せる生者のための場所。そこに、涼は立っている。
「――ただいま、おとうさん、おかあさん」
白百合を基調とし、ピンク色の百合も混ざった花束も二つ。墓参りに来るには遅すぎるといっていい。
四月の退院から数ヶ月経ってようやくである。帰宅して静養とリハビリを行い、裁判所や警察へ出向すること、戸籍再取得のための手続きに、大検の準備などもあって忙しい日々を送っていた。
「……お兄ちゃんのお墓も建てようか」
二つある墓のとなりには空白が二つある。その場所だけを除けて、次の墓標が立っている。もし、涼が海で死んでいて遺体が回収されていれば、その空白を埋めていたのである。兄はあの島で死んで、水葬した。この手で弔った。その証を作ることは今からでも遅くないだろう。涼はもう天国へは行けない。この三人と並ぶことはできない。神を裏切り、業を重ねすぎた。どこかの地獄で長い長い時間を過ごす前に、この生をせいぜい楽しんでいこうと思う。
教会の側にある墓地を囲む木々のどこからか、ジワジワと夏の命が聞こえてくる。梅雨明けはもうすぐというテレビでの予報よりも、外界の報せのほうが早いようだった。簡易な喪服として黒い薄手のワンピースが光を吸収して蒸し暑い。額から一筋の汗が伝うのをハンカチで拭って、腰をかがめる。
母の好きだった聖歌を思い出して、ほんのすこし歌ってみる。
(Pie Jesu Domine) 慈愛深いイエスよ、主よ
(dona eis requiem) 与えてください、彼らに、安息を
(sempiternam requiem) いつまでも続く安息を
フォーレの鎮魂歌の四曲目にあたるそれを口ずさむと、はしなくも涙が頬を伝う。
端然と生きることはもうできないけれど。餞別として手向けるのだ。
しばしの祈りを捧げて、立ち上がると火傷の痕が少し痛んだ。
背後にヒールの音がする。周辺の墓標への来訪者だろう、そう思っているとその来訪者の影は涼の後ろ側から伸びている。
「もしかして、……涼、ちゃん……?」
涼が振り返り、正確な視認と理解が追いつくよりも、彼女のほうが早かった。
「やっぱり、……やっぱり! 涼ちゃんでしょう?!」
女性は泣いていた。
年の頃はおそらく同じで、涼を知っていて、この場所へ花束を携えて訪れるひとなど、きっと限られている。
気がつけば彼女の腕の中へいた。涼の身長よりも高く、動物で喩えるならキリンのようで、手足も長くすらりとしていて、姿勢がいい。通っていた中学校の校風に最も似合う彼女。憬れていた同級生、友人と呼ぶには恐れ多い。けれど真実として彼女はこうして――毎年花を手向けにやって来ているのだろう。
退院して、そのうち会いに行こうと決めていた人との早い再会となった。
「ミヨコちゃん……」
彼女の肩越しに見上げる、一九九三年の七月七日の空。雲ひとつ無い青空が広がっていた。
ミヨコと十年以上前にはじめて繁華街を遊びに訪れた際に利用した、懐かしの喫茶店に入った。
積もる話をしようにも、ミヨコはなにか話そうとする度に、涙声になった。すこしの申し訳無さと、嬉しくも恥ずかしい気持ちに涼は不思議な心地でいた。長い時を信じて待ってくれていた人がいた。自分はなんて幸せ者だろうか。
成人済みの若い女二人が、涙で崩れながらメニューを眺めている光景は異様だろう。
なにを頼もうかと、しっかり考えられるほど器用ではなくて、メニュー表にある写真や文字の上を目が滑るだけだ。そうしていると、潤んだ声でミヨコは言った。
「紅茶とケーキよ」
「え?」
「涼ちゃんが、昔頼んだの。私はカフェオレと…」
「パフェ」
「そう。そうなのよ……覚えていてくれて、うれしい」
はにかむ彼女の顔は赤い。
つられて涼もはにかむ。「昔と同じのを頼もうか」と提案すると彼女は「ええ」と頷いた。
メニュー表を閉じたミヨコの左手の薬指には、プラチナの指輪がある。もうひとりの同級生である神岡が言っていた事を思い出した。
「……ミヨコちゃん、結婚したんだね」
「ああ、そう。そうなの、ふふ。……なんだか恥ずかしいわ」
「もしかして、文通のひと?」
「文通? ……あ、あのとき言ってたわね、そういえば。……ううん、残念だけどその人が相手じゃないの。文通相手とは会ってみて交際をした時期もあったけれど。……旦那さんとはお見合いなの。子どもは男の子が一人いて、……って私ばっかりが喋ってるじゃない」
お冷を一口含んでいると、オーダーしたものが続々と運ばれてくる。
十年前とまるっきり同じものが並んで、二人して笑いあった。涼が合掌をすると、ミヨコはぽつりと「お祈り、しないのね」と言った。
なんともいえない気持ちになった。
「もうやめたの」
「……いいのよ、涼ちゃん。責めているわけじゃないから。変わったものも、あるのだと思ったの」
「うん。……変わったの」
「それじゃ、いただきましょう。……ねえ、シェアしましょうよ」
お互いの一口分を交換する。
それはとてもくすぐったい。二人にしかわからない思い出である。
ケーキの二口目を咀嚼していると、ミヨコが切り出した。
「じつは、神岡くんから少し前に聞いてたの。涼ちゃんが生きてるって。ああ、神岡くん覚えてる? 四組の男の子よ。涼ちゃんに告白したこともあったわね」
「ええ」
「……でもあんまり詳しく聞けなかったし、彼もあんまり言えないからって。でも生きてるから、会えるよって。会いに行くかもしれないって言ってたわ。……だから今日なら……って」
涼は、真剣な眼差しを向けられて、ケーキの味がわからなくなった。
再会がこんなに喜ばしくとも、涼の過去をすべて打ち明けることは難しい。そうしてはならないと警察から指導を受けているし、これからも必要があれば偽ることもやむを得ないのである。あの頃のように、清く正しく胸を張って生きることはできない。
「運命的よね、だって今日七夕だもの。彦星と織姫みたいね」
「う、うん……」
涼はどう言えばいいかわからなかった。そのロマンチックな運命を信じて短冊に願った過去があるとは言いにくい。ぎこちなく笑むと、ミヨコは不敵に微笑んだ。
「………『好き』は、もうわかった?」
「え……?」
「あの頃、『好きっていうの、よくわからない』って言ってたわ」
周りの同級生の女子たちはませて、ボーイフレンドを作ったりして背のびをしていた頃である。ミヨコもその中の一人だった。
『好き』のきっかけを得たのは、その直後のことだった。自身の未熟な発達をミヨコに打ち明けたあと、真島に出会ったのは。その彼の名前と存在が合致するのは、さらにずっと後の話である。
「たぶん」
「ずいぶん、曖昧ね」
「ミヨコちゃんにきかれると、正しいかどうかわかんなくなって」
「私の基準で判断しちゃだめよ。涼ちゃんはどう思ってるの」
「………。わかった、わ。ながい、長い時間をかけたけど……」
涼に『普通』はわからない。一般的な常識も、世界も。その環境にいなかったから。
多くの人は特別を羨む。けれど、異端である涼からすればそれはないものねだりだと思う。どれだけ望んでも手に入れることのできない平穏を彼らは持っている。そのことに気がついていない。
そんななかでも、生きていこうと思えるのは、彼の存在が大きい。彼のそばでしか、生きていけないようにも思える。それを『好き』や『愛』といった言葉に収めるには窮屈だ。
ミヨコにそのすべてを告げるには難しいだろう。
それで、いいのかもしれない。
「今日は、ほんとうに会えてよかったわ」
「そうだね」
「また、会えるわ。……まって、いま連絡先書くから」
腕時計をみると、もうすぐ十四時だった。それを急いでいるものと思ったミヨコが、慌ててメモ帳を取り出した。
端麗な文字で彼女の住所と、連絡先の番号が記されたメモを受け取ると、彼女の姓や住所も変わっていて、それでも、こうして昔を懐かしめる相手がいる幸いにしんみりしたのだった。