九章 1993年 7月7日A


  ◇ ◇ ◇




 ミヨコとの再会を楽しんで、喫茶店で別れた。
 日は高く高く昇っている。汗ばむ陽気に耐えながら駅へ向かう。道中、老舗の和菓子店で見繕った和菓子を携えて。
 予定よりも遅れたが、今日の目的は墓参りのほかにもあるからだ。


 天下一通りの派手な電飾に彩られたゲートを潜るのは随分と久しい。
 まさかもう一度が訪れるとは、昨年の十一月には考えもしなかっただろう。南北に渡る長い通りを、あの夜は駆け走った。自分はもう死んでしまうのだと、覚悟を決めながら。息を切らせて、ゲートを抜けるとそこで王汀州と邂逅したのだった。

 昼間でもこの『神室町』はそこそこに賑やかだった。この街から人が消えることはほぼありえない。ガチャガチャと喧しく、雑踏が常に満ち溢れている。彼の記憶にある、香港の景色に似ている街。真島からは『一人では絶対に行かないでくれ』という注意を受けているが、今回の目的を果たすうえで誰の力も借りたくないと思った。


 焼肉屋『韓来』

 七福通り沿いにある焼肉店。かつて、匿い雇ってもらっていた店である。
 嶋野組からの追跡の最中、真島が立ち寄る姿を目撃したのを最後どうなったかは彼が答えたがらなかったが、口ごもるということは店への迷惑が発生したほかない。『ラン』という偽名をつかい、身を置くことを許してくれた人へ恩を仇で返す形となってしまった。
 その詫びを遅くなってしまったが、今日果たすつもりで訪れた。

 時刻は昼下がり。ピークは過ぎてそろそろ夕方からの営業準備のために一旦休憩に入る頃合いである。
 入店には胸が緊張で足が竦んだ。何度も頭の中で謝罪のシミュレーションを行う。
 どんな表情で、言葉で、伝えようか。ぐるぐると予行練習のパターンが回り続ける。しかし、いつまでも迷っていては日が暮れてしまう。意を決して店の扉を開けた。

 「いらっしゃいませー。何名様でございましょう」
 「あ、あの……」

 出迎えた店員は見かけない顔だった。涼の働いていた頃のなかにはいないので、昨年十一月以降から入った従業員なのは間違いない。女性従業員も当然、涼をただの来客とみなす。手間取っていると、その女性従業員に駆け寄ってきた一人の別の女性従業員が涼を窺うと、『ラン?』と小声で尋ねた。
 涼は頷いた。彼女の助け舟により、従業員用のバックヤードに通される運びとなり、胸を撫で下ろした。

 「ひさしぶりね、ラン。元気にしてた?」
 「はい。……あの」
 「いいの、いいの。店長なら今から休憩に入るから、休憩室に先にいってて」

 言われるがまま、休憩室で待たせてもらうことになった。そわそわして落ち着かないでいると、店長がエプロン姿のままで部屋へ入ってきた。

 「いらっしゃい、久しぶり」
 「ご無沙汰しております」
 「ああ、いいよ。そう緊張しないで、座って座って」

 パイプ椅子から立ち上がると、そのまま座るように促される。
 店長の様子から察するに、疎ましく思っているわけでも、怒っているわけでもなんでもないようだった。
 だがそれを上手に隠しているだけかもしれない、と考えると申し訳無さが募るばかりである。

 「ほんとうに、申し訳ございませんでした。……お詫びといってはなんですが」
 「ええ? いいよ、そんなに気を遣わなくたって。せっかく遊びに来てくれたのにさ」

 椅子には座らず、菓子折りを差し出して、深々と頭を下げる。
 店長は「弱ったなあ」と口にした。かえって自分の謝罪が相手の迷惑になっているのだとしたら、どうすればいいのだろう。自己満足の謝罪にせよ、そうすると決めた以上は頭を上げることはできなかった。

 「いいんだよ、ランちゃん。ほんとうに。……こっちだって何かあるって思いながら、雇ったんだ。君が謝ることはないんだ」
 「……ありがとう、ございます」
 「さ、顔をあげて。……せっかく来たんだから、食べていってよ。あ、待ってね……十一月分のお給料があるから。持ってくるよ」

 店長は優しく声をかけて涼の顔を上げさせた。
 そして給与の入った封筒を取りに、一度事務所の方へと向かっていくのを見送ると、ちょうどどこへ鞄の中に入れていたポケベルが鳴った。
 取り出してみてみると彼からだった。

 「吾朗さん……」

 祖母には墓参りとちょっとした参考書を買いに街へ行く、と伝えてあるが、思わぬ出会いもあったことで、予定よりも帰宅が遅くなっている。その心配を真島に伝えたのだろう。
 とくに、彼が行くなと忠告した場所へ来ているために、これ以上の長居は禁物だった。

 「お待ち遠様。はい、これお給料」
 「ありがとうございます。……あの、申し訳ないんですが……お昼は食べていけません」
 「あ、そうなの。そっか。残念だけど、また今度おいでよ」
 「ありがとうございます」

 店長への謝罪を終えて涼は店から出る。するとポケベルがもう一度鳴った。
 どこにいるのか、と数字で尋ねられている。一度電話をかけたほうがいいと思い、近くの公衆電話を探した。

 昼下がりの時間帯の真島は仕事だろう。事務所にいるか、どこかの店からか、公衆電話からか入電している。直接会って話すことの方が多いため、真島組に連絡を入れたことはない。涼の日頃の外出も同伴者が最低一人がいるため、今日のような外出は異例であった。
 もし連絡を入れるなら、確実に繋がるのは祖母からだ。今から帰宅することを祖母を通して真島に繋いでもらえばいい。

 適当な公衆電話に入ると硬貨をいれて、所定のダイヤルを押す。
 三コールの途中ですぐに繋がった。

 「もしもし? ……おばあちゃん、吾朗さんに連絡いれたでしょう? ……え? いれてない?」

 祖母はゆったりした口調で「涼ちゃん、どこにいるの?」と投げかけるだけである。
 つまり真島は祖母から帰宅時刻の話も聞いていないが、いまどこにいるのか、と入電しているということだ。
 ということは、彼はどこからか涼を見ているということになる。

 そう推理をしたとき、公衆電話の透明な壁をノックする音がしてちらりと視線をそらしてみると、涼は思わず後ずさった。

 「ひいっ」

 黒い眼帯、首元には喜平ネックレス。肌を彩る鮮やかな刺青が、ヘビ柄のジャケットの下から垣間見える。黒のレザーパンツに先端の尖ったシルバー入りの靴。外行き用の真島のアイデンティティが詰まった格好である。そんな彼は透明な壁に張り付くように立っている。
 公衆電話のなかで悲鳴をあげる涼とは対照的ににやっと笑った。背中には長物が入っているバッグが見えている。電話の向こうで祖母が「どうしたの?」と呼んでいるが、ちょうどそこで十円玉一枚の通話が終わってしまった。

 『神室町には、一人で行ったらアカンで』という忠告を無視したことが、白日の下に晒されることになろうとは。
 涼が恐れるのは、その言いつけを破ったことと、薄い透明な壁越しにたつ真島がその気になれば、壁を割るなり引きずりだすこともできるのに、そうしないことだった。

 「ご、吾朗さん……」
 「涼ちゃん、電話終わったやろ? 早う開けてぇや」
 「う、……で、でも」
 「なんやねん。中おったら暑いやろ」

 たしかに暑い。
 しかし、外に出たらその背中に背負った長物で仕置きされるのではないか、という想像が膨らんでしまう。
 痺れを切らした真島が「涼ちゃん」と呼んでいる。

 おそろおそるドアを開けて外へ出ると、自然に肩を抱かれる。
 内心はそれだけでもドギマギとしたが、真島はそのまま歩きだした。

 「……どないしたん?」
 「な、殴らないの?」
 「あ? なんで殴らなあかんねん」
 「……約束やぶったから……」

 真島は涼を見詰めながら緩やかに歩を進める。
 
 「一人ではアカンいうたヤツやろ? 今は一人ちゃう」
 「………」
 「それに。家から出たら、一応連絡が来るんや」
 「れ、連絡って、お祖母ちゃんはなにも言ってなかったわ」
 「それとはまた別や。いつ声掛かけようか迷っとったら、『韓来』に入ってったしのう」

 真島の言い分から、涼の足跡を、最初から把握されていたということになる。自宅周辺に私服警備がついている事は教えられていたが、まさか出先でも一々連絡がなされるのは、新しい情報だった。

 「涼ちゃん、お腹空いてへんの?」
 「さっきケーキ食べたから。………まさか、『韓来』からも……?」
 「まあ、せやな」


 とんだ厳重警備である。
 そうなる理由を理解しているつもりであったが、彼らはこれが公務である。にしても、税金の無駄遣いではないだろうかと思わなくもない。
 
 「特別経過観察や。ずっと続くわけやない。……今だけの辛抱や」
 「うん」
 「せや、涼ちゃん……スイカ買うて帰ろうや」
 「いいけど吾朗さん、お仕事はもういいの?」
 「ひひ、……仕事はどうにでもできる」

 もちろん普通のサラリーマンであればそんな事は言えない。彼の仕事については察しはつくが、暗黙の了解として深入りはしない。
 神室町を抜ける。住宅街エリアを越えた所にある、古びた商店街へと入っていく。アーケードの下をくぐったとき、地面のタイルの模様が、記憶に焼き付いた一年前に一度訪れた、十数年前に真島と邂逅したあの商店街であることにようやく気づいた。



 「あ……」

 涼は足を留めた。
 アーケードの内側にまで、梅雨も開けていないのに強烈な夏日が差し込んでいる。黒い薄手のワンピースを焦がすようにジリジリと照りつけて、肌がしっとりと汗ばんでいるのを感じた。立ち止まった涼の隣で真島は静かに待っている。セミの鳴き声が遠い過去の残響に重なる。
 長い時間をかけて、あの時と同じ場所にいま、二人は立っている。


 歩幅の大きい彼はずんずんと先へ進んでいく。
 今は、傍らにいる。
 
 追い縋って繋がれた手を、振りほどかれて。
 今は―――。

 涼はゆっくりと、右手を真島の左手へとのばすと指と指が絡まりあう。
 彼の手は大きく、すこし冷たい。
 
 足を踏み出す。一つ、二つと進む度に、アーケードの前で立ち尽くす昔の私が遠のいていく。
 「涼…!」と迎えにきた兄の叫ぶ声すらも、遠くに霞んでいく。
 さようなら、と心のなかで唱える。


 (わたしは、この人と生きていくから――)


 あの頃行けなかった、祖母の待つ家へ、帰るのだ。
 バナナではなく、スイカを買って。

 泣きじゃくる、昔の涼の背中が小さくなっていく。
 そうして、地表で揺らめく陽炎の向こうへと融けて消えていった。
 




  ◇ ◇ ◇




 畳のいい香りに浸りながら、濃紺に染まる中庭の草木をぼんやり眺めていると、すべてが夢だったかのように思える。
 横に寝そべる姿勢を仰向けに変えると、テーブルを挟んで向こう側に座る祖母が、視界の端に映った。水曜日の夜のバラエティ番組の賑やかな音声。テーブルの上には夕飯のあとに食べた、いくつか残ったスイカたち。
 昼間の熱も夜になれば冷やされる。その風を受けてまどろみを楽しんでいると、縁側とを仕切る障子が閉められた。

 「風邪引くで」

 熱気と石鹸の香りが混ざる。
 綿素材の柔らかなグレーのズボン、左目には清潔な医療用眼帯。上半身裸で首にタオルをかけている男が涼を見下ろしている。

 「吾朗さんのほうが、風邪ひきそう」
 「俺はここ最近、めっきりやわ。……お風呂どっちか先入りや。ばあちゃんはどうや」
 「あら。今いいとこなのよ。涼ちゃん、先にお入りなさいな」

 涼はなんだか面倒だと思いながら、体をゆったりと起こした。
 立ち上がるための手すり代わりに、ちょうど近くにあった真島の長い脚に掴まると「杖やないんやけど」と言いながらも両手を差し出してくれる。上手く立ち上がって、彼の背中側に回った時、その背中の般若と視線が合う。

 「こんばんは」
 「……ちょ、涼ちゃん怖いからやめてぇや、そういうの。ユーレイがおるみたいやないか!」

 背中に般若を負っているのだから間違ってはいない。
 そのやり取りを聞いていた祖母は、堪えきれず笑い出した。刺青は誇りや信念を映し出し、身に刻みつけたものであるが彼のものは特に生っぽく感じられた。すくなくとも涼は、その鬼女に表情があると思う。

 だって、彼の刺青はこの先も、一生を終えるまで共にあるのだ。
 涼が彼と出会う以前から宿っていたのかはしらないが、ある意味で彼を知る女としては彼女のほうが先輩にあたるわけで。決して侮っているわけではなく、敬意を表する形で時折、呼んでみたりするのだ。

 「えへへ」
 「はー、しゃあないやっちゃのう……! おらァ!」
 「きゃっ、吾朗さん! おちる!」

 背後から体を持ち上げられると、浮遊感。足をばたつかせて、ブランコを漕いだ時のような愉快さにはしゃいだ。
 そのまま脱衣所まで運ばれる。ぶらぶらと浮いていた両足がぺたりと床に揃うと、じゃれ合いの合間にふと静寂が訪れる。

 「吾朗さん……?」
 「……あとで、外行こか」
 「外?」
 「望遠鏡、借りてきたんや」


 それを聞いて涼は昼間に、真島が背負っていたあの長物の袋を思い出した。
 
 「あ、あれって……望遠鏡だったの?!」
 「なんやねん」
 「てっきり日本刀かと」
 「物騒やのぅ」

 『そんなわけない』と言いたげな顔をする真島に対して、ドスを常日頃から携行している人が、何を言っているんだと言いたくなるのを堪えた。時間が惜しいため、長湯をせず、早く風呂を済ませなければと上衣を脱ぐと、真島は驚きと焦りの混じった声をあげた。その狼狽える様がおかしくて涼は吹き出した。

 「吾朗さん、なんでよう! いまさら……っ! あは、ふふっ」
 「……いまさらて、涼ちゃん……じぶん嫁入り前やろ……! ちょっとは自覚せぇや!」
 「一枚脱いだだけじゃない」
 「な、なんでノーブラやねん……! 目の毒や……」

 元既婚者とは思えないほどの反応であるのが、余計に笑いを誘った。

 涼の体は、薬物服用で筋肉がついていた頃もあったが、今はその肉もなくなり、かといって痩せすぎというわけではなく。ある意味で、性差のない薄く無難な肉付きに戻ったといえる。
 概して、貧乳である。正直に言えば、胸筋の膨らみに関していえば真島にすら負けている。自分よりも肉付きのいい人間が下着をつけていないので、つけなくてもいいかという考えが涼の持論であった。おまけに、日常から露出しているのは真島のほうではないか。
 
 「吾朗さんのほうが、見せたがりでしょ」
 「暑いんやって」
 「大阪の頃のほうがちゃんと服着てたのに。寝る時はくっついてくるじゃない」
 「それはそれ、これはこれや……! 人肌が恋しいんや。あー、もー! 早う入り。着替え置いといたるさかい」

 ああ言えばこう言う。
 それは涼が元気になっていっている証拠でもあった。
 「ん?」と真島はなにかに気づいたように声をもらすと涼のほうへ振り返った。

 「――なんで、大阪の頃の知っとんの?」
 「……? ―――あ」

 はて。
 涼の視界が空中をさまようが、それが不味いことに、墓穴を掘ったことに気づく。
 入院中の事情聴取にて大阪・蒼天堀の話や『穴倉』において、彼の存在を仄めかす証言について言及を避けたのである。
 それは自分を守ろうとしてくれている彼の立場を守るためについた、墓まで持っていくつもりだった『嘘』の一端であった。証言しなかったということは、もちろん彼にもそれが伝わっていない。
 おまけにあの時の再会の仕方は――。

 『嘘』のほころびを自ら出してしまうとは大失態である。この際、『嘘』ではなく彼女自身の羞恥が勝っていた。面妖な狐の人間と遭遇して忘れ去ることは不可能といっていい。……無論、彼の追及がそれで止むはずはないことは想像に難しくない。

 下着をぽいっと脱ぎ去って、急いで浴室のドアを開け籠城態勢に入ろうとするのを、間一髪で防がれる。真島の手が扉をがっしりと掴んでおり、その間に半身が挟まる形で塞き止めている。単純な力比べでは勝算はない。

 「コラ、待てや……!」
 「お風呂入るの! 入るから!」
 「わかったわ。せやったら、もういっぺん風呂入ったるわ。一緒に入ろうやないか、……のお! 涼ちゃん?」
 
 扉の隙間越しにギラついた目が光を放っている。
 それが笑っているのだからよけいに恐い。本日二度目のヤクザスマイルに戦慄していると、下半身を脱ぎ去った真島が宣言通りに浴室内に押し入ってきた。

 「きゃーーー!」
 「そない叫ばんでもええやろが!」


 数分後、悲鳴を聞きつけた自宅周辺の私服警備班が、祖母宅のインターホンを鳴らした。
 玄関先で応対にでた祖母は「あんなの喧嘩のうちにも入りませんわ、おほほ」と、とりなした。



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