九章 1993年 7月7日B


  ◆ ◆ ◆


 夜風は空気中の水分を重く含みながらも、快晴の空を吹き抜ける。
 湯上がりの熱の高まった肌を、ちょうどいいくらいに落ち着けてくれる風を受けながら坂道を歩く。

 「懐中電灯、利き手の反対側で持ちや」
 「んん……」
 「まださっきの怒っとんのかいな」
 「怒ってませーん」

 浴槽の中。手遊び水鉄砲で勝敗を決しようということになった。
 涼が負けたら、隠していることを告白する。真島が負ければ今日は別室で寝るというものだった。涼からは当然不服の声があがったが渋々承諾した。
 そして彼女が敗けた。それからこんな調子である。

 祖母の家から出て、すこし上った先にある高台に向かう途中である。真島よりも先に歩く彼女は、ぷりぷりと怒っている。右手に持つ懐中電灯は不安定に揺れ、目先の視界は良くない。治りかけの足で何かの拍子に躓いて、転倒するかもしれないというのに。

 (怒っとるのも、かわいいんやけどな)


 退院してから数ヶ月。
 真島は自宅と祖母の家を行き来しているうちに、現在は半同棲の状態になっていた。一週間の内に数回ほど泊まっている。
 病院から帰宅してしばらくの間、涼は車椅子生活をしていた。その介助も行っていたので一週間に数度の頻度から、半日、長くて一日半と徐々に一緒に過ごす時間が増えていった。

 そこで、当初からあった彼女へのきめ細やかな対応を、別にそうしなくていいと落ち着いたのは、次第に打ち解けてきたからだろう。
 いい意味で彼女は甘え上手で、時にはそれがふてぶてしくもそれが愛らしい。根っからの妹気質ということがはっきりとわかった。こうした意地の張り合いは起こるが、こちらから先に折れれば収まるというのを真島は学習していた。
 
 「――悪かったて。ほれ、手ぇ繋ごうや」
 「……うん」

 右手を奪うと、彼女は必然と懐中電灯を左手に持ち替えなくてはならない。
 すこし大きめのライトのブレが少なくなって、コンクリートの道の前方を明るく照らす。

 坂を上りきると、小高く見晴らしのいい、空の拓けた場所に到着した。
 電線など遮るもののない場所で、天体観測にはもってこいの場所である。ここからもう少し上へあがったところに涼の生家がある。
 柵の代わりに白いガードレールが立っている。その手前にて、持ってきた望遠鏡を袋の中から出して組み立ててやる。

 肉眼の状態でも星は見える。
 左手側に都心を控えているが、住宅エリアの上空に前方の遠くに海がある。比較的見えやすい環境、おまけに晴れているので天の川は十分見られるはずだ。

 望遠鏡の設置が終わると涼に声をかける。
 彼女はうっすらと見える遠く海の方を見ていた。呼びかけに返事はなく、沈黙が答えだった。
 緩やかに吹く風の中に潮の香りを見つけると、胸の奥が疼いた。

 真島は償おうとしていた。
 彼女がこうして生きている、立っていられるのは自分が救ったなどという驕りはない。生かそうとする人間がいて、生きることを選んだのは彼女自身だからだ。『救いたい』と思ってきたし、そう尽力してきたが、彼女の気持ちがなければ成立しなかった。

 その奇跡に対してできることはただ『贖罪』だけだ。

 どうしようもなく、自由でいられることを望みながらも、『普通』を望んでいる。
 『普通』とは、縛られることだ。守るものを得ることで人は弱くなる。矛盾していると我ながら思うが、『普通』の人々はリスクを冒さないために、安定した幸せな人生を望み、果たそうとする。その結果が『普通』だ。得難いほどの高い理想をそう呼んでいる。

 『贖罪』という罪滅ぼしを行うことで、彼女に縛られる。
 なんでもない日常を。特別すぎなくていい、ちょうどよい加減の私生活を求めることの何が悪いのだろう。


 「――涼」

 彼女の眼差しが真島のほうへと移る。
 短かった髪は数ヶ月で肩まで伸びた。それがふわっと舞い上がる。怒りも悲しみも、なにも読み取れない表情をしている。

 「星、よう見えるで」

 手をこまねくと彼女は望遠鏡の前で屈んだ。
 
 「見えるか?」
 「うん。……きれい。とっても……」


 星の寿命は人よりも遥かに長い。
 彼女と出会った日の夜の星も、この夜空の星も同じだ。
 これからもきっと、変わらずに。

 


 ハイライトの紫煙が更けた夜に路をつくる。

 寝物語に彼女の『嘘』を聴いた。
 蒼天堀の頃の話だ。彼女は真島と会っていて、それが真島自身には身に覚えがないことだったので問い質したところ、奇妙な出会い方をしていた。
 ゲームセンター前でぬいぐるみを欲しがっている少女がいて、その子のためにぬいぐるみを取ったところ、それを見ていたアベック二人に譲ってほしいと言われたので譲った。その彼らからのお礼が面妖な狐のお面だったというらしい。
 ゲームセンターから出ると、長い髪を一つに結んだ隻眼の男がいて、どこからどう見ても真島吾朗だったので避けるべく、もらった面を着けた――とのことだった。

 真島はひとしきり笑い、それから侘びた。
 しかしその後に、衝撃的な勘違いを正すことになった。
 
 「――あ? なんやて?」
 「だ、……だからっ、養育しなきゃいけない娘がいるんだと思って」
 「バツ二やんけ!」

 あの、ぬいぐるみ少女が真島を「おとうちゃん」と呼んだ弊害が、まさかここで実を結ぶとは。
 『婚約指輪を買わないか』と提案した時に『高いもの買っちゃだめでしょ!』と叱られてしまったことがある。婚約指輪なんかよりも、彼女の命の代償として支払ってきた金額のほうが高いのだが、それを言った暁には、勢い余って首を吊りそうなので言わないことにしている。

 彼女の人生に大きな障害もなく、親の手塩にかけられ育てられていたら、同じ額になるだろう。国際的な犯罪組織に賭けられていたのだから、それにくらべれば安いものである。国家予算に相当する人間が、石のついた指輪一つ買うのに倹約するのかと思ったものだが、彼女なりの遠慮をしていたようだった。

 「……こんど指輪買いに行こうや」
 「大丈夫なの。 後ろから刺されたりしない? 追い剥ぎに遭わない?」
 「……神室町、ひとりで歩かへんほうがええわ」

 彼女に備わったヤクザキラー体質を根治することは不可能である。見かけに反して、肝の据わった態度が受容されていると思わせるからだ。普通の『優しい男』でしか、相手ができなさそうな女が怯えを示さないとあれば、手に入れたいと思わせる。その魔力を持っている。魔力はこの十年を経て創り上げられ、いわば彼女は、最凶のキメラのようなものだった。



 
 「――ごろーさん」
 
 深夜二時半。
 二階にある六畳の和室。二人で寝るにはやや手狭なその部屋には、低い位置にベランダのような窓が一つある。窓辺に腰掛け、そこから外の景色を眺めながら、真島はひとり、煙と戯れていた。

 紫煙のにおいで目が覚めたのか、涼は起き上がると布団の上を這った。
 片脚にすり、と猫のようにすりついて、どうやらそれはまだ寝ぼけているようだった。片手でまあるい頭を撫でると、腿のうえでへにゃりと笑うのである。冥利に尽きる。こんなにくだけた表情を見られるのは、自分だけの特権であると思う。
 
 「さびしいん? よーしよし……」

 ユーカリの木の上で眠りこけるコアラのように、足に巻きついている。瞼は下りていて、たまになんとか持ち上げようとしているが、とろけている。
 煙草を灰皿に押し付けて始末すると、彼女を起こさないようにそっと布団の中へ運んでやる。
 畳と古い家の香り、煙草のにおい。そして隣に眠る彼女と同じ、石鹸とシャンプーのにおい。同じ布団の中へ潜ると、どうにも恋しくなって、彼女のうなじに鼻をおしつけた。

 陽のにおいのする、その香りを深く深く吸い、肺へと送りこむ。
 泣きたくなるほど、好きだった。


 『穴倉』の頃に感じていた香りを抱えて眠る。これが、――仕合せというものだろう。



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